2-6
キルトたちが街を出て工房へ向かう間に夕空を灰色の雨雲が覆った。
いまにも雨が降り出しそうな空模様にキルトは荷車を引く速度を上げたが、努力もむなしく坂道が見えてきたところで強雨が二人を襲った。
アイナの度重なる好奇心に満ちた質問に答えていたせいか、荷車を引く速度はいつもより落ちていたがキルトはアイナを責める気はなく、ただただ時機の悪い雨を恨んだ。
「明日、グエがいっぱいになるよ」
アイナが呑気に荷台の上で言った。
声が雨によってかき消されたことにしてキルトは無言で荷台を引く。
「葉っぱの上に水があってね。落とすの面白いの」
「……」
「でも、ちょっと冷たい」
アイナは言ってから身体を震わせる。
「つめたいと思うなら黙っててくれ」
「こういう時、虫がいないからつまんない」
雨の時でも森で遊んでるのか、とキルトは呆れたが口にはしない。
アイナのほとんど独り言のような話を聞いているうちに、坂を登り切った場所にある工房の建物が見えてきた。
土砂降りの中、キルトは工房の前に荷車を停める。
荷台のアイナに振り向いて顎先で工房を指し示す。
「アイナ。降りて中に入れ」
「お兄さんは?」
「俺は荷車を置いてから行く」
「アイナも手伝う」
「降りてくれた方が軽くなって楽なんだ」
付け足すように言って、早く工房の中へ入るよう人差し指を振って指図する。
わかった、とアイナは応じ、素早く荷台から降りて工房の戸を開けて中に入っていった。
アイナが降りて軽くなった荷車をキルトは水樽の後ろまで移動させる。
強い雨でしとどに濡れながら、万一のために水樽の傍に埋め込んだ丸太の杭に荷車を縄で固定した。
荷車の固定が済むと購入した部品の箱を持って工房に駆け込む。
「お兄さん。来た」
工房に入ってすぐの場所でアイナが所在なげに立っていた。
襤褸の裾と桜色の髪の先端から水が速い間隔で滴り落ち、土の床に染み込んでいく。
肌寒さを感じたようにアイナがぶるりと震える。
「寒いんじゃないか?」
「寒い」
「そうか。待ってろ、暖かくしてやるから」
キルトは無表情に告げると、部品の箱を壁際の作業机に置いてから工房の隅にある暖炉に歩み寄った。
慣れた手際で小火を起こすと、暖炉の傍に置いてある三脚に似た焚き火台と寸胴鍋を小火の上に立てる。
寸胴鍋の中には塗料作りのため水が張られており、火が強くなると段々と水が熱されていく。
「来いアイナ。暖かいぞ」
アイナはキルトを信用してか特に疑問を抱く様子もなく暖炉に近づいた。
暖炉から漏れ出る熱波を浴びてアイナの顔が綻ぶ。
「ふえ。暖かい」
「それ以上は近づくなよ。やけどするからな」
アイナに注意を与えながらお湯に変わりつつある鍋の水を覗く。
鍋の底に小さな気泡がこびり付き始めたところで暖炉を離れる。
「お兄さん?」
「ついでだから染料を茹でるぞ」
言ってすぐに作業台に置いてあったバケツを運んでくる。
バケツの中には昨日に収穫した青い花が水に浸した状態で入っており、振って水を切ってから鍋に投入した。
「それ、昨日の花」
「そうだ。染料を作るにはまず茹でて不要な養分を染み出させないといけない」
普段は話す相手がいないゆえの反動か、アイナへの説明は饒舌だ。
しかしアイナはキルトの説明には興味なく暖炉の熱に心を緩ませているだけだ。
「養分を染み出させた次は水分を抜くために熱で乾かす工程がある。水分を抜くことで不純物の少ない染料が作り出せるんだ」
「あっつくなってきた」
「水分を抜いて乾燥が終わると、次は……熱いのか?」
説明をやめてアイナを気に掛ける。
アイナは着ている襤褸をつまんで肌から遠ざけた。
「あっつい」
「水を含んでるからか。すまん、配慮が足りなかったな」
「あっつい」
「絞ってやる、服貸せ」
キルトが掌を差し出すと、躊躇いなく襤褸を脱いで掌の上に置いた。
襤褸の下は所々に泥のようなシミの浮かんだ薄手の肌着一枚だけで、不健康に痩せた華奢な肩幅と手足が露わになる。
あまりの痩身にキルトは不安を覚えた。
「アイナ。お前ちゃんと食べてるか?」
ビスケットしか食べない自分を棚に上げて尋ねる。
アイナは一瞬きょとんとしてから、問いかけの意味を呑み込んで頷く。
「食べてる」
「そうか。ならいいんだ」
肉がつきにくい体質なのかもしれない、と解釈してアイナから預かった襤褸服を土の床に近づけ力を入れて捻った。
暖炉の熱によりぬるくなった水を絞り出し、滴る感覚が遅くなってからアイナに返す。
「これでいいだろ」
「ありがと」
アイナは襤褸を受け取ってすぐに着直した。
途端に柔らかい笑顔を浮かべる。
「さっきよりいい」
「熱いなら暖炉から離れた方がいいぞ。やけどする」
「ふえ。わかった」
キルトの言葉を聞き、暖炉から数歩ほど距離を取る。
屑籠を置いた反対の隅まで移動した。
「そこまで離れなくてもいいぞ」
「ふえ?」
「お前がいいなら構わないが、物に勝手に触るなよ」
「わかった」
アイナが屑籠の傍で頷く。
キルトも作業服に雨水を含んでいたためいよいよ熱さに耐えかねて作業服を脱ぎ、アイナの視線に妙な気恥ずかしさを感じながら寝るためだけの隣の部屋から作業服を持ってきて手早く着替えた。
出入り口を少し開けて雨の具合を確かめる。
雨は帰ってきた時より激しくなっており、濡れたいと思わない限り外に出るのを躊躇う天気だ。
「帰れない」
アイナが隙間から外を見て呟いた。
キルトは出入り口を閉めてアイナを振り向く。
「帰れるようになるまでここで待ってればいい。じきに雨は弱くなるだろうからな」
「いていいの?」
「構わん。だがやたらに物に触らないように。気になる物があったら俺に聞いてくれ、いいか?」
「わかった」
アイナが理解の意で頷くと、キルトは染料作りのため鍋の前に戻った。
すぐにアイナが毛布の上に横たわるムネヒサを指差して質問したので、仕事はいつも通りとはいかなかった。
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