プラットホーム

はるはる

プラットホーム

 上り列車のプラットホームには、私たち以外の人は、ちらほらと見えるだけだった。

 三月も半ばに差し掛かり、世間では春の訪れが囁かれている。けれど豪雪地帯とまでは言わずともそれなりに雪の降るこの街では、春と言う名の来客の姿はまだ見えなかった。朝夕はまだまだ寒い。

 青いペンキが剥げかけたベンチに座っている私たちにも、時折、容赦なく冷たい風が頬を切りつけるみたいに吹いた。


「うひゃぁ」とその度に彼女は悲鳴のような声を漏らす。小さな子供みたいにほっぺたが赤くなっていた。 

 風と、彼女の動きとで、いつも私の行く先をまるで羅針盤のように示してくれていたポニーテールも揺れる。それを凝と見つめていると、心の中まで冷たい風に吹き荒らされているみたいに思えてくる。


「もう、そんな顔しないでよ」


 と、彼女は困ったようにほっぺたを掻きながら笑った。

 ごめんと私は視線を下げた。その先では、二つの影が随分と長く伸びていた。まもなくの夕暮れを告げるみたいに。


「行きにくくなるじゃんか」

「……行かなきゃいいのに」


 彼女の上京を知った瞬間から心の裡で育っていた言葉が分水嶺を越えて溢れ出して、表面張力の外側に零れてしまった。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ彼女は目を大きくさせた。けれどすぐに、にへらと笑って小さく息を吐く。


「そういうわけにもいかないでしょ」

「…………」


 まるで母親が駄々をこねている子供を諭すような口調だった。


 わかっている。私だって、わかっているつもりだ。

 人見知りな私の幼稚園からの唯一の友達で、大好きな親友。


 だから、去年の冬休みに彼女からまったく予想していなかった大学に進学すると告げられた時も、「がんばってね。応援してる」と言った。言えたはずだ。あまりに突飛な話――少なくとも私にとっては――だったから、脳の記憶装置が上手く作動しなかったみたいで自信がない。


 ……突きつけられた唐突な現実を受け入れたくなくて、自分で装置のスイッチを切った可能性の方が高いかもしれないけど。

 あの日、色濃く残っている記憶と言えば、その日の夜に一人で布団にくるまって泣いたことになる。暗い部屋で独りになったとき、遅れて湧き上がってきた実感に襲われたのだ。正直に言えば、今も同じような気持ちだし、昨日も泣いた。私を置いて行く彼女を心の中で責めたことだってあるけれど、それはお門違いと言うものだった。


 彼女は自分の夢のため上京して大学に通う。それを私に止める権利なんてない。彼女の人生は彼女のもので、私が決めていいことなんて一つとしてないのだから。

 一緒に地元近くの大学に行って、これからも一緒だなんて私が勝手に思い込んで、夢に描いていただけだ。独りよがりに夢想した未来予想図だった。


 彼女はもうすぐ――正確に言えば、三十分足らずで――やって来る電車に乗って、この街を出ていく。 

 周囲をぐるりと山に囲まれて、ショッピングモールも映画館もオシャレなコーヒーチェーンもない、けれど放課後に寄り道をするファミレスやゲームセンターくらいはある、どこにでもあるような田舎を出ていく。


