第2話 青い雪が降る町(1)
スウェーデンの首都ストックホルムからノルウェーの町ナルヴィクまで続く路線は、かつてはヨーロッパ最北の鉄道と言われた路線で、その途中、両国の国境付近、スウェーデン側最後の駅となるリクスグレンセン駅、そこから国境を越え、フィヨルドに沿った山岳地帯を車で二時間ほどのところにオルラトルの町はある。
人口二万人ほどでそれほど大きな町ではないが、夏は登山、冬はスキーやオーロラ観光客で賑わう。
気候は北欧の町でありながら夏は暖かい。これは北大西洋海流の影響で、ノルウェーの諸港を不凍港足らしめている。
今は七月初頭で、まさに夏の始まりであった。
「うーん!」
小さな車輪付きの茶色いキャリーバッグを引き止めて、トワは大きく伸びをした。
日本から飛行機でストックホルム、そこから寝台列車で丸一日、そして駅から徒歩と荷馬車に揺られて数時間、ようやく到着である。
『トワ、大丈夫か?』
町の入口の噴水広場の石壁の脇に座り、街並みを見つめているトワに、イツカは話しかけた。
幼い少女一人でこのような長旅を成し得たのも、このパートナーがいたからこそである。
「うん、だいじょうぶだよ」
昼過ぎということもあり、多くの人が行き交っている。
着物姿の少女が一人座っているのを見て、みな物珍しそうに視線をちらちらと飛ばしていた。
「……いこっか」
『そうだな』
居心地の悪さを感じたトワは立ち上がると、キャリーバッグを引いて歩き出す。すると――
「お嬢さん、なにかお困りですかな?」
突然後ろから声をかけられた。
「えっ?」
振り返るとそこにはトワとほとんど背丈の変わらない少女が立っていた。
肩で綺麗に切り揃えられた栗色の髪に、大きな青色の瞳、水色のワンピースから覗くよく日に焼けた健康的な肌のその少女は、いつも部屋の中で本ばかり読んでいたトワとは対照的だった。
「もしかしてオルラトルは初めてかね?」
少女は芝居がかった口調でトワに迫る。
「あっ、えっと、はい。あ、あの、あなたは?」
トワは目をぱちくりさせながら後退る。
日本ではいつも周りの人間はみな年上で、年の近い子と接するのに慣れていない彼女はその勢いに圧倒されていた。
「おっほん。こちらはオーレン観光協会のクーリクでございます!」
少女はわざとらしく咳払いをすると、高々と名乗りを上げる。
「――観光協会?」
「うん。観光客の人に町を案内してあげるお仕事」
一転、今度は声のトーンを落として普通に話し始めた。
トワはその緩急に目が回りそうだった。イツカは笑いを堪えるのに必死だった。
クーリクはトワの隣に並ぶと広場に目を向ける。
さっきまでは気がつかなかったが確かに広場には観光客と思われる人がたくさんおり、彼らに次から次へと話しかける若者がいる。
「ライバルも多いわけよ」
「……そうなんだ」
納得するトワをクーリクはまじまじと見つめ始める。
「えっと……なに?」
「これ着物だよね? それに綺麗な黒髪。日本から来たの?」
トワが着物姿なのは母の趣味であった。母――彩咲クオンはイツカの母、相馬ケイと学生時代からの友人で、ケイはいつも着物を着ていたため、彼女のことが大好きであったクオンは自分の娘にも着物を着せることが多かった。髪を長く伸ばすのも同様である。
トワは最初はめんどくさくて嫌だったが、今ではすっかりこの姿でいることに慣れてしまっていた。
「それに――綺麗な赤い目……」
「あ、あの……ちかい……」
顔を間近まで近づけて見つめられてトワは思わず恥ずかしくなってしまう。クーリクの深い青色の瞳も外国は初めての彼女には新鮮に、美しく見えた。
「……お名前訊いてもいい?」
「あっ、トワと言います!」
トワは自己紹介をするのをすっかり忘れていて慌てて答える。
「よろしくトワ! それじゃあ町を案内しましょうか。あ、お金はいいから。わたしも今日はお仕事じゃないし」
見れば彼女は学校帰りのようだった。肩から大きなスクールバッグをかけている。
「その――観光じゃなくて図書館に行きたいんです」
