2-7

 じきに雨は弱くなるだろう、とキルトは言ったが、日が沈み辺りが夜闇に覆われても雨の勢いは衰えなかった。

 アイナを帰せないまま夜を迎えてしまい、アイナが作業机の椅子に腰掛けて自らの口の中でビスケットが噛み砕かれる音を楽しんでいるのを何の気なしに見つめていた。


「お兄さん」

「なんだ?」

「これ、音面白い」

「そうか」


 アイナの無垢な笑顔を前に無理やり帰す気は起きない。

 しかし理由が理由とはいえ子どもを親の許しもなく泊めるのはいかがなものだろうか?

 どうすればいいか、と腕を組んで思案するキルトを口の中のビスケットを呑み込んだアイナが不思議そうに眺める。


「お兄さん」

「なんだ?」

「アイナ帰る?」

「無理して帰ることはないぞ。ただお前の親が心配しているかもしれないからな。どうしようか考えてるんだ」

「アイナ心配されない」

「そんなことはないだろう」


 冗談はやめてくれ、というニュアンスで否定すると、アイナが首を横に振った。


「アイナ心配されない。帰ってもいつも同じ」

「いつもと同じ?」


 アイナは頷いた。

 言葉足らずのアイナの伝えたいことが掴めずキルトは頭を捻る。

 いつも同じ――心配もされずに常からいないも同然の扱いを受けているのか?

 あまり家庭には恵まれていないらしい、とキルトはアイナの境遇を解釈した。

 森で会うたびに一人で遊んでいる姿が思い出され、自分の解釈が完全な見当違いではないと感じる。


「本当に親は心配しないんだな?」

「しない。いつも同じ」

「今日は雨が止まないかもしれない。そうなると一晩ここに泊まることになるが、それでもいいか?」

「泊まる?」

「まあ……そうだな。どちらかと言えば留まると言うべきかもしれないな」


 アイナに訊き返され、キルトは言葉に迷った

 『泊る』と『留まる』ではだいぶ意味合いが違い、『泊る』だと寝食を兼ねているような印象を与え、まるで緊急性を感じさせない。

 キルトの軽い苦悩など露知らずアイナは温和な笑顔を浮かべた。


「ここにいる方が面白い。お兄さん面白い」

「そうか。お前に帰る気が無いならそれでもいい」


 身の安全云々は考えずアイナの自由意思に委ねることにした。

 帰りたければ一人でも帰るだろう。

 差し迫った考え事がなくなると、急に空腹を覚えた。

 作業台の傍に設えてある物置棚の三段目からビスケットの箱を手に取る。


「アイナ。カップ貸してくれ」


 キルトに言われてアイナが両手に挟み持っていたカップを渡した。

 カップを受け取ると中の水かさは僅かしか残っておらず、キルトは仕方なく暖炉で熱した鍋からお湯を掬い取った。

 赤い果実の灰汁が浮かんだお湯の中にビスケットをそっと落とす。

 キルトはカップを揺らし、小さく波打つ水面を見つめる。


「アイナ。退屈じゃないか?」

「森よりも面白い」


 そう答えるアイナの表情を一瞥し、無理して言っているのではないと受け取りカップの水面に目を戻す。

 普段から依頼者との交渉しかしないせいで会話が途絶えてしまった。

 何か継ぐべき言葉を探してキルトはかろうじて口を開く。


「眠たくなったら寝ていいからな」

「お兄さん、寝ましょうとか言わない?」

「寝たいと思ったら寝ればいい」


 気のない口調で告げ、水面からビスケットを摘まんで口に運んだ。

 水の染み込みが足りず苦労して噛み砕く。


「お兄さん。バリバリ」


 アイナが楽しそうな顔でキルトの口辺を指差す。

 ビスケットの擬音語を表わしているのだとわかり、気恥ずかしさを覚えて呑み下した。


「これも面白のか?」

「面白い」

「なんでも面白いのか?」

「ううん」

「どんなものは面白くないんだ?」

「家と家の近く。いつも同じ」

「同じ事ばっかりやってるってことか?」

「そう。面白くない」

「必要だからやってるんだと思うけどな。まあしかし、お前が面白くないと言うなら面白くないんだろう」

「お兄さん面白い」

「……俺は面白くなんかないぞ」


 またか、と思いながら否定した。

 それでもアイナは愉快げにキルトを眺めている。

 キルトは正面から視線を返すが言うべきことが見つからず視線をカップの水面に戻してしまう。

 丁度茹でる時間が頃合いだろうと作業台から離れて暖炉に向かう。


「俺は仕事に戻るぞ。一人で遊んでてくれ」

「何するの?」

「赤い実はそろそろ灰汁抜き出来ただろうからな。次は緑の苔を消毒のために茹でる」


 答えながら鍋を覗き、赤い果実の灰汁が目安の塩梅で浮いていることを確認した。


「アイナもやる」

「ダメだ、やけどの危険がある」

「お兄さんのやること面白そう」

「今回は本当にダメだ。話し相手ぐらいにはなってやるから、そこに座っててくれ」

「わかった」


 安全のために断っているのが伝わったのか、アイナは素直に従った。

 その後しばらくはアイナからの質問が絶えず、キルトは苔を茹でながら返答をしていたが、緑の苔を湯から上げる頃にはアイナが船を漕ぎだしていた。

 キルトは苔を湯から上げ終えると、アイナが椅子から落ちないように椅子を作業台へ近づけ、眠りを妨げないよう静かに染料作りを進めて夜は更けていった。

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