第8話 忘れたレシピ(3)

「おっきいなあ……」

 オルラトルの新市街、中央広場、トワが町に来てクーリクと出会った広場の中央に立つ時計塔。トワはそれを見上げて感嘆の声を漏らす。

 時計塔は古い煉瓦造りで、新市街の中でも浮いて見えた。

 トワは目的のガルロの家には行ったのだが、彼は不在であった。妻のアンナによれば彼は時計塔の技師で、もう五十年もその維持、管理をおこなっているという。

 定期的に時計の歯車に油を差す仕事をしており、今日はたまたまその日で留守にしていた。督促した図書も仕事が終わった後、直接図書館に返しに行くために持ち出していたため、こうして様子を見に来たわけだ。もちろん時計塔への興味も多分にあったが。

「おや? お嬢ちゃん、迷子かね?」

 時計塔の入口の前で入ろうかトワが迷っていると、中から一人の真っ白な口髭の老人が出てきた。彼がガルロであった。

「い、いえっ! 図書館の者です!」

 トワはびっくりして応える。

「図書館? ああ、あの本かね」

 ガルロは笑いながらトワを中に誘う。

 中は外観とは裏腹に綺麗だった。中央に上の時計へ続く長い螺旋階段があり、薄暗い中を裸電球がぼんやりと照らしていた。

「はい、これだね」

 ガルロは一番下層にある机の上に置いてある図書を渡した。机の上には食べかけの弁当箱が広がっていた。

「ああ、仕事の前にちょっと早めのお昼をね」

「そうなんですか」

 トワは図書を受け取って確認すると頷いた。そしてちらちらと上方を見上げる。

「気になるかね?」

「あっ! いえっ! その……気になります」

 上層から低い重低音が響く。時計の歯車の動く音であった。

「おいで」

 ガルロは整備用の工具箱を手に持つと、机の上からサンドウィッチをひょいとつまんで齧り付き、螺旋階段を登り始める。


 鉄製の螺旋階段に足を乗せる度、ごんごんと重い音が時計塔内に響く。

「暗いから気をつけてね」

「はい」

 ガルロは一歩一歩ゆっくりと上がりながら、時折振り返ってトワを確認する。

「……ずっとやってるんですか?」

「うん? ああそうだね。もう生活の一部さ」

 トワの問いにガルロは色あせた柱をさすりながら笑って答える。

「こいつがいつか止まって取り壊されるのが先か、儂が死ぬのが先か。妻よりも長い付き合いだからね」

「すごい」

 トワはその言葉に素直に驚嘆した。

 図書館でも古い図書を扱うことは多い。今この時代を生きている人々よりもずっと長い年月を経てきた図書をエーテライズする時の興奮は筆舌に尽くし難い。

 様々な時代の膨大な人間がその図書に触れ、思いを残していったその記憶を一瞬で辿る感覚は、まだ九年しか生きていないトワにとって衝撃的だった。

 もしこの時計塔をエーテライズすることができたら、このガルロが五十年間、何千回と登って来た思い、それだけでなくこの時計塔の鳴らす鐘の音を聴き、見上げた人々の思いすら感じることができるに違いない。

