あがれッ

うびぞお

第0話 Before the Match

大好きな子がいるんだ

それってすごいよね




 いつも通り、騒がしい選手控室の片隅。


 緊張してるような、していないような仲間たちの声、ベンチにバッグが当たって音を立て、バッグの中身がこぼれ落ちた音。それに誰かが悲鳴のような声を上げて、誰かが笑いながらバッグから落ちた物を拾い上げる気配。

 いつもの試合前の風景。全く同じことなんてなくて、毎回、少しは違うけど、大体同じ。すずの仲間たちが、試合の前だからといってシンっと静まりかえってることなんかない。

 涼は、隅っこのパイプ椅子でぼんやり仲間達を見ていた。大事な試合だが、緊張するようなタイプではない。


すず、スパイクの靴紐ちょっと緩んでるから、締め直すよ」

 そう言って、まさは、仲間達から背を向けるようにして、椅子に座っている涼の足元に屈む。

「さんきゅ」

 ゴールキーパーの涼の手には、既にグローブが嵌っていて自分では靴紐を縛ることはできない。

「……お客さん、大きなお足でございますね」

 なぜか敬語で雅が紐を引っ張る。

「ほっといて。どうせ大きいのは足だけじゃないもん」

「何をしたら、こんなにデカく成長するん?」

 靴紐を縛り終えた雅が、屈んだまま涼を見上げて笑う。

 涼の身長は170cmをゆうに超えていて、けして小さくはない雅であっても、10cm以上は身長差がある。



「中学生の時に、背伸びして年上の人を好きになったから、大人になりたくて背が伸びマシタ」


 涼が雅の大きな丸い目を覗き込んで言う。


「……今は?」



「自分より小さい雅が好きだから、もうこれ以上は大きくならないと思いマス。」


 涼は、さささっと周りを見渡して、誰も自分たちに目を向けてないと確認すると、目の前にしゃがんでる雅の額にちゅっと口付ける。



「わ!やめて、こんなところで!!」

 雅は、涼にしか聞こえないような囁き声で器用に叫ぶと、瞬間的に顔を赤く染め上げて、ぴょん、っと立ち上がって、数歩後ずさった。


「行くよー!」

 そこへ、キャプテンの大きな掛け声がして、ピタ、と控室のざわめきが消えた。

 涼も雅も、仲間たちもみんなキャプテンを見た。

 キャプテンが不敵に笑って、「行こう!」と檄を飛ばすように言い放つと、おうっと皆んなの声が揃い、ざ、っと立ち上がった。


 もちろん、涼と雅も、控室からピッチに向かって、大きく一歩を踏み出した。



 長谷川はせがわすずと、西澤雅にしざわまさは、高校1年生。全日本高校女子サッカー選手権大会への出場を目指して走り出したばかりだ。




_____ 




「上がれぇっ!」


 涼は、右サイド、ピッチの右側を前を向いて走っていく背番号7に向かって、思い切りボールを蹴った。

 晩秋の高い青空に、一瞬、白いボールが放物線を描く。

 涼のゴールキックはまだまだ力不足で、狙った方向に期待した距離でボールを蹴り出すだけの力はない。

 それでも、これが今の涼の全力だ。


 もっと、雅を走らせてあげたいのに。


 涼は悔しさで胸が詰まる。


 そんなすずの思いを、知ってか知らずか、ボールの行き先を見ながらまさは走っていく。

 ボールは涼の狙いよりも、ピッチの中央寄りへと落ちて、高く跳ねる。

 雅は、敵のMFミッドフィルダーと競争するようにボールを追いながら、周りをうかがっている。


 そんな雅の近くに味方FWフォワードの後藤が走り込んできて、雅より手前の場所でジャンプしてボールをヘッドで落として前に落とすと、ドリブルをしながらゴールに向かって走り出す。

 雅に付いていた敵MFが後藤とボールを見て、雅から視線が外れた。

 雅はその隙を見逃さず、一人で敵ゴール方面へ全力で走る。



 まさ、行け



 ゴールポストの前からすずは、まさを応援する。

 ゴールキーパーはここから離れられない。


 その代わり、他の仲間の位置を確認する。

 誰がどこにいる?どう動けばいい??

