第10話 忘れたレシピ(5)
夜の旧市街、広場の時計が零時を回ろうとしていた。夜といっても例の如く白夜のため空は明るい。だが夕方から雲が出てきて、空一面白く染まっている。
リサの古書店の教会の裏の林の中、トワは身を潜めていた。
『トワ、本当に行くのか?』
いつもの着物姿に腰のイツカから不安げな声が上がる。
リサの店に届けられたアルスオーブ怪盗団の予告状。リサも祖父も本気にはせず、子供の悪戯と一笑に付してしまった。だがトワはそれが本物であることにすぐ気が付いた。予告状を形成するエーテルが一味の一人が残した手帳と同じものであったからだ。
リサ達にこのことを知らせるべきであったが、敢えてそれをしなかった。前回の事件から間もない今、おそらく真実を訴えれば警察を動かすことも可能であろうが、警察でも彼らを捕えることは困難であろうと、前回の書店での手際から判断した。
だが結局のところトワの本心は、誰にも邪魔されずにもう一度彼らと接触して神の目録についての手がかりを得たいというところにあった。
「そろそろ中に入ろう」
トワはきょろきょろと辺りを見回して教会の裏口に近づく。
当然アリスにもこのことは一切話さずに無断で図書館を出ている。イツカは激しく反対したが、トワが一度言い出したら梃子でも動かない頑固者であることを知っているため、遂には折れた。彼らの目的が金品の強奪ではなく、あくまで相馬ケイの残したコードであるならば、トワに命の危険が及ぶことはないだろうという甘い考えもあったが。
裏口の鍵をかちりと開ける。エーテライズを応用すると可能な完全な犯罪行為である。幸いにも古い建物で警報装置なども入れていないようだった。
『トワ……』
「もしかしたら泥棒はわたしかも……」
トワも少なからず罪の意識を感じているようで、イツカに当てた手の平から汗がにじむ。
「にゃっ」
いつの間にか足元にいたデューイが気にするなとばかりに小さな声で鳴いた。
店の中は暗く、だが教会のステンドグラスから差し込むわずかな明かりが、ぼんやりと書棚を映し出す。埃がゆっくりと空間内を漂っているのが見えた。
『それで、どの本なんだ?』
「ええと……」
書棚の間をゆっくりと進みながらトワ達は怪盗団が狙う本を探す。
「イツカくんといっしょならすぐわかると思ったんだけど……」
だが見回してもそれらしき本は見つからなかった。
今まで見つけてきたコードも二人一緒の時であったので、おそらくそれがケイの出した二人の発見条件だとトワは考えていた。
『まさか、もう盗まれた後なのか?』
「そんな――」
イツカが最悪の事態を口にする。だが二人はリサが店を閉めるところからずっと教会を監視していた。リサと祖父、スタッフ以外店への出入りはなかったので、その可能性は低いはずだった。
「これから来るんですよ」
不意に書棚の陰から男が現れ、トワに声をかける。
暗くてよくわからないが、背の高いコート姿の男性、以前会ったユミルであった。
「!」
トワは咄嗟に身構え、左手をイツカに当てる。彼がまたあの仲間の青年がしたようにエーテライズで攻撃してくることを警戒した。
ユミルはコートの懐から小さな手帳を取り出す。あの仲間の青年と同じものであった。おそらくそれが彼のエーテルキャットと思われた。
「これからくるって、どういうこと?」
一触即発の中、トワが尋ねる。
「残念ながら私にもまだどの本にコードが現れるのかはわかりません」
「えっ? じゃあ何でこの店に」
何かしら目星があってこの店を狙ったはずだが、本当に知らないようだった。
「この店にあるから狙ったんじゃない。私が狙った店にコードを持った本が現れる」
「?」
「そもそもコードが都合よく私達の前に現れるのがおかしいとは思わなかったのですか?」
『母さんが仕込んだんだろ』
黙って聞いていたイツカが口を挟む。
「私達が立ち寄るであろう場所にあらかじめ用意したと? そんなことはありえない」
『何故そう言い切れる?』
イツカの問いにユミルは黙って頷くと、懐から先日町の書店から盗んだ学術書を取り出す。
「この本はあの書店で少なくとも十年以上は誰の手に触れられることもなく埃を被っていました。ケイが仕込んでおくことなど不可能だ」
「じゃあどうやって――?」
だがトワにもそれは思い当たる節があった。図書館の自室に残されていたケイからのメッセージ、それが込められていた百科事典に積もっていた埃、開いた時の紙の匂い、どれも確実に十年以上は手付かずのままのものだった。
「先日言いましたよね。相馬ケイは神になったのではないかと。時間と空間を超越した神の目録からなら今私達がいる世界に直接干渉することができるのではないか。私はそう考えています」
『そんなバカな』
「おそらく今も私達を見ているのでしょう。だがコードが現れる気配はない。まだ足りないということです」
ユミルはそう言うと手にした手帳を片手で開き、その中のページを親指でゆっくりとなぞる。
「!」
