第5話 青い雪が降る町(4)
「ふう……」
バスルームで一人湯船に浸かりながら、トワは天井を見上げて今日あったことを思い出していた。
クーリクとの出会い。彼女の本をエーテライズで治したこと。書店での盗難事件。アルスオーブ怪盗団ユミルとの対峙。そして図書館のアリス館長との対面。そのどれもが日本にいた頃には想像も出来なかったような体験だった。
ここに来たのは魔法司書として半人前である自分が、よりその腕を磨くためではあるが、それ以上にイツカを元の人間の身体に戻してあげる手がかりを探すためである。神の目録が何であり、そしてどうすれば開くことができるのかはまだよくわからないが、同じ目的を持つユミル、怪盗団との競争に不覚にもわくわくしている自分がいるのもまた事実だった。
「入るわよ」
――と、感慨に耽っていると、突然カーテンが開かれ、一人の少女が全裸で入って来た。アリスだった。
「えっ!」
全くの不意打ちにトワは面食らって立ち上がると、足を滑らせて後ろに倒れそうになる。
「ちょっと!」
思わず伸ばした手がアリスの腕を掴み、二人とも湯船の中に盛大に水飛沫を上げて倒れる。
「ぷはっ」
トワが湯の中から顔を上げると、目の前には頭から湯を浴びたアリスの顔があった。
「……」
「……」
二人はそのまま無言で見つめ合った。
「……あ、あの」
トワは気まずくなって先に声を上げる。
アリスはトワに覆いかぶさる形になっていた。その小さな身体には不釣り合いな大きな胸がトワの胸を圧迫している。
「――あたしはどう見える?」
「えっ?」
突然の問いにトワは混乱する。冗談で聞いているのではないことはアリスのその真剣な眼差しからわかった。
「……えっと、その綺麗だなって」
実際幼い外見ながらもその美しい金髪に深いブラウンの瞳、スリムな身体にすべすべの肌はまるでおとぎ話の中のお姫様のようであった。
「あたしは九年前からこの姿のまま変わっていない」
「!」
アリスは湯船の中で立ち上がると、自身の身体のあちこちをトワに見せつける。
「おそらくイツカがああなったのと同じ」
「そんな……」
トワはイツカが言っていたことを思い出した。アリスもまた『その場にいた一人だった』と。
「あたしもあの時なにがあったのかはよく思い出せない。でもこんなことをするのはケイだってことだけはわかる」
「……」
「どうせここに来たのも神の目録の手がかりを探すためだろ?」
「うっ……」
完全に見抜かれていた。
「けどやることはちゃんとやってもらうよ。半人前のあんたたちをみっちりしごくのがあたしの仕事なんだからね」
「ふぇ」
アリスはトワの両頬を指で引っ張る。その顔がおかしかったのか突然吹き出して笑う。
その笑顔がまるで子供のようだったのでトワもつられて笑った。
「そういや今日町で魔法司書が現れたって聞いたんだけど。まさか人様の本を勝手にエーテライズしたバカなんているわけないわよね?」
「――はは」
二階のイツカにまで聞こえるほどの怒号が館内に響き渡った。
夜の九時、夜といってもまだ空は明るく、日も傾いてはいるが夕方のように温かい光を発している。
ピンクのパジャマ姿に上着を羽織ったトワは、ベッドの上で寝転がりながら窓の外を見る。
「なんか変な感じ。夜じゃないみたい」
『すぐ慣れるさ』
机の上のイツカがそれに応える。
風呂を出た後、食事をしながらみっちりと説教を受けた二人は、今後図書館の外で勝手にエーテライズをおこなうことを固く禁じられた。
これは魔法司書の暗黙のルールでもあり、図書館の『図書』以外をエーテライズすることは禁忌とされている。複製や著作権の問題、果ては電子版を売りたい出版社の思惑など闇が深い。結果、公にエーテライズが許されているのは図書館資料の保存、修理、絶版資料の補完等に限られているのが実情であった。
「あっ、お母さんからメール来てた」
トワは出発前に渡された携帯電話をいじりながら確認する。
『時差は八時間、今日本は朝の五時ってところだな。到着しましたって送っとけ』
「うん」
トワはメールを送り返すと、部屋の中に運び込んだ段ボールを物色する。とりあえず生活用品だけは取り出して部屋のあちこちに散乱させている。
「あれぇ、輪ゴムどこ入れたかなー?」
『……髪留めか? それは鞄に入れたろ』
「そうだっけ?」
トワは床の上に開きっぱなしのキャリーバッグの中から見つけ出すと、長い髪を無造作にゆるくツインテールに結ぶ。
「にゃー」
するといつの間にか部屋に入っていたデューイが小さく鳴き声を上げ、部屋の本棚にある一冊の本の背をがりがりと爪で引っ掻き始める。