「うん? 図書館? 旧市街の?」
クーリクは不思議そうな眼差しでトワを見つめる。そしてバッグの中から教科書をかき分けて一冊の本を取り出す。
トワの目が一変する。
「この町で図書館といったら、あそこしかないけど。そんなところ見たいとか珍しいね」
クーリクは本を開くとページを次々とめくり始める。
その本は町のガイドブックであった。かなり年季の入ったもののようでボロボロである。表紙の厚紙は既に破れて欠けている。中のページも黄ばんで文字もかすれている。
しかし至る所に手書きの書き込みや、付箋、折り目がつけられていることから、その本が長年愛用されていることが一目でわかる。
「……」
トワは食い入るように覗き込んでその本を見つめた。
「……この本? うちの店で昔からずっと使ってるの。もう大体覚えちゃってるけど、旧市街のとこは最近全然見ないから一応ね」
クーリクはページをめくるたびに目を輝かせるトワに軽く驚きながら答えた。
「あ、あったあった。オルラトル町立図書館っと。――はいっ」
そして図書館のページを見つけると、トワの方にずいと差し出す。
「!」
トワは目を見張り、きょろきょろと首を振り、恐る恐る手を伸ばし、その本を受け取った。
「本好きなんでしょ? 腰にそんな大きな本抱えてるし」
クーリクは興味深そうにトワの本――イツカをまじまじと見つめる。
「……は、はい。すいません」
トワは一瞬イツカに視線を落とすと、イツカが笑いを堪えているのに気付いて我に返る。
そして顔を赤くして伏せると、図書館のページを読み始める。
オルラトルの町は今トワ達がいる新市街と、北の旧市街に分かれている。新市街はここ数十年で近代化が進んだ地区で、新しいビルも多く店を連ねている。対して北の旧市街は住宅街となっており、中世の時代からの建物も残っていて、国の文化遺産にも指定されている。図書館もまたその一つで、町の歴史的資料の収集を一手に担っている。
「……読んだ? さっそく行ってみる?」
声をかけられたトワは顔を上げ、北の旧市街に視線を向ける。旧市街は山肌を縫うように続く坂道に沿って建物が並んでいる。新市街の建物も古い町並みの景観を損ねないように同じオレンジ色の屋根で統一されているが、旧市街とは色合いが違うのが一目でわかった。
「うん、でもその前に……」
トワは手に持ったガイドブックに視線を落とし、クーリクに背を向けるとその場にしゃがみこんで小声でイツカに話しかける。
「(……いいよね?)」
『……好きにしろ』
イツカはまた始まったといった風でやれやれとため息をついた。
「ん?」
クーリクは首を傾げて何やらひそひそと独り言を呟くトワを見つめた。
「――この子を治してもいいですか?」
トワは両手でガイドブックをクーリクの前に突き出し尋ねる。
「えっ? 直す?」
クーリクは目を丸くしてトワの言葉に疑問符を浮かべる。
「はい! この子の治療ですっ」
トワは鼻息荒くそれに答える。
「えっと、確かにもうボロボロだけど、そんなことできるの?」
クーリクは突然の申し入れに困惑する。
「だいじょうぶです。すぐ終わるから見ててください」
「う、うん」
そしてトワの妙な気迫に押されてしどろもどろに首肯する。
「ちょっと、持っててください」
トワはガイドブックをクーリクに返すと、その場に小さく屈む。
「書誌検索――」
そして左手を腰のイツカの上に乗せ、目を瞑って呟く。
するとイツカがほうっと仄かに青く輝き始める。
「!」
クーリクはその不可思議な現象に息を飲む。
「――改訂版が三件もある。でも……」
『そのままにしとけ』
「うん」
トワは目を瞑ったまま小声でイツカと確認し合った後、目を開けて立ち上がる。
「エーテライズを始めます。本を――」
そして右手をクーリクに向かって差し出す。その手の平はわずかに青く輝いている。
「……」
クーリクはそのトワの姿に驚嘆する。
長い黒髪と着物の裾が風に揺れ、その赤い瞳はより深く輝いている。まるで何かが取り憑いたかのように大人びて見えた。
