第35話 七星アヌビス(1)
これは夢――
どこかの国の古い教会の裏の路地、一人の子供が壁にもたれて座り、空を見上げていた。雲一つない残酷なほど青く澄んだ空に、子供は涙を流していた。
長い黒髪に青い瞳、ぼろぼろの服と外套、手元には引き裂かれた赤い本の頁がばら撒かれていた。
「やっと! 見つけた!」
そこへ息を切らせた一人の少女が走ってくる。
長い黒髪に赤い瞳、花柄のあしらわれた黒い振袖姿、その背には不釣り合いな巨大なリュックサック。
「もう世界中探し回ったんだから!」
少女はリュックの中からペットボトルの水を取り出すと、ごくごくと飲み出す。リュックの中には各国のおみやげというかガラクタが詰め込まれていた。
「?」
子供は驚く様子もなく、ぼんやりとした顔で少女を見上げ、首を傾げた。
「あれ? ああ、日本語通じないか。えっと、ハロー? ボンジュール? バームクーヘン? チンジャオロース?」
少女は色んな国の挨拶(?)で話しかけるが、子供は無反応だった。
「えーと、じゃあこれかな。まだあんまり覚えてないんだけど――」
「!」
少女がたどたどしく発したその後に続く言葉に、子供は初めて反応を見せた。その言葉はどこの国のものとも知れない不思議な言語だった。
「ちょっと! ちょっと! 落ち着いて!」
子供は少女の肩を両手で掴み、必死に何かを捲し立てていたが、少女には何を言っているのか理解できなかった。
だが、その足元に広がる赤い本の残骸を見て眉をひそめる。
「ごめんね。私がもっと上手くやれていればよかったのに」
そして興奮する子供を力強く抱きしめる。子供はやがて鎮まり、膝から崩れ落ち、また虚ろな瞳で空を見上げた。
「君の力を借りたい。もしかしたらまた辛い思いをさせてしまうかもしれないけど。あの子を救うために」
「!」
少女は抱きしめながら子供の耳元で囁く。子供はその言葉に目を見開く。
「私の名前は相馬ケイ! あなたは?」
少女――ケイは立ち上がると子供に手を差し伸べる。
しかし子供は顔を横に振る。自分の名前を思い出せなかった。
「じゃあ、あなたはイツカ! ずっと前から、いや後から決めてた。相馬イツカ! 今日からあなたは私の子! よろしくね!」
子供――イツカは少女の手を取り立ち上がった。
自分がどこから来て何者なのか、もう思い出せない。しかし今度こそ救わなければならない子がいる。それだけは後悔と絶望の果て、何もない魂の奥底に刻まれていた。
二人は手を繋ぎ歩き出した。
「まずその服をどうにかしないとね。うん? わたしの着物がおかしいって? 海外だとこれ着てると強そうに見えるのよ。サムライ! ニンジャ! ゲイシャ! ってね。わかんないか」
ケイは楽しそうに話し続けた。
イツカは彼女が何を言っているのかわからなかったが、あまりに楽しそうに話すので、次第に釣られて笑っていた。
涙はいつの間にか枯れていた。
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
ベッドの裏の棚の上の目覚まし時計の針がかちりと六時を指すと、甲高い音が部屋の中に響き始める。
『トワ、起きなよ』
「うーん……」
目覚まし時計の隣に置かれたイツカがうんざりした声を上げる。
『もう慣れたけどさ』
人はどんな騒音だろうといつかは慣れるのだ。喧騒に溢れるこの町で住むなら尚更だ。
「ふぁああああ」
ようやく起き上がったトワはぱしりと目覚まし時計を静かに止めると、そのまま虚ろな目で前を見つめていた。彼女は相変わらず絶望的に朝が弱いのだ。
「夢――みた」
そしてぼそりと呟く。
『……どんな?』
イツカはちょっと既視感を覚えながら尋ねる。
「わすれた」
トワはベッドから降りると、ふらふらと顔を洗いに部屋を出ていった。
『……』
イツカは深く溜息をついた。
「じゃあもう一度頭から合わせてみよっか」
「ええ」
「はいっ!」
ハルの合図と共にウララとトワが応え、身構える。
一瞬の沈黙の後、ハルのギターのリフがゆっくりと始まり、それにウララのベースが合流していく。トワは大きく息を吸ってマイクを両手で握りしめる。
トワが紫苑女子に通い始めてからもう二週間が過ぎようとしていた。
今三人は登校前に貸しスタジオで、月末の文化祭に向けて朝活中だった。
三人での朝活は既に二回目で、初回は見学のつもりだったトワもあっという間に参加が正式に決まり、こうして練習に明け暮れている。
スタジオと言ってもライブバンド向けのものではなく、公民館のような多目的ホールで、ダンス教室や合唱、演劇から武道やヨガまで時間制で自由に使えるものとなっている。神田の近くに多数あるライブスタジオではなく、ここを使っているのは学校に近いというのもあるが、何より安い(特に朝は)からだ。
「トワッチ、ちゃんとお腹から声出てるよね」
「わかる。体力あるしもっとおとなしい子だと思ってた」
「ええっと」
二時間の練習が終わり、後片付けをしながらハルが意外そうな顔でトワを見つめる。
『親父に鍛えられてるからな』
トワの腰のイツカが答える。
「おっ、イツカッチ、その情報くわしく!」
「たしか国会図書館の人なんですよね」
『ああ、あそこのエーテル資料課は一に体力、二に体力、三四がなくて、五にエーテライズだからな。トワも弱い身体を克服するために鍛えられたもんだ』
イツカは得意げに語る。
「へぇーへぇーへぇー」
「なるほど。あそこの人達はこの国の最高峰の魔法司書が集まってると聞きます。納得です」
「ふふっ」
そんな様子を見てトワは微笑む。
『……なんだよ?』
何か含みを感じさせるその笑みにイツカは不審がる。
「なーんでも」
トワはにやりと笑うと、ああ忙しい忙しいとわざとらしく片付けを続ける。
イツカがこうして二人と馴染んだのが嬉しかった。
初回の朝活の時、イツカはどういう風の吹き回しか、自分から積極的に二人に話すようになった。
ともあれこうやってイツカの交友関係が広がっていくのが、自分のことのように嬉しかった。普段イツカだけ隠れて自分だけ人と接するのはどこか不公平感があったからだ。
「イツカッチも参加しちゃう?」
「コーラスならいけそうね」
「どうする? いっちゃう?」
『いやだめだろ』
そんな他愛のないやりとりにトワとイツカは、今まで感じたことのない手応えと、充実感を得るのであった。
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