トワとイツカの魔法司書

玖月泪

北欧編

第1話 プロローグ

 子供の頃のいたずらの話をしよう。


 放課後の誰もいない学校の図書室。

 私は一人奥の文学作品コーナーの棚の中から一冊の文庫本を取り出す。

 裏表紙の紙ポケットに入っている今はもう使われていない貸出カードを抜き出し、一度も誰にも借りられていないことを確認する。

 そして鞄の中から一本の鉛筆を取り出すと、その文庫本のあるページに一節の言葉を書き記す。

 文庫本を棚に戻し、私は何食わぬ顔をして図書室を出る。


 誰かが何時か見つけてしまうかもしれない。

 誰にも見つけられないまま永遠にその文庫本は棚の中で眠り続けるかもしれない。

 そんな起こるかわからない奇跡に私は心踊った。


 その時書いた一節の言葉が何であったのかは、もう思い出せない。




 今から十年前、ノルウェーの学会で、ある日本人女性が一つの論文を発表した。

 それは物質をエーテルと呼称する粒子に分解し、それを元の物質に再構成する技術であった。

 彼女――相馬そうまケイは日本の図書館司書であり、またルリユール職人でもあった。

 ルリユールとはフランス語で「Reliure」と書く。「Re(再び)」+「liure(綴じる者)」という意味で、壊れた本を修理、あるいは仮綴じの本を装丁し、製本する職人のことである。

 日本では馴染みが薄いが、欧州では未だに簡易製本や紐を通しただけの本が売られている。これらを買った者はルリユール職人にオーダーメイドで製本を依頼し、自分だけの世界に一冊の本を作ってもらうのである。

 そして彼女は発表したそのエーテライズ技術をルリユールに応用し、数々の美しい本を生み出した。さらに司書として図書館資料の保存、収集にも導入することを提唱した。いつの時代も図書館の悩みの種は日々増えていく本の保存場所だからだ。


 その後程なくして彼女は突然表舞台から姿を消す。

 彼女の技術と才能を各国が秘密裏に求めた結果とも言われているが、その真実は未だに明らかになっていない。

 彼女の失踪後もその技術は世界中の支持者が研究を引き継いだが、ただ一つ非常に大きな問題があった。

 それは、エーテライズは誰にでも扱える技術ではないことだった。

 ある特殊な才能を持つ図書館司書にのみ、それをおこなうことができた。

 折しもパソコンやインターネットが普及し、電子書籍が当たり前になった昨今である。汎用性の低いエーテライズ技術は、一部の図書館の一資料形態にのみ残り、やがて人々の記憶からは消えていった。


 しかし、その才能を持つ者がおこなうエーテライズはとても美しく、あたかも魔法を使うかのように不可思議な現象であったため、図書館業界では彼らのことを「Grimoire(魔法書)」を「liure(綴じる者)」としてこう呼んだ。


 「魔法司書グリユール」と。



 白い雪と黒い地肌がまだら模様になっている高い山々の間を縫って、雲ひとつない濃い青空の中を一羽の鷹が翼を大きく広げ、ゆっくりと飛んでいく。


 北欧スウェーデンとノルウェーの国境付近の山脈の中、一台の荷馬車が野道を進んでいた。

「あったかくなってきたね」

 その荷馬車の荷台の上で、一人の小柄な少女が遠くの山々の麓に広がるフィヨルドの湖を見下ろしながら誰ともなく呟く。

 長い真っ直ぐな黒髪に、黒地に色とりどりの花模様があしらわれた振袖姿、首元には白いマフラーがゆったりと巻かれている。まだ十歳にも満たない少女は日本人だが、その瞳はわずかに赤みを帯びている。

『山を越えたからな。海からの暖流でこちら側は暖かい』

 少女の呟きに応えるかのように別の声が聞こえてくる。

 荷馬車には先頭で馬の手綱を引く老人と、荷台の上にいる少女しか人影はなかった。

「イツカくんは昔こっちにいたんでしょ?」

 少女は腰帯にたすき掛けに結ばれた大きな赤い装丁の厚い本を取り出すと、視線を落とし、まるでその本に問いかけるように口を開いた。

『トワも少しの間いただろ。って、覚えてないか』

 するとその赤い本から再び声が聞こえてきた。


 少女の名は彩咲さいさきトワ、年齢九歳、日本から単身海を渡り、今ノルウェーのとある町を目指している。

 本の名は相馬そうまイツカ、年齢十八歳、トワの保護者で、今とある理由でこんな姿になっているが、元は立派な人間である。


「にゃー!」

「あっ」

『こらっ、やめろ、デューイ!』

 突然荷台の藁の上から私を忘れないでよとばかりに、一匹の白い猫がトワの胸元に飛び降り、赤い本――イツカの表紙をガリガリと爪でこすって、じゃれ始める。


 彼女の名はデューイ、年齢不詳、トワ達が飼っている猫で、今とある目的で彼女らの旅に同行している。


「ほら、見えてきたよ!」

 馬を引く老人は荷台の上ではしゃぐ一人と一冊と一匹を振り返り、不思議そうに首を傾げると、声を上げた。

「わぁ!」

 野道の崖の下には湖が広がり、その麓にオレンジ色の屋根で統一された街並みが広がる。

 オルラトル、これからトワ達の向かう町だ。

 Uの字型の湖に取り囲まれた町の中央には大きな時計塔が見える。

 トワは目を輝かせて荷台の淵から身を乗り出して街並みを見つめる

 冷たい澄んだ風がその髪とマフラーをなびかせる。

「図書館どこどこ?」

『ここからじゃ見えないな。北の旧市街だから――』

 イツカの言葉も耳に入らずトワは必死に目を凝らせてこれから向かう場所を探す。

 それを見てイツカは苦笑する。その姿を見ても誰もそうとはわからないが。

「にゃー」

 デューイも嬉しそうに荷台の上を歩き回る。


 これから三ヶ月間、この北欧の町オルラトルの図書館で若き魔法司書、彩咲トワの研修が始まるのである――


 彼女らの到着を祝うかのように鷹の鳴き声が山々に響いた。

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