二章 いつもより少し難しい依頼

2-1

 街へ配達に出掛けた日から一夜明けた朝。

 キルトは工房から歩いて三〇分ほどの場所にある山林へ機工人間に使う染料の調達のために来ていた。

 森の中で唯一の道らしい道に取っ手付きの木製バケツを三つ載せた荷車を停めておき、キルト自身は木製バケツを一つだけ提げて、赤色の染料となる果樹の密生した地帯を歩いている。

 梢の先に赤い果実を見つけると、その樹の幹を蹴って果実を落とすという意外と体力が必要な作業を何度も繰り返す。


 ――すりすりー、すりすりー。


 十五本目の果樹からやっと赤い実を三つだけ揺すり落とした時、樹の向こう側から少女のはしゃぐ声が聞こえた。

 地面に落ちて割れなかった赤い実をバケツに入れてから、声の出所を確かめようと木の反対側へ覗いた。

 キルトが覗いた所にはスモックのような黄土色の襤褸切れを羽織った少女が茂みの前で屈みこみ、機嫌良さそうに揺れる身体に合わせて小さな背中に垂れる桜色の髪の毛も微かに揺れていた。


 先日に目撃した少女だ、とキルトは桜色の髪を見て真っ先に思い出す。

 キルトが以前に緑色の染料になる苔の調達で森の奥にある沢へ行った時も、桜色の髪をした少女は同じ服装で川辺の小カニを石で通せんぼして遊んでいた。それより以前にも桜色の髪の少女が黄色の蝶を追いかけている姿も見かけたことがある。