「こら、デューイ。やめな……あっ!」
『……どした?』
トワは駆け寄るとその本を取り出す。本棚は長いことそのままだったのか埃が舞う。
「この本、エーテルが残ってる」
『まさか、コードか!』
本はなんてことはない百科事典のシリーズの一冊で、背にラベルが貼られていた跡が残っていることから、元は館内に配架されていた図書で、新版が出て廃棄されることになったものを引き取ったのだと思われた。
トワは本棚の前に座り、埃っぽいその本を開くとページをめくっていく。
そしてあるページでその手を止める。そこに何かがあると感じたのだ。
「ノシュク・スコグカット――」
『それって……』
「うん、別名ノルウェージャンフォレストキャット。デューイと同じ猫だね」
開いたページには猫の写真がたくさんあり、何やら付箋やら書き込みがされていた。
「これでデューイのこと調べたのかな」
『前の――な。コードではなさそうだな』
ノルウェージャンフォレストキャットは猫の品種の一種で、ノルウェーや北欧の寒冷地に適応した種である。長毛種で、それは『今の』デューイにも引き継がれている。ノシュク・スコグカットとはノルウェー語で「ノルウェーの森林猫」という意味である。
『そういやデューイはいつから飼ってたんだっけか。母さんは猫好きだったからなあ』
「これ、エーテライズしてみる」
『は?』
トワは百科事典とイツカを持って立ち上がると、窓を開けてベランダに出る。
『トワ、多分大したことはわからないよ。記憶を辿るならその本を使った人と一緒にやらないと』
「わかってる」
トワは昼間クーリクと共にエーテライズを行なったことを思い出す。あの時一緒に手を繋いだからこそあの本の記憶を深く辿ることができたのだ。
「でも、きっと何か残ってる。そう感じたの」
『……わかった。やってみよう』
イツカは一瞬館長の顔が浮かんだが、苦笑して応えた。
「ありがとう!」
ベランダからはオルラトルの町が一望できた。空は明るく、暖かい穏やかな風がトワの髪を揺らす。
「いくよ」
『ああ』
トワは左手にイツカを抱えたまま屈んで辞典を地面に置くと、目を瞑り右手を百科事典に乗せる。
「書誌検索――」
そして該当する情報を探し始める。
「――多くてどれかわかんない」
『四訂版第五刷だ。その後から出版社が変わってる』
「ありがと」
書誌を特定すると目を開き、辞典に置いた手に意識を集中する。青白い光の粒子が仄かに漂い始め、辞典はゆっくりと浮かび始める。
「
トワの声と共に辞典はゆっくりとその形を崩し、抜け落ちたページが渦を描くようにエーテルに溶けながら舞い上がっていく。
「
トワは手を掲げ、辞典の再構成を始める。が――
「――えっ?」
渦巻くエーテルはさらに勢いを増して空に昇り、そしてついに弾けた。
「!」
まるで花火のように大輪を咲かせ、図書館上空で弾けたエーテルは、まるで雪のようにゆっくりと町に降り注いだ。
「きれい……」
トワは空を見上げてその光景に見とれた。
『トワ!』
イツカの声でまだエーテライズの途中だったことを思い出し、再び手を空にかざす。
「
降り注ぐエーテルの中から辞典の記憶を見つけ出し、それを掬い取る。
【Bonne arrivée!(ボンヌ アリべ!)】
「あっ!」
『!』
二人はその中にある言葉が残されていることに気が付いた。
フランス語だが西アフリカのベナン共和国で使われている言い回しで、その意味は――
【ようこそ!】
「ははっ」
『まったく……こんなの仕込んでたのか』
二人は笑うと、最後の仕上げに入る。
「
分解された辞典のエーテルが再び収束して、元の形に戻っていく。
最後にぽんっと音を立て、辞典はトワのかざした手の中に収まる。
「ようこそ……か」
トワは辞典を抱きしめてその言葉の意味を噛み締めると、眼下に広がるオルラトルの町を一望した。まだエーテルの雪がわずかに降り注いでいる。
やっと到着したという実感が湧いて来た。
そしてこの町でこれから魔法司書としての日々が始まる予感に胸が踊った。
「よろしくね、イツカくん」
『ああ』
エーテルの一粒がトワの手の平にゆっくりと落ち、そして消えた。
なおこの後、二人はアリスにまた小一時間説教を受けることになるが、それもまた始まりの思い出の一つになったのかは定かではない。
「にゃー」
それを笑うかのようにデューイは呑気に鳴き声を上げた。
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