第6話 忘れたレシピ(1)
これは夢――
どこかの大学のキャンパスの芝生の上、よく知っている人たちが話をしている。
優しそうな笑顔で大きくなったお腹をさすっている人、彩咲クオン。わたしのお母さんだ。
まるで少女のような外見に似合わないスーツ姿の人、片桐アリス。この人がそうだったんだ。本当に昔から変わってない。
長い黒髪に赤い瞳、黒い着物姿の人、相馬ケイ。イツカくんのお母さんだ。
そしてお母さんのお腹の中にいるのが多分わたしだ。
これはイツカくんの記憶――
いつも一緒にエーテライズをしているせいか、時折イツカくんの記憶の夢を見ることがある。夢の中のわたしはイツカくんの身体を借りて彼女らと一緒に過ごしていた。
お母さんの側に一匹の白猫が近寄ってくる。前のデューイ、今のデューイのお母さんだ。イツカくんは親子とは認めてくれないけど。
アリスさんはいつも周りから、特にケイさんから子供扱いされるのが嫌で、大人っぽい格好をしているけどやはり似合ってない。
ケイさんはいつも彼女らの中心にいた。明るく誰に対しても屈託無く接することができる彼女にみな惹かれるのは当然のことだった。
彼女らが何を話しているのかは聞こえない。きっとイツカくんも覚えていないからだ。
だがこれは楽しかった記憶。それは彼女らの笑顔を見れば一目でわかる。
しばらくすると校舎から一人の白衣を着た背の高い女性が近づいてくる。
エメラルド色の綺麗な髪と瞳のその女性はケイさんに向かって何やら怒鳴り立てている。
ケイさんの方は頭を掻きながら全く悪びれる様子もなく笑ってそれに応えていると、しまいには腕を強引に引っ張られて連れていかれた。
そこへ通りかかった背の高いお髭のおじさん――きっと先生だ――が呆れ顔でケイさんに説教を始めていた。
残った者たちはいつものように笑っていた。
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
ベッドの裏の棚の上の目覚まし時計の針がかちりと六時を指すと、甲高い音が部屋の中に響き始める。
『トワ、起きなよ』
「うーん……」
目覚まし時計の隣に置かれたイツカが堪らず声を上げる。
『あーうるせえ!』
止めたくても止められない。まさに手も足も出ない。
「ふぁああああ」
ようやく起き上がったトワはばしんと目覚まし時計を壊しかねない勢いで力強く叩き止めると、そのまま虚ろな目で前を見つめていた。彼女は絶望的に朝が弱いのだ。
「夢――みた」
そしてぼそりと呟く。
『……どんな?』
イツカはちょっといらっとしながら尋ねる。
「わすれた」
トワはベッドから降りると、ふらふらと顔を洗いに部屋を出ていった。
『……』
イツカは深くため息をついた。
トワ達がオルラトル町立図書館に来てからもう一週間が過ぎようとしていた。
朝の開館準備はトワの仕事で、アリスが朝食の準備をしている間におこなう。
各階の電気をつけて回り、利用者用検索端末やコピー機の電源を入れ、利用者が手を触れる可能性のある書棚や机、手すり等を布巾で拭いていく。
それが終わると玄関の鍵を開け、本を運ぶブックトラックを引いて外に出る。そして図書館入口横に設置されている図書返却ボックスの鍵を開け、夜間に返却された図書をブックトラックに積んでいく。
『もう慣れたか?』
腰のイツカが尋ねる。
「うん」
トワはカウンターに設置されたパソコンの前で、ブックトラックの図書をバーコードリーダーで順番に返却を通しながら答える。
仕事着は基本的に着物のままだ。動きにくいし汚れるのでイツカはもっとラフな服装に着替えることを提唱するが、トワはもう馴染んでしまったのか変えようとしない。
「朝飯できたわよ!」
そこへエプロン姿のアリスがやってくる。
「はい!」
トワは元気よく応えると、返却を通した図書を返却ラックに並べて席を立つ。
ここから図書館の一日が始まる。
朝の八時半を過ぎ、常勤の職員達が続々と館内に入ってくる。
「おはようございまーす」
「おはようトワちゃん」
「はい、おはようございます!」
朝食を済ませたトワは先の返却図書を元の棚に戻しながらそれに応える。
図書館の開館時間は九時からで、日によってはかなりの利用者が開館と同時にやってくるので、いつも早めに開けているのである。今日は日曜なので特に多い。
「トワ、ちょっといい?」
事務室の中でタブレット型端末を指でいじりながらアリスが声をかける。
「はいっ」
トワは小走りで事務室の中に入る。
「そろそろ館内の仕事は慣れてきたと思うから、今日は町まで下りて返却図書の回収をやってもらいたい」
「返却図書の回収――?」
「ああ、返却期限を過ぎて督促しても返しに来ない連中から奪い取ってくるお仕事よ」
「他の方から予約が入ってなければその場で延長も受け付けますよ」
物騒な言い回しをするアリスの横からエメリックが補足する。
図書館のホームページからログインすれば、家にいながら自分で延長申請をすることも可能だが、延滞する者は得てして忘れるものである。また年長者の多いこの町の利用者にはそういった作業を煩わしく思う者も少なくない。電話やメールも然りだ。よって直接督促に赴くというわけだ。
「エメリック、あんたも一緒に行きな。まだ場所もわからないだろうしね」
「わかりました」
エメリックは着ていたエプロンを脱ぎ、督促者のリストを打ち出す。
「四件ですね。もう今日行く連絡は済んでいます。行きましょう」
「はっ、はい!」
トワは慌てて支度を始め、部屋を出ようとするエメリックを追いかける。
「あー、イツ――その本は置いていきな」
「えっ?」
周りに他の職員がいるのに気付いたアリスは言い直して呼び止める。
「ちょっと用がある」
「……」
『(トワ……だいじょうぶだ)』
明らかに拒絶の意を示すトワに、イツカはなだめるように小声で言い聞かせる。
「じゃあ、行ってきます――」
熟考の末ついに折れたトワは、アリスの手元に残したイツカを名残惜しそうに何度も振り返りながら、玄関で待っているエメリックの元へ向かった。
「少しお前に依存しすぎなんじゃないかね」
館長室に向かう廊下でイツカを小脇に抱えたアリスが、誰に聞かせるでもなく呟く。
『……まあ、ずっと一緒に育って来たからな』
イツカは九年前まだ赤子だった頃からトワを見てきている。
「学校にだって行ったことないんだろ?」
『小さい頃は身体の調子が不安定だったからな。今はもう大丈夫だけど』
トワは身体が弱かったというわけではなかったが、時折意識を失うように眠りに落ちることがあった。医者にも診てもらったが異常は見つからなかった。
しかし集団生活には耐え得なかったため、幼稚園や小学校には行かず、ずっと家や図書館で大人達に囲まれて過ごしてきた。
『まあ俺も似たようなもんだったけど。俺だって今でこそ保護者面してるけど、あいつがいないと何にもできないからな。今だって不安で逃げ出したいくらいだ』
イツカは肩をすくめて――る気分で――おどけてみせた。
「……そうかい」
アリスはそれ以上何も言わなかった。二人が尋常ならざる苦労をしてきたことは、クオンから何度も聞いているからだ。
アリスが本の背を優しく指で撫でるのを、イツカはくすぐったいのを我慢して黙って受け入れた。
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