 場合によっては、涼が指示を出さなくてはならない。

 この11人の中で、いちばん経験のない涼が。


 ただでさえ広いピッチが、無限に広がるような気がして怖くなる。鮮やかな緑の芝が、蔦になって絡み付いてくるみたいだ。

 だが、涼が叫ばなくても、もう先輩たちは走り出していた。

 まだ、涼に指示されるほど先輩たちは甘くはない。

 涼が安心すると、広がっていた視界が再びボールに向かって集約する。


 そして、後藤がボックスと呼ばれるゴールポストを囲む白い枠の前から上げたボールがぴったりと雅の前に転がっていく。

 ボックスの中で雅が敵のディフェンスを振り切ってゴールに向かう。



 決まる


 涼は、昔から、大事な瞬間でシュートを放ったときに時間が止まるように感じることがあり、そんなときは必ずボールはネットに吸い込まれる。



 果たして、涼のその感覚のとおり、雅の足から跳ねたボールは、敵GKゴールキーパーの指先を弾いて、ゴールネットの右隅に転がり込んだ。



 雅が両腕を高く上げてガッツポーズを取った。


 それから右腕をぐるんぐるんと回しながら、涼を振り返る。

 両手で胸の前でハートを作って、涼の方へ押し出す。

 それは、雅が後ろにいた仲間たち全員にハートを送ったように周りからは見えたかもしれない。

 でも、実は、それは、雅から涼に送られているハートだ。

 雅と涼だけがそれを知っている。


 そして、雅が後藤や先輩たちにぐちゃぐちゃに抱き付かれまくって、バランスを崩して転がってしまう。

 子犬たちがじゃれ合っているみたいに。

 涼は少しだけ悔しい。今は、自分は遠すぎて駆け寄れない。キーパーがゴールを離れるのは憚られる。


 でも、雅の目はずっと涼を追っている。涼も雅を見てゴールの前で大きく右腕をぐるんぐるんと回し、それから、右手で左胸をぽんぽんと軽く叩く。



 雅、届いてるよ。



 雅がそれに気付いて破顔した。涼には雅の大きな丸い目が細くなるのが見えた。

 二人だけのサイン。他は誰も気付かない。





 そして、審判のホイッスルが高く大きく鳴り響く。

 試合終了だ。

 涼と雅を含むみんながガッツポーズやジャンプをして喜ぶ。

 涼もゴールを守り切ったことに安心して両手を空に持ち上げた。

 それから、徐々に選手たちは中央へと集まっていき、抱き合い、肩を叩き合い、互いを称え合う。

 絡まるように11人がベンチの方に動いていくと、ベンチからもサブメンバーとマネージャーが転がり出てきて歓喜の群れに混ざる。


 選手権の地区大会。

 冬の全国大会出場権の獲得までは、あと一試合を勝ち抜かなければならない。


 すず…!


 涼は雅に呼ばれた気がして、辺りを見渡す。

 絡み合う仲間たちを押し分けるようにして、雅が涼に駆け寄る。

 そして、ぎゅっと涼の高い腰に手を回して抱き締める。

 涼の手には、まだ大きくて厚いグローブが付いているから、熱を帯びた雅の体を手で感じ取ることはできない。

 それでも、涼は雅の頭を腕でぎゅっと抱え込んで抱き締め返す。

 雅が涼の首元に顔を埋め、涼も雅の髪に口付けると、涼の鼻に雅の汗の匂いが届いた。雅も涼のユニフォームの匂いを吸い込んだ。


 僅か1秒もない二人だけの抱擁


 そんな雅と涼に気付いた後藤が、雅の背中から抱き着き、さらに先輩たちが、勝試合の立役者になった1年生3人を囲む。

「うあああああああ、にしざあ、ごとぅー、はせがあ」

 3人の苗字をキャプテンが泣きながら呼ぶ。

「サッカー部、はいってくれで、あいがとおおおおお」

 キャプテンの号泣と鼻声に、仲間たちが笑いを堪え切れなくなった。


「ほーらお前ら、挨拶がまだ残ってるよ!」

 監督の声が笑い声の中にぴりっと割り込んでくる。慌てて整列しようとみんなは駆け出していく。


 グローブを付けた涼の手では雅の手を取れない。 

 手を繋ぐ代わりに、涼の手首を雅が掴んだ。涼は腕を引っ張られる前に走り出して、涼と雅は並んだ。



 一緒にサッカーやろうよ




 雅がそう言って涼を誘ってから、二人で並んで、サッカーボールを追い掛けて、ピッチを、フィールドを駆けている。


 

 涼と雅は、二人でそう決めた。


 


「雅」

「なん?」


 並んで走りながら、涼は雅の名前を囁くように呼ぶ。小さな声だったけれど、しっかりと雅は涼の声を聞き取っていた。



「大好き、もう、めちゃくちゃ好き」


「……分かってるから、いきなり言わないで」

 雅が真っ赤になって俯くと、芝に足を取られて躓き、転びそうになった。雅が頬を赤く染めて照れ笑いをしながら涼を振り返った。



 あははー、わたしの今の恋人は可愛すぎる。


 涼は高く青く深く澄んだ空に向かって笑い声を上げた。


  

 

 

 

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