 それを思うとトワはぞくぞくと全身に鳥肌が立つ思いであった。

「ふふっ、ここが気に入ったようだね。あの子と一緒だ」

 ガルロは自然と顔をほころばせるトワに、その気持ちを察したのか笑顔で応えた。

「あの子?」

 螺旋階段を登りきると踊り場になっており、至る所で大きな歯車がゆっくりと回転をしている。

 その一角に一人の少女が毛布にくるまって床に座っていた。

「え?」

「……」

 驚くトワに気付いた少女はうろんげな瞳で見つめ返す。

「今日も来てたのかい。よっぽど居心地がいいようだ」

 ガルロは気にするでもなく工具箱を置くと、歯車を順番に整備し始める。

「あの……」

 取り残されたトワは少女に恐る恐る声をかける。

「ちょっと前からここに居付いてるみたいでね。家に帰るよう言ってるんだが聞く耳持たなくてね」

 ガルロは肩をすくめると作業を続ける。

 見たところ歳も身長もトワとほとんど変わらない。頭からかぶった毛布から覗くエメラルド色の瞳が印象的だった。そして何故か下着姿だった。

「……アカーシャ」

 少女はぼそりとその名を告げる。

「あっ! トワですっ!」

 トワも慌てて名乗る。

「……」

「……」

 お互い無言で見つめ合う。辺りの歯車が回る重い音だけが響く。

 ガルロはちらりと二人を見ると、余計な口出しはしない方がいいかと心の中で微笑み、我関せずに作業を続けていた。

「あの……もしかして――」

「……魔法司書」

 トワの疑問に少女――アカーシャはぼそりと答える。

 二人にはお互い他の人には見えないものが見えていた。

 魔法司書特有のエーテル残滓。それがお互いほのかに漂っていたのだ。

「あなたも――?」

「……」

 トワの問いにアカーシャは無言で頷くと、壁にある小窓に目をやる。わずかな隙間から外の青い空が見えた。

 すると小さな黒い影、一羽の鳥が近づいてきた。

「わっ!」

 鳥はそのまま小窓から翼をはためかせて時計塔の中に入ってきた。黒い鳩であった。

「……ラジエル」

 黒い鳩は部屋の中に黒い羽を撒き散らしながらアカーシャのかざした腕の上に留まる。

「それがあなたのエーテルキャット?」

 飛び散った黒い羽は床に落ちると青く煌めき、エーテルとなって霧散した。

 ラジエルと呼ばれた黒い鳩はきょろきょろと首を振って辺りを見回している。

 ガルロはもう慣れているのか特に驚いている様子はなかった。

「すごい! エーテルで出せるんだ!」

 トワは日本にいた頃にも他の魔法司書に会ったことはあったが、自分と同年代でエーテル式のエーテルキャットを使う人に会うのは初めてであった。

「……」

 アカーシャはそんなトワの感激の声にも反応を示さず、無言で彼女をじっと見つめた。

「えっと……わたしの?」

 トワはその視線から今度はお前のを見せろとせがまれていることに気付き、後退る。

「(……デューイ、いる?)」

 そして辺りを見回しながら腰を落とし、口元に手を当て小声で呼びかける。イツカが手元にないので代わりにデューイを呼んでみた。

 だがデューイは現れなかった。

「うーん、今はこっちにはいないみたい」

「……?」

 アカーシャは怪訝な表情で小首を傾げる。

「ははは、うちの子は気まぐれだから――」

 トワは引きつった笑みを浮かべて誤魔化す。

「そ、その、アカーシャ、はどうしてこの町に?」

 トワは話題を逸らすために問いかける。名前に『さん』付けをするか一瞬迷ったが、勇気を出して呼び捨てにしてみた。どことなく彼女から自分と似た何かを感じたのかもしれない。

「……姉さんを探している」

「お姉さん?」

「……魔法司書。ラジエルも姉さんが作った」

 アカーシャは腕の上に乗ったラジエルに愛おしそうに顔を預ける。ラジエルもそれに応えるように首を擦り付ける。

 トワはその様子を見て二人が自分とイツカのような関係なのだと理解した。

「そっか、お姉さんも魔法司書なんだ。名前聞いてもいい?」

 この町に来てから次々と魔法司書と出会っている。本来魔法司書の存在は希少で、そうほいほいと出会うものではない。これもこの町が相馬ケイのいた町だからであろうか。

「……シューニャ」

 アカーシャはぽつりとその名を告げた。

「シューニャさんか。わたしは知らないけどきっと図書館のみんななら知ってると思うから、何かわかったら知らせるね」

「……図書館?」

「うん。旧市街の坂の上の森にある町立図書館。わたしは今研修でそこにいるの」

 トワは小窓から外を眺める。ここからでもわずかに図書館が見えた。

「そうだ、今電話で――」

 ――アリスに尋ねようとした矢先、腰の帯に差したその携帯電話の着信音が鳴りだす。

「わわわっ、えっと通話はっ――と」

 慣れない操作にあたふたしながら出ると、相手はエメリックであった。

『トワさん、今どこですか? こっちは図書館に返却本を置いて広場まで戻ったところですが』

「あっ! はいっ! ガルロさんの本は受け取りました。戻ります!」

『あぁいえ、大丈夫そうならそのままリサさんの方へ行ってくれますか? 僕はエヴァさんがここから近いので。難しそうならそっちへ向かいますが』

「わかりました! リサさんのところに行きます!」

 トワは大分道草を食ってしまったことに気付いて慌てて答えて、そのまま電話を切ってしまう。

「お仕事の邪魔をしてしまったかな?」

 ガルロがそんなトワを見て苦笑する。

「い、いえっ! ありがとうございました」

 トワはそのまま急いで階段に向かう。

「あっ! アカーシャもまたね!」

 そして振り返ると、アカーシャに向かって手を振る。

「……」

 アカーシャは無言で頷くと、被っていた毛布を脱いで小さく手を振る。

 エメラルド色の長い髪がふわりと露わになる。

「!」

 それを垣間見たトワは一瞬既視感に襲われて息を飲むが、それが何であったのかは思い出せず、そのまま階段を降りていった。


「仲良くなれそうかね?」

 かんかんと階段を踏み鳴らしながら慌ただしく去っていくトワを見送り、ガルロは腕に留まったラジエルをぼんやりと見つめるアカーシャに笑顔で尋ねた。

「……よく知ってるから。でも……」

 アカーシャはぼそりと答えると、再び毛布をかぶり、そのまま横倒しに寝転んだ。そしてゆっくりと目を閉じる。

 放たれたラジエルが時計塔の中を飛び回り、抜け落ちた黒い羽が青いエーテルとなって部屋に舞った。



 時計塔から出たトワであったが、次に向かうべきリサの家の場所を聞くのを忘れていたことに気付き、電話で聞くか、いやお仕事の邪魔をしてしまうだろうか、やはり一旦図書館に戻るべきだろうか、などとその場でぐるぐると迷っていると――

「お嬢さん、なにかお困りですかな?」

 突然後ろから声をかけられた。

「えっ?」

 振り返るとそこにはクーリクが立っていた。

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