 少しの間、静かな時間が続いた。いつもなら、彼女との時間は心地の良いもののはずなのに、今日は、そこに何かが混ざっていて落ち着かなかった。


 私は下がった視線はそのままに、彼女の足元へと向ける。

 彼女は足を伸ばして、ぷらぷらとさせたあと、つま先をこつんこつんとぶつけた。何度かつま先同士がぶつかり合って、やがてコツンとなって止まる。


「なんでそんなこと言うかなぁ」

「……ごめん」

「別に謝んなくてもいいけどさ~」


 顔を上げると、彼女は指先で髪を弄りながら、ふわりと微笑んだ。それが彼女の照れ隠しの癖であると私は知っていた。


「まぁ、そうやって言ってくれるの灯里あかりくらいだから、ちょっと嬉しい気持ちもあるんだよね」

「そう、なんだ……」

「うん。みんな『がんばってね~』とか、『向こうでも元気で~』とか、『ずっと友達だよ~』、とか、そんな感じ。昨日の送別会もそう」


 と、一度ここで言葉を区切った。

 首をかしげて先を待っていると、彼女はわざとらしく頬を膨らませて不機嫌の意を表した。拗ねたように唇を尖らせて言う。


「灯里、なんで昨日来てくれなかったのさ?」

「それは……」


 どう答えようかと口ごもってしまった。

 別に用事があったとか、風邪をひいたとか、そういうことじゃなかったけど、どうしても行けなかった。彼女の上京に対する自分なりの最後の抵抗だったのかもしれない。

 再び俯いた私の顔を彼女が覗き込んでくる。頬はもう膨らんでいなかったけど、どこか悪戯っぽい顔に見える。


「寂しかったんだぞ~?」

「ご、ごめん」

「冗談だよ、冗談」


 んふふ、と楽し気に笑って、姿勢を元に戻した。

 昔から彼女の表情はコロコロと豊かに変化する。それが私は大好きだった。今度は苦笑に変わる。


「なんとなくだけど、そんな気はしてたし」

「ごめん」

「謝らなくてもいいんだって。今はこうして来てくれてるわけだし。てか、灯里、さっきから謝ってばっかりじゃん」

「……ごめん」

「も~、ほら、また謝る」


 茶化すように言う彼女に、私はまた「ごめ……」と謝ろうとして、慌てて言葉を飲み込んだ。


「あ!」

「ッ!?」


 唐突な彼女の言葉に肩を揺らす。

 勢いよくこちらを振り向いた彼女は、何かを思い出したように言った。


「そういえばさ」


 グイッと顔を近づけてきて、ポニーテールが元気に揺れる。彼女のシャンプーの優しい匂いが鼻孔に届いた。


「夢」

「ゆ、ゆめ?」

「そそ。ほら前にさ、私の夢の話をしたときに灯里も夢あるって言ってたじゃん」

「そう、だったかな……」


 惚けてみるけれど、もちろんはっきりと覚えていた。

 それも冬休みのことだった。暖房が効いた私の部屋で一緒に宿題をしていたときのことだった。

 どうやら、彼女も同じようにはっきりと覚えていたらしく、「ほら、冬休みに」と言われてしまった。思わずうなずいてしまう。


「結局、なんだったの?」

「え、いや」

「え~?」

「ひ、秘密」


 前回と同じようにはぐらかす。

 だって、彼女には、彼女にだけは言えない。いや、誰にだって言えないけれど。

 ずっと心の裡にしまっておきたい。


「灯里は秘密主義だなぁ」

「そ、そんなこと……」

「嘘嘘。灯里もがんばってね」

「…………うん」


 だけど、私は私の夢が、願いが叶わないことを知っている。最近知ったと言うべきか。でも、それでよかったんだと思っている。やっと決別できたから。


 それからも、私たちは色々な話をした。

 昔のこと、今のこと、これからのこと。


「それにしてもやっぱり寒いなぁ」


 両腕の二の腕をしゃかしゃかと摩りながら彼女が言った。


「……うん」

「東京もさ、寒いのかな?」

「どう、だろ……わかんない」


 東京には修学旅行で一度だけ行ったっきりだ。そのときは十月だったから寒さは全く感じなかった。どちらかと言えば、まだ夏に思えたくらいだ。田舎とは桁違いの人の数がそうさせているんだろうか? まるで人の生きる熱量やエネルギーが根本から違うみたいで、私はただただ圧倒されるばかりだった。


 ちらと横目で隣を見る。

 これからあの街――キラキラと眩しい街の住人になるのか。

 私にはそんな選択肢は全くと言っていいほどに浮かばなかった。私が東京にまた行く日なんて金輪際訪れないかもしれない。いや、彼女に呼ばれたら行くかもしれないけど……。それも含めて、やっぱり私は臆病だ。


「でも、ちゃんと手袋とか、マフラーとか準備してね?」

「何その心配。大丈夫だよ、今だって防寒完璧だし」


 ほら、と彼女は淡いピンク色のミトンの手袋を私に見せるように、ぐっぱぐっぱと手のひらを握ったり開いたりした。


「だって、いっつも寒いのに負けたくないって言って、みんなが手袋とかマフラーをし始めても、一人だけ我慢してるじゃん」


 結局、三日もしないうちに彼女も防寒対策完璧な姿に変わるのだけど。

 彼女が言うには季節への反抗らしい。その期間、まるで冷凍保存されていたみたいに凍え切った手でほっぺや首筋を触られたり、赤くかじかんだ彼女の手を包んで温めてあげたものだ。

「あったかーい!」とはしゃぐ彼女に「だったら手袋しなよ……」と返すのがお約束だった。胸の裡では役得だなと思っていたけど、もちろんそんなこと口には出していない。顔には出ていたかもしれないけど。