「うん? クーリクさん?」
ガイドブックを両手で抱きしめたまま呆然と立ち尽くしているクーリクに、トワは小首を傾げる。その仕草は元の幼い少女のものに見えた。
「あっ! うん、ど、どうぞ!」
我に返ったクーリクは慌てて本を両手で前に突き出す。
すると本はまるで意志を持ったかのようにクーリクの手の中から離れ、二人が差し出した両手の間の中空に浮かび上がる。
「
トワが宙に浮かぶ本に両手をかざし、呪文のような言葉を紡ぐ。
すると本も青く輝きだし、まるで固く結ばれていた糸がするすると解けていくかのように本の表紙が外れ、中のページが次々と抜け落ち宙を舞っていく。
そしてその一枚一枚が風の中に溶け、青い光の粒子に変わっていく。
「手を――」
トワは右手を空に掲げながら、左手をクーリクに向かって差し出す。
「……うんっ!」
その幻想的な光景に圧倒されていたクーリクだったが、トワの向けたわずかな微笑みに強く頷き、覚悟を決めて手を伸ばし、強く握りしめる。
トワは握りしめた手の感触を確かめると頷き、再び空を見上げて言葉を続ける。
「
その言葉一つ一つに呼応して宙に漂う粒子は流れ、渦を巻き、そして一点に集中していく。
「
トワは繋いだ左手に意識を集中し、右手をより高く空へと突き上げる。
するとその右手から青い糸のようなものが無数に飛び出し、ゆっくりと空の光の粒子の集まりに向かって伸びていく。
「
そしてトワの言葉と共に粒子と糸は一気に絡まり合い、一冊の本を形成していく。
本は元の姿を取り戻し、最後にぽんっと軽い音を鳴らして完成すると、トワの右手の上に落下する。
「はい、どうぞ!」
まだ辺りに青い粒子の残滓が残っている中、トワは振り返り、エーテライズの終わったガイドブックをクーリクに差し出す。その顔は満面の笑みであった。
「あ、ありがとっ」
クーリクは繋いだまま強く握りしめていた手を慌てて放すと、その本を両手で受け取る。
すると突然辺りから大きな拍手喝采が起こる。
「えっ?」
それにはトワも驚き、辺りを見回すと、いつの間にか多くの観客が彼女のエーテライズの一部始終を見ていたことに気付いた。
「あんた! 魔法司書か!」
「久しぶりに見せてもらったよ!」
「ブラボー!」
「すごい! お姉ちゃんどうやったの!」
老若男女、町の人から観光客まで、次々と声をかけていく。
「えっと、あの、その、あの」
全くの想定外の事態にトワはあわあわと首を振って混乱する。
思えば日本にいた時は家や図書館の中でしかエーテライズはしたことはなく、関係者以外の人前でおこなうのは初めてであった。
「きれいになってる! でも、書き込みとか残ってる?」
クーリクが完成した本のページをめくりながら首を傾げる。
ボロボロだった表紙や破れていたページは元の新品のようになっているが、書き込みや付箋等はエーテライズ前とほとんど変わらないまま残っていた。
「うん、できるだけそのままにしてみたの」
質問責めにあっていたトワが振り返りながら答える。
「ここのシミも残ってるし」
「コーヒーをこぼしたシミでしょ?」
「わかるの?」
クーリクが驚いてトワを見つめる。このシミはもう何年も前にクーリクが家で祖父と一緒に読んでいた時に祖父がカップを倒して付いたものだ。もちろんさっき知り合ったばかりのトワが知るはずもない。
「うん、さっき手を繋いだ時見えた」
何気なく答えるトワにクーリクは驚きと共に感動する。
「同じ新品に作り直すのではなく、持ち主の願いを乗せて世界に一冊の本に作り変える。それが魔法司書のお仕事」
トワの言葉に観客は沸き立ち、再び拍手喝采が起こる。
『母さんの受け売りだけどね』
イツカが誰にも聞こえない小さな声で呟く。
だが、それこそが魔法司書の始祖たる相馬ケイから子のイツカ、そして彩咲トワに受け継がれたエーテライズの真髄であった。
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