第34話 本の町(6)

 神保町にある高層マンションの一室。既に夜は更け、その灯が町をイルミネーションのように照らす。

 リビングには彩咲家一同が、緊急家族会議を今まさに始めようとしていた。

「……」

 風呂上がりでピンク色のパジャマ姿のトワは、黙って身を縮こまらせてソファの隅に座っていた。

「怖かったわよね。ごめんね、私がちゃんと知らせとくべきだった」

 母クオンがそんなトワを後ろから抱きしめ、まだ湿った頭を優しく撫でる。

「お前がついていながら失態だな」

 父エイゴウが腕を組みながら椅子に座り、トワの胸元で強く抱きしめられているイツカに声をかける。風呂を出てからずっとこうだった。

『……すいません』

 イツカは自分の無力さを噛み締めながら言葉を絞り出す。トワが自分を握りしめるその小さな手がずっと震えているのが嫌でもわかった。

「おとうさん!」

 クオンが激しい剣幕でエイゴウを睨みつける。

「っ!」

 その声にトワもイツカもエイゴウも、びくっと身体を震わせる。

「わーってるよ。エーテライズができなかったんだろ? あんなものまで作ってるとはな。本局の連中は本気で委員会とやりあうつもりなのか」

 エイゴウは冷や汗を流しながら謝る。これがこの彩咲家の力関係である。


『……どうして今になって俺のことを?』

「あの人が言うには、最近の魔法司書の急増に伴って、今までの案件も全面的に見直し、制度化を進めると言っていたけど。そのためにあなたの調査が必要だと」

 イツカの問いにクオンが答える。

 あの人――八咫ソウガは、あの後エイゴウの手によって警察に引き渡され、後日国会図書館から正式に神社本局に警告を入れるとのことだった。これでソウガの独断だったとはいえ、当面は表立って強行手段に出ることはないはずだった。

『魔法司書委員会――七星アヌビスも俺を探していると言っていた』

「七星さんが?」

『知ってるの?』

「ええ、昔何度か会ったことあるけど、ケイのことをずっと委員会に勧誘してた。ケイは迷惑そうに逃げ回ってたけど。私も逃げるのを手伝ったりして――」

「また相馬ケイか!」

 エイゴウは『いつものように』ケイのことを嬉しそうに語り始めるクオンに呆れながら、その目を部屋の隅でしおらしく丸まっているデューイに向けた。

「にゃう」

 デューイは珍しく元気なく申し訳なさそうな声で鳴いた。

「委員会も最近声がでかくなってきて、うちにもエーテル資料を寄越せだの、室員を強引に勧誘してきやがる。全く迷惑な話だぜ」

 エイゴウは心底嫌そうな声を上げる。

 彼は魔法司書ではないが、国会図書館のエーテル資料課には国内屈指の魔法司書が何人も在籍している。図書館司書は力仕事として、彼は職員達に常日頃ハードな訓練を課している。その戦力はエーテル能力を抜きにしても下手な軍隊をも上回るとも言われている。


「うちの室員を護衛につけたいところだが、こっちも最近の魔法司書ブームにてんてこいまいでな。そういうわけにもいかねえ」

「だから困ったら九重君を頼って。不本意だけど」

 クオンは不承不承といった顔で提案する。

『どうして?』

「だって、ケイも九重君は気に入ってたみたいなんだもん。私が水族館に誘った日も――」

「とにかく! こんなご時世だ、常日頃から連絡は密に、俺も可能な限り各所に声をかけてみる。何かあっても自分だけでどうにかしようとは考えるな。お前達はまだまだ子供だ。大人の力を頼れ。以上! いいな?」

『はい……』

「……うん」

 話は終わり、トワはイツカを抱いたままクオンと共に寝室に向かう。

「あーイツカは置いてけ。まだちょっと話がある」

「……」

 あからさまに不服そうな顔をして振り返るトワに、エイゴウは肝を冷やす。

『大丈夫だから。すぐいくから。な?』

「……わかった」

 イツカの諭すような言葉に嫌な顔をしつつも、トワはイツカをエイゴウにぞんざいに渡すと、クオンと共に寝室に入っていった。



「ふー。うちの女衆はおっかねえな」

『……』

 二人だけになったリビングでエイゴウが深く溜息をつく。

 イツカをテーブルの上に乗せたまま、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに座る。

「学校はどうだ?」

『問題ないよ。あれで案外すぐ友達作れる方だしな』

 イツカはハルとウララのことを思い出した。かなり強烈な二人だがトワにとってはいい刺激になるだろう。

「いやお前の方だよ」

『……は?』

 エイゴウはやれやれといった風でビールをぐいっと飲み干す。

「お前だって学校なんてほとんど行ったことなかったんだろ?」

『まあ、俺も母さんに拾われてから日本に帰るまで、まともに学校なんて行ったことなかったな。でもオスロ大学ではそれなりに過ごしたぜ』


 そう、相馬イツカは、相馬ケイの実の子ではない。

 ケイは紫苑女子高等部を卒業後、すぐ旅に出ると言い出し、三年もの間世界各国をルリユール職人(本の修理と製本を生業とする職人)として渡り歩いた。イツカはその間に拾われた孤児である。


