第22話 神の目録(1)

 これは始まりの夢。


 オスロ大学のキャンパスの芝生の上、いつものメンバーが昼休みの時間を過ごしていた。

「願い事?」

 アリスが何を言ってるんだこいつはといった顔で訊き返してくる。

「もし本当にそこに行くことができるなら、なんでも願いが叶うんですって」

 隣でベンチに座っているクオンが苦笑しながら補足説明をする。

「私? 私はこの子が無事産まれてくれれば、もう何もいらないわよ」

 そして大きくなったお腹をさすりながら優しく微笑む。

「そうね…‥もし叶うなら他の学生や先生に舐められないように背を伸ばしてほしいわね」

 アリスはそんな彼女を横目で見ながら飽きれ顔でぼやく。

 今日も似合わないスーツを着ている。こうは言うが本当は可愛がられていることをまんざらでもないと思っていることくらい、みんな知っている。


「……何話してるの?」

 そこへ研究棟から出てきたシューニャが眠そうな顔で尋ねてくる。

「……願い? もちろんこの実験が成功することよ」

 と、当たり障りのない答え。でも本当は生き別れになった妹に会いたいってことを知っている。

「……それよりあなた、レポートの提出まだでしょ? 手伝ってあげるから……」

 そして腕をぐいぐいと引っ張ってくる。

「僕は魔法司書になりたいなあ。そうすればエーテライズの研究ももっと捗るしね」

 そこへ先生がやってくる。

 それは本心だろう。だがそれは憧れなんて綺麗なものではない。もっとどす黒い何か、思いがあることを知っている。彼は自分が嫌いなのだ。


「イツカ、お前はどうなんだ?」

 先生はその質問を一人ぼんやりと空を見上げていたイツカに尋ねた。

 イツカは黒い振袖姿に、長い黒髪を掻きながらゆっくりと振り向く。

「――みんなの、願いが――叶えばいいと思う」

 そしてしばらく考えた後、そう答えた。


「そういうあんたはどうなのよ?」

 アリスが尋ねてくる。

『わたしの願いは――』


 ここで夢はいつも終わる。



 真っ暗闇の空間の中、眼下に流れるエーテルの流れが奏でる鈴の音のような高い音だけが響いている。ひんやりとした空気はそれでいてわずかに暖かい記憶をエーテルの粒子に乗せて漂わせる。


『母さん!』

 驚き言葉を失う一行の中、まず口火を切ったのはイツカだった。

「はい、あなたの母親、相馬ケイでーす」

 ケイはにこにこ笑いながら応えると、トワの前に歩み寄る。

「……」

 トワは両腕でイツカを強く抱きしめながら、無言でケイを見上げた。その顔には驚きと共に困惑があった。自分でも何故だかはわからないがそわそわした。

「トワちゃん! 大きくなって!」

「!」

 ケイはトワをイツカごと抱き寄せると、腰を落としてトワと目線を合わせた。

「あ、あの……」

「クオンは元気? あ、うん、その格好見ればわかる。ほんとイツカそっくり!」

 そして心の底から嬉しそうにトワの全身を触って、それを確かめていた。

『母さん、俺達は――』


「ケイ! あんたは何がしたかったのよ!」

 イツカが口を開きかけた途端、アリスが声を張り上げてそれを遮る。その悲痛な叫びには怒りも憐れみも悲しみも喜びも、全てが含まれていた。

「……」

 アカーシャとエメリックも無言でケイを見つめる。その瞳にはやはり様々な感情が渦巻いていた。


「もう、相変わらずせっかちなんだから。久しぶりの再会なんだから焦らなくていいのに」

 対してケイはため息をつきながら、呑気に応える。

 そしてトワの両肩に手を乗せて立ち上がると、一行を再び見回して言った。


「間違いを正すため――かな?」


「間違い――だと?」

 その言葉の持つ不思議な力が一行を黙らせる中、エメリックがどうにか疑問を絞り出す。

「あの日、わたしは神の目録を開いた。それでみんなの願いが叶うと思った。ここならどんな因果でさえ自由に操ることができる。時間も空間も関係ない。全ては繋がっているのだから」

 ケイは語り出しながら片手を床に向かって振り上げる。するとそこにエーテルの青い粒子が集まり、木組みのロッキングチェアを形作る。それはまるでそうなるのが当然であるかのような、「自然な」現象であった。