 茂みのところに何かあるのか、と疑問の目でキルトが少女を見ていると、少女が視線を感じたのか不意に振り向いた。

 急に振り向かれて驚くキルトと目が合うなり、少女は弾けるような笑顔を浮かべた。


「お兄さん」

「……俺の事か」

「また会ったね。お兄さん」

「……そうだな」


 少女が自身を覚えていることに戸惑いながらもキルトは言葉を返した。

 誰かが来るのを待っていたかのように少女が上半身を機嫌よく細かく動かす。


「今ね。虫さんが手をすりすりしてるの」

「虫が手をすりすり?」


 少女の弾む声での説明からキルトは状況を想像できなかった。

 虫にある手と言えば触手だが、まさか触手をすりすりしているとは思えない。というかそもそもすりすりとは具体的にどんな動きだろうか。

 キルトの頭の中での熟考も我知らず、少女は嬉しそうな笑みのまま話しかける。


「お兄さんも見る?」

「……面白いのか、それ」

「面白い」

「まあ、面白いというなら」


 少女のはしゃぐ様子に合わせる意図も含めて、キルトは少女へ歩み寄り足元を覗いた。

 枝豆ぐらいのサイズの蚊のような虫が前足を擦り合わせている。

 だからなんだろう、とキルトは馬鹿らしくなった。


「面白いでしょ?」

「そうだな」


 気のない返事をして少女のもとを離れる。

 少女はキルトに虫を見せてしまうと途端に虫に興味を無くし、今度は自分から離れようとするキルトに興味の視線を向けて来た。


「お兄さん。今日も色集め?」

「……うん?」


 キルトは少女の問いかけが予想外で振り返った。

 俺が何をしに来ているのか覚えているのか、と思い至り、そうだと答える。


「今日も色集めに来た」

「何を取るの?」

「この辺になってる赤い実だ」

「あの赤い実を取ればいいの?」


 キルトの話を聞いた少女が近くの木のキルトの背よりも高い位置に実っている赤い実を指差す。

 あれが赤色の原料になるんだ、というキルトの説明も聞かず、赤い実を指差したまま上の空の様子でいた。

 無言で赤い実を眺める少女をさすがにキルトが不思議に思い始めると、少女が不意にキルトへ向き直った。


「アイナ取ってくる」

「それには及ばん。好きに遊んでていいぞ」

「取るの」


 意気込みのように言うと、キルトの横を抜けて手近な木の幹へ手をつける。

 少女が本気で木に昇ろうとしているのだと察してキルトは慌てた。


「やめとけ。危ないぞ」

「取るー。取る」


 キルトの制止の声を聞かずに、少女は幹の表面の溝に手を入れたり枝の根元などを掴んだりして危なげなく木を昇っていった。

 赤い実のついた枝と同じ高さまで昇ると一度キルトを見下ろす。


「お兄さん」

「あんまりこっちを見るな。落ちるぞ」

「わかった」


 少女は素直に従い、キルトから赤い実の方へ目を移す。

 片手を伸ばし枝の先から赤い実をむしり取る。


「取れたー」


 知らせるように言ってから赤い実をキルトのいる方向へ落下させた。

 キルトの目前に赤い実が拡大鏡から覗いたかのような大きさで迫ってきた。

 ぐちゃ、という水を含んだものが潰れる音。

 赤い実がキルトの額に当たって破裂し、彼の顔の上半分を赤く染め上げていた。

 果汁が流れ伝って目に沁み、キルトの閉じられた瞼の下から自然と涙が溢れ出る。


「お兄さん。赤いみー」


 果汁で赤く染まったキルトの顔を見て、少女が木の上からおかしそうに笑った。



 近くを流れていた小川で顔を洗ったキルトの横で、少女が真似をして顔へ川の水を打ち付ける。

 キルトがつなぎの袖で顔を拭くのを見て、少女がスモックの裾をまくって顔を拭き始めた。

 ずっと顔をスモックで擦っている少女へキルトは改めて正面から向き合った。


「俺の真似をして面白いか?」

「ふえ?」


 少女が不思議そうに顔を上げた。

 子どもらしい無垢を含みながらもどこか捉えどころのない少女の瞳に、キルトは妙な寂しさを覚えながら問いかけを続ける。


「この森で何をしてたんだ?」

「遊んでた」

「親は近くにいないのか?」

「アイナだけだよ」

「そうか。一人か」


 以前に会った時も遊んでいたからこの森は遊び場で森の近くに住んでいるのだろう、とキルトは解釈して質問を変える。


「お前はアイナっていうのか?」

「うん。アイナ」

「一人で遊んでて親に心配されないか?」

「されない」

「心配されないのはどうかと思うが、人様の家庭の事情についてどうこう言える立場じゃないからな。親とアイナが互いに承知し合っているのなら大丈夫なんだろう」


 親に追い出されたのでは、という心配を打ち消してキルトは自分を納得させた。

 アイナはキルトをまじまじと見つめて小首を傾げる。


「色集め、やらないの?」

「これから再開するんだ。一度荷車に戻ってバケツを取り替えたら今度は青の原料になる花を取りに行く」

「赤み実は取らないの?」

「ああ、今日はもう取らない。だから好きな所で遊んでていいぞ」


 遠回しにアイナの手伝いは遠慮した。

 先ほどのように無様な目には遭いたくないのが本音だ。

 けれどもキルトの思惑とは裏腹に、アイナはいきいきと瞳を輝かせた。


「青。お兄さんについてく」

「好きな所で遊んでていいんだぞ?」


 念を押すように言う。

 アイナは遠慮されているのに気が付かず笑顔を返す。


「色集め面白い。お兄さん面白い」

「……そうか」


 何を言ってもついてきそうなアイナのご機嫌ぶりに、キルトは自分が折れることにした。

 赤い実の詰まったバケツを足元から持ち上げる。


「一応言っておくが邪魔だけはするなよ」

「手伝う」

「手伝いだと思ってすることが、本当に手伝いになればいいがな」


 嫌味っぽくアイナに言ってから、キルトは荷車を停めた林道のある方角へ歩き出した。

 アイナは小さな歩幅を嬉々と弾ませながら先を行くキルトに付いていった。

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