第14話 前世の婚約者がいない朝


 渋谷さんと喧嘩をした。というか、険悪な雰囲気になってしまった翌日。


「渋谷さん、入るよ」


 僕は、返事がなかったが、いつもなら渋谷さんはとっくに起きている時間であるため、部屋のドアを開けてみた。


 女子がいる部屋を勝手に開けるのは不躾だ、とは思う。


 何せ、着替えていたりする可能性があるのだ。そういったハプニングは、できる限り避けたい。


 しかし、そうはいっても、返事はともかくリビングで待てど暮らせど物音一つしないのだ。


 いくら険悪な雰囲気であるとはいえ、さすがに心配だ。


 それに、今日は学校のある日だし、寝ているのなら渋谷さんのことを起こさなきゃいけない。


 ――ついでに毎晩、一緒に寝ているしね……。


 毎晩、一緒に寝ている方が、渋谷さんが着替えている場面を目撃するよりも問題な気がする。いや、どっちも大問題だ。比べるようなものでもなかった。


 が、もう既に僕と渋谷さんにとっては、一緒に寝ることは、当たり前のことになっているし、特に一夜の過ち的なものも一切ないため、とりあえず、よし、と思っておく外ない。というか、僕から望んでそうしているわけではなく、一緒に寝ることに関しては、写真集の件で脅されているのだ。


 問題だらけではあるが、仕方がないことだ。


 閑話休題。


 それよりも、今は、渋谷さんの様子を見ないと。


 僕は、開いたドアの先へと目を向ける。


 が、視界に飛び込んできた光景を前に言葉を失った。


 なぜなら――。


 部屋には、ココアがベッドの上で丸くなって寝ているだけで、誰もいなかったからだ。


 まあ、猫はいるのだけれども。


 とりあえず、ココアに話を聞いてみよう。


 僕は、部屋のドアを閉め、ココアに近づく。


「ココアさん、ココアさんや、起きてくださーい」


 ココアの頭を撫で、声をかけた。


「ん……? みゃ……?」


 完全に寝ぼけた様子でココアがのそのそ、と顔を上げた。


『なんじゃ……。朝から』


 寝起きだからか、明らかに不機嫌だ。


 すみません……。


 と、心の中でココアに謝る。


「渋谷さんがいないんだけど、どうしてるか知ってたりしません……?」


『ああ、寝ぼけていたから記憶が曖昧じゃが、学校とやらに行く支度をしていたのを見た気がするの』


 あくびをしながらココアが言った。


「マジすか」


『マジじゃ』


 ココアと目が合った。


 ココアの言うことが本当ならば、今、僕は、徹底的に避けられている。


 僕は、昨日、渋谷さんのことを自分の思っている以上に傷つけてしまった。


 そうは、思った。


 しかし、その見立ては、甘かったみたいだ。


「ココアさん、これ時間が解決してくれるような問題じゃないですよね……?」


『うむ。わらわも、まさかここまでとは思わなかったのじゃ……』


 昨日とは百八十度反対の掌返しも甚だしいココアの発言に僕は、少し面食らう。


 まあ、僕も人のことを言えない。あ、猫のことって言うべきなのか。


 閑話休題――。


「僕の方でなんとか頑張って渋谷さんと仲直りできるようにできることをしてみますね」


『うむ。わらわもしばらく絢音の様子を見て、お主に伝えるくらいのことはしてやろう』


 ドヤ顔でココアが言う。


 あのドヤ顔は、『ここまでしてやるんだから、おやつを期待しているぞ』の顔だ。


「それは、助かります」


 僕は、『ココアにおやつを買う』とスマホのメモに書き記す。


 そして、その後、トークアプリを開いて『渋谷絢音』と表示されているアイコンを押した。


『昨日は、言い過ぎてごめんなさい。今日の夜、話できませんか?』


 謝るときは、直接言うべきだ、と考えていた。が、険悪な雰囲気の中、いきなり要件だけ送られてきても印象が悪いだろう。そのため、メッセージに謝罪の言葉を添えて、僕は、渋谷さんにメッセージを送った。


 ――返事、くれればいいな。


 僕は、トークアプリの『ぽこん!』という軽快な送信完了の音を聞きながら、一人、最後に見た渋谷さんの悲し気な顔を思い浮かべた。


 そのまま、スマホを握りしめていると、画面が暗転してしまったため、僕は、トークアプリを終了させようと再び画面へと向き直る。


 瞬間、スマホの画面上についているセンサーが僕の顔を認識し、スマホの画面が勝手につき、待ち受け画面が表示された。


 待ち受け画面は、もちろん、渋谷さんと初めて料理をした日に彼女にせがまれて設定した彼女の写った写真のままだ。


 ――画面の中の渋谷さんは、笑顔だった。


 この笑顔を僕が壊してしまった。


 そう思うと、自分のしでかしたことがいかに愚かであったかを思い知らされた。


『おい、お主も学校に行かなくていいのか……? いつもなら準備を始めている時間だと思うのじゃが……?』


 もの思いに耽っていると、ココアに声をかけられた。


「あ」


 僕は、反射的に時計を見て、いつもなら朝食を作り始めている時間であることに気がついて、慌てて階段を下った。


***


 結局、今日は、朝食を作る余裕もなく、テキトーにスティックパンで朝食を済ませた。


 もちろん、弁当も昨日の残り物だけということになってしまう。


 僕は、弁当箱がしまってある食器棚を開く。


 渋谷さん、お昼、ちゃんと買ったかな……?


 僕は、食器棚にしまわれたままの渋谷さんがいつも使っている弁当箱を見て思った。


 渋谷さんがお昼をコンビニとかで買っていないケースを想定して僕が届ける。


 という選択肢がないわけではない。


 しかし、渋谷さんを傷つけてしまった原因となった、僕ができるだけ渋谷さんと学校で関わりたくない、という考えを拭いきれていない自分もいる。それに、弁当箱を下駄箱のロッカーに入れておくという手もあるが、女子のロッカーを開けるのは、おそらく靴しか入っていないだろうけれども、気が引ける。


 何より、渋谷さんだって、今は、僕が作った料理なんて食べたくないだろう。


 僕は、そう考え、自分の分の弁当箱だけを取り出して、食器棚の引き戸を閉じた。

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