「はいはい、みんなも座って」

 そして軽く腕を振るうと、一行の前にも次々と同じものが現れた。

「ふんっ」

「これは……エーテライズ? いや――」

「……」

 アリスは不服そうにどかっと座り、エメリックは興味深げに軽く腰掛け、アカーシャも無言で座った。

「ほら、二人も」

「あっ、えっと、はい……」

『……』

 言われるがままトワは座り、胸元のイツカも不服そうに口を閉ざした。


「それで、あたしらのこの姿が願いの叶った末だってのかい?」

 ロッキングチェアを揺らしながら一同が座る姿を満足げに見つめているケイに、アリスが疑問を投げかける。

「うん」

「ばかな! 私がこの姿になってどれだけ苦労してきたか!」

 何気なく首肯するケイに、エメリックは激昂して身を乗り出す。

「……先生、人の願いってのは案外自分ではわからないものなのよ。そこに関してはわたしも認識が甘かったと反省してるけど。こうしてみんなをもう一度集めたのもそれが原因だし」

「どういう、意味だ?」

 エメリックはケイの昔と変わらない飄々とした物言いに懐かしさを感じ、どうにか気持ちを落ち着かせて続ける。

「子どもの頃将来の夢をもって、それを実現できた人は稀だと思う。大半の人は生きていく中で自分の夢、願いを諦め、変えていくから。実現できた人だってそれはきっと子どもの頃見た夢のままではないでしょ。良かれにせよ悪しかれにせよ」

「それはそうだ。子供が見ている世界は狭量で稚拙だ。現実はそんなに甘くない」

「そう! 世界! こいつがやっかいなのよ!」

 ケイは手を叩き、やっと自分の苦労を理解してくれる人を見つけたかのように嬉しそうに相槌を打つ。

「一人の願いを叶えようとすれば、その人に繋がる全ての他人、世界をも芋づる式に変えることになる。魔法司書ならわかるでしょ?」

 そしておもむろに右手を振り上げると、その手の平の上に立ち並ぶ本棚の本と同じ青い表紙の本をぽんっと浮かび上がらせる。

「エーテライズを通して多くの人の記憶を見てきたと思う。人の因果は世界の理。願いの始まりは現実の果てまで繋がってる。みんなのその姿こそ願った瞬間に世界に決められた現実そのものなのよ」

「――運命、だとでも言うつもり?」

 嬉々として続けるケイにアリスが悪態をつく。

「宿命、と言ってもいい。結果を知ってるかどうかの違いでしかないけどね。アリス、あなただって大人に見られたいと言いつつ、その姿のまま止まってしまった。何故だかわかる?」

「……なんでよ?」

 アリスはばつが悪そうに一瞬言葉を詰まらせた後、尋ね返す。

「みんなに小さいと可愛がられてきた自分を失うのが怖くなったから。このままの自分が一番自分足り得ると気付いてしまったから。だから止まってしまった」

「……っ……」

 言い返そうとするアリスだったが、その自身の言葉の空々しさに気付き、ぐっと飲み込んだ。


「私は――」

「先生は逆。自分が嫌いだったから過去の自分を失くしてしまった。魔法司書になって世界そのものを否定しようとした。そうなったのも幼い頃両親に――」

「もういい」

 エメリックは全て話し始めるケイを遮った。それは彼にとって堪え難い過去であった。

「でも覚えてくれてる人もいたでしょ?」

「……ああ」

 そして世界は自分が思っているほど悪くはないことも知った。


「……」

「シューニャ、いや今はアカーシャか。あなたもわかるでしょ? そうなった理由が」

「……姉さんはどこ?」

 アカーシャはケイの言葉に身体をわずかに震わせながら、ぽつりと呟く。

「あなたの生き別れの妹、本当のアカーシャは確かにこの世界に今も生きている。巡り会わせることもできた。でもどうやっても二人は幸せになれなかった。あなたの愛したアカーシャはもういないのよ」

「……それでも、それでもわたしは姉さんを探す」

「あなたがそうなってしまったのには私が何度も手を出したせいもある。それについては本当にごめんなさい。でも――」


「やはりコードはあんたが現実にちょっかいを出してたってことなの?」

 虚ろな目を彷徨わせて姉を探すアカーシャを尻目に、アリスが厳しい口調で尋ねる。

「言ったでしょ。間違いを正すって。そのためにはみんなにもう一度集まってもらう必要があった。一つの現実を変えれば幾億の未来に影響が出る。だから魔法司書にしか気付けないコードを送ることにした。今この現実を導くために」

「まさか、全部なかったことにしてやり直そうというわけじゃないだろうな」

 エメリックがはっとなって口を出す。

「それも考えた。いや何度も試そうとした。でもできなかった」

「どうして?」

 アリスの問いにケイは深くため息をつき、目を瞑り、苦悶の表情を浮かべ、長き沈黙の末、ようやく立ち上がり、その言葉を告げた。


「わたしには彩咲トワをもう一度殺すことはできなかった」

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