「あはは……そんなこともあったようななかったような?」

「あ、あったよ、毎年」

「灯里さんにはほんと迷惑を掛けましたすいません」


 思うところがあったのか、勢いよく頭を下げられた。下げたのと同じくらいのスピードで上げられた顔には笑顔を浮かんでいて、反省の色はまるで見えない。


「ほんと気を付けて? 風邪ひいても、お母さんとかいないんだから……」

「だね……、気を付けるよ。って、なんか灯里がお母さんみたいだな……」

「え」

「あ、別に悪い意味じゃなくてね? いや、ていうかお母さんが悪い意味になるわけないんだけど、えっと……どう言ったらいいんだろ……」

「だ、大丈夫。わかってるから」

「そう? それならよかった」


 一連の反応を見るに、彼女のお母さんも相当心配しているみたいだ。そりゃあそうか。なんたって一人娘だ。


「でも、ほんと気をつけなきゃね。灯里があったかかったから、よかったけど」

「私があったかいんじゃなくて、サキちゃんが冷たいんだって」

「え~? そうかなぁ……灯里が一番あったかかった気がするけどな。あ、そうだ。灯里、ん!」

「……?」


 不意に手を差し出されたので、首をかしげた。

 それでも彼女はぐいっと左手を私に差し出してくる。


「手」

「手?」

「ほら、最後だし、さ」


 寂し気に微笑んで、彼女はミトンの手袋を外した。


「もう一回だけ、灯里の温度を感じたい……みたいな? うわっ、なんか今、私めっちゃ恥ずかしいこと言ったかも」


 頬を紅潮させて、彼女は手袋をしている方の手で髪を触る。


「えっと……ダメ……?」

「う、ううん……っ」


 引っ込めようとした手を慌てて掴む。手袋をしたままなことに気が付いて慌てて外して、彼女の右手を両手で包み込んだ。さっきまで手袋をしていたから、季節に反抗していた時ほど冷たくはなかったけど、それでも彼女の手のひらはひんやりとしていた。


「やっぱり、灯里はあったかいね」


 黄昏の寒さを忘れさせるには十分すぎる笑顔だった。

 この時間が永遠に続けばいいのに。

 願わくば、夕暮れに一緒に溶けてしまいたい。そう、思ってしまう。


 けれど、胸の裡でどれだけ願っても、祈っても、時間は止まらない。夕日はどんどん海に沈んで顔を隠してしまい、ホームの時計の針はカチリカチリと一定のリズムで止まることなく進んでいく。

 時間に正確な日本の鉄道は、この日も寸分のズレもなくピッタリの時間にホームにやって来た。この街では当たり前に見る一両編成の電車だった。ゆっくりと速度を落としながらプラットホームに入ってくる。私たちの目の前で停車した。


「よっし」


 私と彼女とを繋いでいた手が離れる。タンッと飛び上がるように彼女は立ち上がった。荷物を持って、私に振り返る。


「じゃあ、行くね」

「……うん」

「ありがとね」

「……うん」


 春みたいに優しく柔らかく微笑んで、彼女は電車に乗った。

 扉が閉まる直前。


「灯里。大好きだよ」

「——ッ」


 頭の中が真っ白になる。雪が積もったみたいに。

 だからだろうか? 幼い頃、それこそ幼稚園に通っていた頃、彼女と一緒に大きな雪だるまを作ったのを思い出した。それが溶けて消えてなくなってしまって泣きじゃくったことも。


「わ、わた、私も……」


 あの頃から私たちは変わっていない。なら、これからは……?

 ぎゅっと手を握り締める。


「わ、私も——大好き」


 初めて言えた。

 扉が閉まって、彼女と私とを隔てた。電車が動き出して、距離が離れていく。徐々に加速していって、やがて彼女を乗せた電車は見えなくなった。


 彼女はこの街を離れた。この街から、もういなくなってしまった。


 何も見えなくなった線路の先をしばらく見つめていた。心のどこかで、まだ彼女が戻ってきてくれるんじゃないかなんて淡い期待をしていたのかもしれない。

 強い風が吹いて反射的に目を閉じる。瞼の裏には彼女の顔が焼き付いていた。

 風が通り過ぎて目を上げると、当然彼女はいなくて、そこは彼女のいない世界だった。


「…………」


 未練たらたらの自分に苦笑をする。深呼吸をして彼女のいない冷たい空気を肺いっぱいに取り込んだ。吐き出す息は真っ白だ。世界はもう夜になろうとしていた。



 あぁ。

 嗚呼、神様。

 どうか、彼女がこの街に――





――私の元に戻って来ませんように。

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