「相馬ケイがお前を連れて帰った時、あいつは卒倒してたな」

 エイゴウはその時のクオンの困惑と絶望に打ちひしがれた顔を思い出して苦笑する。

『その心の隙間に付け込んだと』

「ぶっ! 馬鹿言えっ」

 イツカの茶化しにエイゴウは飲みかけたビールを噴き出す。

「どっちかてーと、ケイの奴が俺達を無理矢理くっ付けようとしたんだぜ? 俺なんか周りからは教え子に手を出した淫行教師扱いよ」

『それは知らなんだ』

 イツカは笑いながら応える。

 クオンは同校卒業後、そのまま大学へ進み、教師であるエイゴウと知り合った。その後、帰国したケイとイツカ、そしてアリスと共にノルウェーのオスロ大学へと留学した。

「いきなりノルウェーだもんな」

『司書としての勉強もあったが、当時エーテル研究なんて日本じゃまともにやってなかったからな』

 最先端の研究を始めていたオスロ大学院のエメリック研究室に身を寄せることで、既に魔法司書として目覚めつつあったケイとイツカはその方法論を確立し、エーテルキャットの活用の中でアリスも覚醒した。ケイが学会で論文を発表したのはその一年後だ。

「そして――」

『神の目録が開かれた』

 クオンの妊娠六ヶ月後、胎内のトワの胎動が止まり、死産が確認された。原因は不明。元々クオンは身体がそれほど丈夫な方ではなかったので、臍帯、つまりへその緒に異常があったのではないかと考えられた。

 しかし実際クオンの身体からトワは無事出産された。みな奇跡だと叫んだ。

「俺には今だにお前らの言う神のどうたらだのは信じられねえよ。あの時クオンのお産には俺も立ち会った。無事生まれてきたトワは紛れもなく俺達の子だった」

『……それで合ってるよ。俺だってあの日起こったことはまだよく思い出せていない』

 あの日、ケイはノルウェーの病院にいるクオンを置いて、オルラトル町立図書館の旧書庫に研究室のメンバーを集め、実験を強行した。覚えているのはケイとエメリックが言い争っていたことくらいだ。


「けどな、あいつらがお前のおかげで助かったと言ってるんだ。俺はその言葉を信じる。だからお前も俺達の子だ」

 エイゴウは、嘘偽りなく本心からそう言い切ってイツカを見つめた。

 それはこの九年間ずっと言い続けてきたことで、彩咲家が相馬イツカを大切に育ててきた証でもあった。イツカはこれを聞かされる度に全身むず痒い気持ちに包まれる。

『……わかってるよ』

 イツカは恥ずかしくなってぶっきらぼうに返す。

 けど、悪い気はしなかった。自分には本当の両親の記憶はない。ケイに拾われ、名を与えられ、生きる場を与えられた。そしてこの彩咲家は、本の身体になり、喋ることも見ることも何もできなくなった自分をここまで根気よく育ててくれた。感謝しても仕切れないのはこっちの方だ。


「さてと、そろそろお前を持ってかないとお姫様がぐずっちまう」

『だな』

 エイゴウのごつごつした大きな手に掴まれて運ばれる度に、イツカはこれが父親というものなのだと再確認するのだった。


 寝室に入ると、ベッドの上でクオンがトワを抱きしめたまま眠っていた。

「……」

 トワの方はまだ起きていて、無言で起き上がると、わずかに赤く泣き腫らした目をエイゴウ達に向けた。明かりの消えた暗闇の中、その赤い瞳が猫の瞳のように煌めく。

「わるい。待たせたな。ほら」

 エイゴウは枕元に座ると、イツカをトワに渡し、トワの頭を優しく撫でた。

「もう大丈夫か?」

「うん……」

 トワはイツカを両手でぎゅっと抱きしめると、瞳を閉じてぱたんとベッドに横たわった。

「よっと、じゃあ早く寝ろよ? おやすみさん」

 エイゴウはまだ眠りこけてるクオンをひょいと抱き上げると、寝室を出ようとする。

「ありがとう、おとうさん」

 トワのほとんど聞こえないような呟きに、エイゴウは振り返らずに片手を振って応え、出ていった。


「……怒られたの?」

 二人きりになりトワはイツカを抱いたままベッドに横になった。

『そんなんじゃないよ。ちょっと昔話をしただけ』

 イツカはトワが自分の心配をしてたことに少し驚き、責任を感じていないか心配した。

『俺達はもっと強くならなきゃな』

「うん」

 今回のようなことはこれからもあるかもしれない。神の目録でケイが言っていたことを思い出す。世界が二人が生きていくことを邪魔しにくると。もうケイの加護はない。自分達の身は自分達で守っていかなければならない。


「にゃー」

 そんな不安に寝付けない二人に、私を忘れないでよとばかりにデューイがトワの胸元に飛び込んでくる。

『お前もいたな』

「ごめんね」

 二人は笑うと、身を寄せ合い、やがて静かに寝息を上げ始めるのだった。

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