六話 唾液まみれ

 隣の個室では彼氏のことで悶々とする姉がいる。時折漏れ聞こえてくる声からして、間違いないと確信できる。

 それだけに、今の俺の状況がバレるのはどっちの意味でもやばい。

 一つは、姉に女子トイレに入ったことがバレること。

 普段は優しい姉なのだが、規律やルールというものにはめっぽう厳しい側面ももつ。少なくとも、のっぴきならない事情がないかぎり、俺が女子トイレに入ったとなれば、間違いなく怒るだろう。

 二つ目は、そうして姉が怒ることで、俺が女装しているということが皐月さつきにバレてしまうということだ。

 皐月さつきは俺のことを女の子だと思っている。彼女が騙されたのだと知ったとき、それでも友達でいてくれるかわからない。それに、俺だって彼女に女装していることはバレたくない。

 そしてなにより、彼女が悲しむ顔は見たくないと切に思う。

 だからこそ、現状できることは皐月さつきを黙らせたまま、姉がトイレから出て行くことを願うことだけだ。


「うー、ほんとにどうしよ。考えるだけで緊張するー」


 姉がトイレを出て行くのはもう少し先になりそうだ。

 しかし、いつまでも皐月さつきとこの体勢でいるのはきつい。どっちの意味でもやばい。

 現状、俺はまだ彼女に抱きついた状態のままだ。

 というのも、なんとなく動けないでいた。ここに人がいるという気配を悟られたくないというか、別に俺だってバレなきゃいいはずなのに、人がいるというのがまず思われたくない。

 それだから体勢を変えるのとか、そういうのはしていなかった。

 相変わらず彼女の口元を手で抑え、素肌を直で感じている。

 口元からは徐々に唾液が漏れだし、俺の手にもべとりとつき始める。「はぁ……はぁ……」と息を切らせながら紅潮する彼女はどことなくエロい。

 いや、そもそも下着姿なのだからエロくないわけがない。そこに紅潮した彼女と柔肌の感触が相まって、より一層エロいのだ。

 そしてなにより、時折触れる柔肌よりも柔らかい上に張りもしっかりあり、それでいて吸いついて離さない、その感触があのときのことも彷彿とさせより一層昂ぶらせている。

 彼女のかわいい声を耳元で聞き、猛る熱い脈動がそれを押し上げてアソコはいっぱいっぱいで、それが彼女にバレないか俺は気が気ではない。唯一彼女と違うのが、そこなのだから。

 こっちはそんな状況なのにも関わらず隣ではのんきな姉が、「よ、よしっ……!」とか、「うー!」とか、そんな一人言を呟いている。きっと、今の姉の顔は><きっとこんな感じの表情だ。

 初々しくてかわいらしいのだが、今はその初々しさが恨めしい。


「ちょ、ちょっと、もう苦しい……」


「ご、ごめん」


 そう言って、俺は唾液まみれになった手を彼女の口からどける。

 彼女はやっと上手く息ができるようになったためか、「はぁはぁ」と息を切らせている。隣にいる姉に気づかれてないか少し不安になりながらも、こうなっては抱きついているのもおかしいため、少し離れる。

 トイレの個室と言えど、二人が入って狭いというほどでもない。


「よ、よし。渡せなかったら睦月むつきにも申し訳ないし、あまりトイレに長居しても彼を待たせるだけだから」


 この場に他の人がいないと思っているのか、姉は一人言を呟いている。

 俺と皐月さつきのいる個室は一番奥で、姉がちゃんと奥まで確認してなければ、実際気づかないだろう。


「それで、なんなの?」


 彼女が声を発すると、隣の個室で物音がする。

 俺は慌てて口を抑えにいくも、上手く抑えることができず、そのままバランスを崩してしまう。さっきと違うのは、彼女が正面を向いていたということ。

 彼女はトイレの便座に座り、その上に俺が覆いかぶさるように乗る。目の前には下着姿の彼女がいて、俺はそんな彼女の口を抑えている。彼女は「んー! んー!」と、抑えた手を離せば今にもわめきそうである。

 少しして、隣で大きな物音がしたかと思うと、勢いよく扉が開いた音がする。

 さすがにその音には驚いたのか、皐月さつきも無言で大人しくしている。人の気配がなくなるまで、その状態で放心してるも、どちらともなく二人して我に返る。


「説明してもらっていい?」


「あ、えっと、うん」


 改めて彼女の下着姿を直視してしまい、頭の中を整理できない。目の前にある二つの豊かに実った果実。すでになんども触っていることも衝撃だ。そして、その感触が彷彿とする。


「ちょっと! そんなに直視されるとさすがに恥ずかしい……」


 さっきまで着ていた、手元にある服で肌を隠す。特に、胸の辺りを。

 彼女は少し恥ずかしそうにしながらも、ジト目でこちらを見る。


「ご、ごめん」


 これに関しては俺が悪い。親しき仲にも礼儀ありだ。謝っておいて損もないわけだし。


「えっと、話の前に着替えちゃって? やっぱ気になっちゃうから」


「わかった」


皐月さつきの涎で手もベタベタだしね」


「それは私のせいじゃないから!」


「わかってるよ」


 ベトベトになった手を見ながら、一度俺は舐めてみる。


「えぇ、なにしてるの?」


 軽く引き気味の様子でそんなことを言う。というか、ものすごい引いてる。汚物でも見るかのような目である。

 まあ、俺も実際そんなことを目の前でされれば、同じ反応をするだろう。

 でもさ、ふと見たら思ったんだよ。


「他人の唾液って、どんな味してるのか気になって」


「だとしても私の目の前ではやめてよ!」


「あ、たしかに」


「そうでしょ?」


「でも、たしかおしっこは直で飲まないと、酸化してものすごい味になっちゃうって話じゃなかった?」


「知らないよ!」


 俺だって詳しく覚えてるわけではない。ただ、家でごろごろしてるときに、動画サイトでおしっこの話があり、ふと見たらそんな内容だったのだ。

 だから、実際に自分のを飲んだわけではない。だからといって、他人のを飲んだわけでもない。そもそも、飲みたいとか思わない。


「でもほら、乾く前に飲まないと味変わるかもしれないから」


「そんだけベトベトならすぐには乾かないわよ」


「それもそっか」


 恋は盲目と同じかも知れない。好奇心は猫をも殺す。どっちかと言ったら、こっちだろうか?

 とりあえず、唾液を舐めた感想としては、よくわからなかった。味はない気がする。


「それじゃ、ちょっと手を洗ってくるね」


「最初からそうしてよ」


 ごもっともな正論を聞きながら個室を出た。

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