手帳から青いエーテルの光が灯り、暗い店内を仄かに明るくする。
「少し遊びに付き合ってもらいましょう。そうすれば現れるかもしれません」
そしてその手をトワに向けて振り抜く。
手帳から大量のエーテルが放出され、それは紙の束となってトワに向かって雪崩れ込む。
「つっ!」
トワは後ろに飛び退き、それを避ける。
地面に着弾した紙の束は、まるで意思を持っているかのように地を這い、高く波打ち、トワを押し流そうとする。その勢いで書棚が次々と倒れ、大量の本がばらまかれる。
「やめてください!」
トワは堪らず叫ぶ。店内の貴重な本達が連鎖するようにエーテライズされていく。
「あなたもエーテライズしてください。それが鍵となるかもしれない」
ユミルはいまだ蠢く紙の波の中、ゆっくりとトワの方へ歩いていく。
「そんなことできない!」
だがトワは断った。こんなことをしてまでコードを手に入れようとは思わなかった。何よりもし本当にケイが見ているのなら許すはずがない。
「……それなら目的を変えましょうか。あなたのその本を頂くとします」
『!』
ざわっとした感触がイツカの全身を襲った。
ユミルの放った紙の波が一瞬で全てエーテルの粒子に分解され霧散する。そして店の中の全ての本が一斉に青く光り、ゆらめき、その形を保てなくなっていく。
「これは――きたのか? いや違う……」
驚くユミルだったが、その現象がコードの出現などではなく、目の前にいる一人の少女が起こしていることを瞬時に理解した。
「……」
トワは左手をイツカの上に、右手をユミルの方にかざし、黙って睨みつける。
その瞳は真っ赤に燃え、辺りのエーテルの青と瞳の赤が暗い店の中に灯る。
「これは驚いた。本に触れることもなくこれだけのエーテライズを同時におこなえるとは。どうやらその本はあなたにとってよほど大事なもののようだ」
あくまで余裕の体を見せるユミルであったが、その声はわずかに震えていた。
『トワ! 落ち着け!』
イツカも尋常ではないトワの様子に声を荒らげる。彼女がこれほど怒りを露わにしたのは初めてであった。
「……この力、やはりあなたは――だが、そうすると君は――?」
ユミルは二人を交互に見つめて何事か呟く。
「だがこれも一興。その力、少し試させてもらいましょう!」
そして書棚の裏に走りながら、ゆらめく本の背を一気に指でなぞる。
すると触れられた本は先の紙の束同様意志を持ったかのように本棚から飛び出し、その形を鳥の姿に変えて飛翔し、トワの元へ一斉に飛びかかった。
『トワ!』
叫ぶイツカに対してトワは表情一つ変えず、前にかざしたままの右手を振り上げ、その鳥達を一薙ぎでエーテルへと帰す。
そして次々と襲いかかる鳥を走って避けながらエーテライズしていく。
「この程度ではどうともないですか。じゃあこれなら!」
ユミルは両手を本棚に突き出し、目を瞑り集中する。
今度は本だけでなく本棚ごと青く光り始め、形を変えていく。
「!」
本棚は巨大な青白いライオンとなり、咆哮を上げる。
そしてまるで野生のライオンそのもののように俊敏な動きで本棚の間を駆け、トワに向かって牙を剥き突進する。
トワは片膝をつき、右手を地面に当てる。すると足元から細長い円柱状に地面がせり上がり、ライオンの突進を回避する。そしてそのまま二階の欄干の上へ飛び移る。残った柱はライオンの突進を受けて崩れ、エーテルとなり紙に戻って飛散する。
さらにトワは欄干の上を走りながら下で獲物を見失い逡巡するライオンと、驚愕の表情で見上げるユミルを一瞬目で追うと、おもむろにライオンの背に向かって右手を突き出しながら飛び降りる。
触れられたライオンは瞬時に形を崩し、エーテルとなって砕け散る。
「くっ!」
その子供には有り得ない驚異的な身体能力を前にユミルは呆然として立ち尽くす。
そしてトワはゆらりとユミルの方に顔を向けると、今度は彼の方に右手を突き出し突進する。
『トワ! もういい!』
明らかに様子がおかしいトワをイツカが静止する。人に対してエーテライズなどおこなったら殺人では済まない。その人間の存在そのものを消してしまう。
だがトワは無表情なまま突進を止めない。
「まさかこれほどとはねっ!」
ユミルは額に汗を流しながらもにやりと笑うと腰を落とし、地面を引き剥がすように手を振り上げる。
二人の間にエーテルの壁ができ、ユミルは後退する。
しかしトワはその壁もものともせず一触れで砕き、さらに距離を詰める。
だが砕けた壁が突然爆散し、無数の紙と噴煙が立ち上る。
「っ!」
トワは立ち止まり、その青い煙の中でユミルの姿を見失う。
わずかに見えた人影は教会の入口をエーテライズで破壊して走っていった。
「まて!」
トワはその跡を追って駆け出す――が。
「あれ? トワ?」
教会の外に出た途端、目の前に一人の少女が立っていた。クーリクだった。
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