#1
誰もいない、暗闇の底。
『…… 、……………』
生者の気配のない研究所の最奥に、しかし、誰かの声が響いている。
『……稼働テストクリア、最終チェック異常なし』
ぽつりぽつり、ふいに灯りだした小さな光が透明な壁越しにゆらめく。
私はそれを、ぼんやりと眺めている。
『起動準備完了、これより起動及び保護水槽の排水を開始』
ざぱり。水面の揺れる音がした。
私のいる水槽から水が抜かれているらしい。外に出されるのか。
口から漏れた泡が一つ、じわじわと迫る水面へ昇っていく。外、か。あまり実感はない。喜びも、特には。焦がれていたわけでもないしなぁ。そんなことを考えて、瞬きを、ひとつ───
目を開く。同時に、衝撃。脳髄を殴られるような感覚。視界が眩み、よろける。景色が塗り変わる。瞬きひとつ、その合間に見慣れた研究所は姿を消していて、世界はその全てを変えてしまった様だった。
支えを失い倒れ込んだのは現実か幻覚か。砂漠を渡る枯れた風、
溢れ返る情報の濁流に呑まれる。質量を持つかのように殴りつけるそれらはしかし、触れようと手を伸ばしても指先を掠めて零れ落ちていく。
天空の底に花を見た。地底の果てに星を見た。
灰に塗れたこの世界を、見ていた。
〈ン〜?〉
……否、世界に、見られていた?
〈キミ、おもしろいヤツだね〉
真白に霞む世界で、全てを内包した誰かがそっと
地に伏せる私の顔を覗き込んで、にっと笑って。
〈ン、気に入った!〉
誰かがそっと額に触れる。
〈そんじゃ一つ、キミに賭けてみようか。
“ヒツジノクサビ”で、〉
まってる。
呼ばれている。ずっと。
『………、………!聞……るか、返事を』
「…ぅ、ごほっ」
体が重い。頭が痛い。今視えた、あれは何だ?
……わからない。横たわったまま咳き込み、水を吐いて喘ぐ。
『落ち着いて、大丈夫。ゆっくりでいい、息を吸って、……吐いて』
近くで声がする。聞き覚えのある声。声に従い深呼吸を繰り返す。吸って、吐いて。床に敷き詰められた冷たいタイルが身体を冷やす。まだ、手は震えている。
……この声は、そうだ、水槽の外から聞こえていた声だ。
『参ったな、ここに来て初見のエラーが出るとは……データベースにでも繋がったか?しかしあれは精神面に影響の出るようなものではないはず……』
床に倒れ込んだ私の側で右往左往しながら声は続ける。随分大きな独り言だ。
……ともかく、起き上がらねば。ぎこちなく腕を動かして、上体を起こす。あの反応を見るに、ここで倒れるのは想定外な
まだ薄らと痛む頭に小さく呻く。それに振り向く黒いシルエット、声の主の姿は案外小さかった。
『…ん、あれ、動けるのかい?
ハロー、気分は…まぁあんなに
山羊や毛の刈られた羊に似た黒い小型の機体。蹄のない尖った脚先は幾らか床から離れている。空を蹴って滑るように移動するその後を追って、軌跡を残すガスか炎かのような尾が揺らめく。
『初めまして、私はここを管理している者だ。名は…そうだな、ノウンとでも呼んでくれ』
「のう、ん」
『ああ。そうだ、君の名前は…シーク、でいいかい?
生憎だが名付けのセンスは持ち合わせていなくてね。君の機体の仮称“
「…しーく」
『気に入ってくれたなら何より』
ふふ、と笑う声がする。硬く、表情の無い黒山羊が確かに笑った様に見えた。
輝紡譚 アイビークロー @IvysTalon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。輝紡譚の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
理性が私を喰っている新作/漣
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます