第23話 神の目録(2)

『!』

「――え?」

 それまで黙って話を聞いていた二人を、ケイは驚くほど冷たい目で見下ろした。

「なにを言って――ぐっ!」

 食ってかかろうと立ち上がったアリスは不意に頭に激痛を感じて、その場に膝をつく。

「そろそろ思い出してよ。九年間、いやここでは時間なんて無限に等しい間、わたしはずっと一人で悩んできたんだから。どうしてこんなに本棚が並んでるかわかる? 本に囲まれてでもいないとわたしの心がもたなかったから。人の心が留まるにはここはあまりにも生と死に近すぎる」

「――クオン君は、あの日――病院で――」

「そう、トワちゃんは死産だった。先生も覚えているでしょ? だから神の目録を開いて生き返らせることにした。それがクオンの――いや私の願いだったから」


「えっ? えっ?」

 突然頭を抱えてうずくまるアリスとエメリックにトワは困惑する。彼女らが一体何の話をしているのか、頭が全くついていかなかった。

『聞くな! トワ!』

 イツカが叫ぶ、その声はやはり苦しそうであった。

「イツカも思い出したでしょ? どうしてその姿になったのか」

「イツカ……くん?」

 ケイの言葉一つ一つがまるで合図のように、その場にいる者達の記憶を呼び覚ましていく。トワは苦しむ彼らに困惑する。

「トワちゃん、あなたも覚えているはず。一度は生命の輪から外れ、暗い終わりの世界へ落ちたことを」

「!」

『……き、聞くな……』

「そしてその底から引きずり戻されたことを。その身体をイツカから貰って――」


「あ、あ……ああ――」

 トワは全身の血の気が引いていくのを感じた。

 まるで読み続けていた本を突然閉じられたように目の前が真っ暗になった。

 焦りや興奮、そんなものではなく、ただただ冷たい身体から心が切り離されていく感覚。

 そして理解した。

 

『わたし、彩咲トワは、イツカくんを人間に戻さないといけない』


 その使命感にも似た強い想いの正体を――

 

「世界は大雑把なようで、案外厳しくてね。特に魂の均衡に関しては」

「魂の――均衡?」

 エメリックがどうにか声を絞り出して尋ねる。

「全ての生命、いや私たちがそうだと認識していない物も全て、魂のようなものを持っていて、それは因果の流れで全て繋がっている」

 ケイは苦しむ一行に構わず続ける。

「私がトワちゃんを生き返らせたせいで、世界には本来存在してはならない魂が生じてしまった。世界はそれを許さない。あらゆる因果が二人を元のあるべき姿に戻そうとする。だからそうなる前に私たちの手で正す必要がある」

「ケイ、あんた!」

 アリスが激昂して立ち上がり、ケイに掴みかかろうとする。

「アカーシャ!」

「!」

 その刹那、ケイは「アカーシャの」名を叫び、他の者達同様、記憶を呼び覚まされ苦しむ彼女の顔を上げさせる。

「それでもあなたが、あなたの姉さんを探すのなら、この彩咲トワを消しなさい。そうすれば因果は元に戻り、あなたはシューニャに会える」

「正気か! そんなことが――」

 エメリックが驚愕の表情を浮かべ叫ぶ。

「できる。ここではどんなことでさえ願えば叶う。私にはどうしてもこの子をもう一度殺すことが願えなかった。あの時はただクオンを悲しませたくなかったから助けた。けどここに来てわかった。生きている命によって産み出される未来があるのと同時に、失われた命によって産み出される未来もあるということを」

「そんな屁理屈!」

 アリスがケイの着物の衿を掴み、無理矢理膝を折らせる。

「だから間違いは正さなければならない。死ぬ定めにあった命を救ってはならなかった。だからみんなを再びここに集めた。私には願えない願いで間違いを正すために」

「あんたはっ!」


「ラジエルッ!」


 殴りかからんとするアリスの拳を止めるほどの叫び声が空間内に響き渡る。

「!」

 エメリックが振り返ると、その叫び声の主のアカーシャが両手を振り上げる。

 すると両脇に立ち並ぶ本棚が一斉に揺れ出し、崩れ、中に詰まっていた本が次々と飛び出し、落下していく。

 それらはエーテルに分解、黒い装丁の本へと再構成されて、アカーシャの左手に収まる。

『トワ!』

 そしてアカーシャが右手を振り下ろすと、落ち続ける本が無数の青い鳥へと変化してトワへと飛びかかる。

「……」

 トワは焦点の定まらない瞳でそれを見上げて、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 鳥達はトワの全身に群がり、青い羽を撒き散らしながらその嘴を突き立てていく。

「このっ!」

 アリスはケイを突き飛ばすと、左手にアカーシャに消されたタブレット端末を現出させ、右手の拳を渾身の力で地面に叩きつける。

『!』 

 するとトワの足元の床がまるで凍った湖の表面が砕けたかのように崩れ、トワだけがどぷんと足元の暗闇の中へ沈み込んでいった。


「それでも! 決めるのはあの子らだ!」

 アリスは足元で尻餅をついているケイを見下ろして告げる。


「そう、一番強い願いだけが叶う。あの時もそうだったように――」

 ケイはイツカを両手で抱きながら目を瞑りゆっくりと深い闇へと沈んでいくトワを見つめながら独り言のように呟いた。


「……」

 アカーシャは行き場を見失い頭上を飛び回る鳥達を物憂げな表情で見上げていた。

 その中にラジエルの姿はなかった。



 ケイの作った神の目録の下、何もない暗闇の中をトワは水の中をゆっくりと沈んでいくように落ちていた。

 遥か遥か下にはエーテルの輝く河が流れているが、行けども行けども辿り着くことはない。

 ただその鈴の音のような澄んだ音が聞こえてくるだけだった。


『トワ……』

 その胸にしっかりと抱きしめられたイツカが長い長い沈黙の後、ようやく口を開く。

「……なあに?」

 トワはゆっくりと目を開く。もう神の目録は遠く、見えなかった。


『あの日、母さんはトワを生き返らせようとした。トワの魂は既にエーテルの海に還ろうとしていたから。それを繋ぎ止めて。でも現実に留まるには生きた身体が必要だった』

「……うん」

『だから俺はそれを叶えたくてこうなることを願ったんだ。後悔はしてない』

「……夢を見たんだ」

『――夢?』

「うん。この身体に残った記憶だったんだね。ケイさん達が楽しそうにしてた夢」

『ああ、それなら俺も見たよ。トワの夢』

「わたしの?」

『ここと同じだった。きっと産まれる前に見た夢なんだ。まだクオンさんのお腹の中にいた時の』


「わたし、彩咲トワは、イツカくんを人間に戻さないといけない」

『トワ?』

「ずっと思ってた。自分でもわからなかったけど、この身体をいつかイツカくんに返さないといけないって」

『……トワはそれでいいの?』

「……それで、いいと、おもう」

『……』

「だって! わたしは本当は死んじゃってたんだから。それでずっとイツカくんを苦しませてたんだよ!」

『俺のことはいい』

「九年間もよぶんに生きられたんだから、もう十分だよ」

『十分じゃない』

「わたしが元にもどって、イツカくんも元の身体にもどれば全部元にもどるんでしょ?」

『そんなことどうでもいい』

「――イツカくん?」


『俺はいやだね』

「えっ?」

『言ったろ? 後悔はしてないって』

「でも――」

『むしろこの本の身体を使いこなすのにかけた九年間の苦労を、なかったことにされる方がよっぽど困る』

「えぇっ?」

『トワだってそうだろ? 魔法司書になるために必死に頑張ってきたのに』

「それはイツカくんを人間に戻すために――」

『それで? 俺を人間に戻した後、どうするつもりだったんだよ?』

「え?」

『立派な魔法司書になる。か? 悪いけど人間に戻ったら俺の方がずっと先に行っちまうぜ』

「む」

『願いってのは叶った後も続いていくんだよ。叶ったと思ってもまだその先に未来が続いてる。人は生きている限り願い続ける。そう、エーテライズみたいにな』

「考えたことなかった……この願いを叶えることがわたしの全部だったから」

『……そう母さんに誘導され続けてたんだろうな。でもこれはお前の人生、お前の好きに生きていいんだよ。これからもずっと』

「……いいのかな?」

『それは俺が保証する。だって九年前はきっと俺の願いが一番強かったんだから。だから今がある』

「……うん」

『そしてその時、お前も願ってたはずなんだよ。生きたいって』

「!」

『俺が願ったのはみんなの願いが叶うこと。だからお前も願ってたはずなんだ』

「……」

『もちろん俺だって人間に戻ることを諦めたわけじゃないぜ? けどその時はトワ、お前も一緒にいないと意味がない。どうしてかはわかるよな?』

「! ……うんっ」


「くやしいから!」

『くやしいからだ!』


 二人は笑い合い、そして空を見上げた。

「でも、どうしよう……」

『試してみたいことがある』

 不安げなトワにイツカは決意に満ちた声で励ます。

「……わかった。やろう!」

 覚悟を決めたトワはイツカを強く握りしめる。イツカもその感触を確かめ、頷く。二人は初めてエーテライズに成功した時のことを思い出し再び笑う。


 その時、闇の中エーテルの波の一つがうねった。

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