第10話 前世の婚約者がいる学校生活が始まった


 耳元でアラームが鳴った。


 なんで、こんな早くに起きなきゃいけないんだっけ……? などと、寝ぼけた頭でぼんやり考える。すぐに、学校の日か、と思い出した。


 春休みはとっくに開けているが、昨日も休日だったせいで頭が完全におやすみモードだった。


「んん……」


 僕は、耳障りなアラームを慣れた手つきで止める。ちなみに、スマホの画面は見ていない。完全に勘だ。


 アラームが鳴りやんですっかり静かになった、部屋。少し離れたところから静かな呼吸音が聞こえてきた。


 そちらを見ると――、


「おはようございます」


 ばっちり目が合った。


「おはよう。早いんだね」


「ええ、色々支度がありますから」


 渋谷さんの朝は早いらしい。


 女の子の朝は忙しいと聞く。メイクをしたり、髪の毛のセットをしたり色々している、と誰かから聞いたことがある。母さんだったような、バイト先の先輩だったような。まあ、何はともあれ、渋谷さんも例に漏れず忙しい朝を過ごしているようだ。


 渋谷さんもメイクをしたり、自分の外見に気を遣っていることを知って、寝ぼけた頭でぼんやりと朝を過ごす自分が少し情けなく思えてきた。


 ――今度から朝のランニングでも始めてみるか……?


 体を動かすのは嫌いじゃないし、悪くないかもしれない。


「それよりも、今日からたまご焼きの特訓お願いしますね……!」


 ぼんやりと考え事をしていると、渋谷さんが言葉を続けていた。


「あ、うん! 頑張ろう!」


 あ、とか言ってしまったが、断じて忘れていたわけではない。うん。ただ、寝ぼけた頭で渋谷さんのことを見習おうと思っていただけだ。


「冬理くん、忘れてませんでした……?」


 訝しむように渋谷さんが僕を見てくる。


「まさかー」


 本当にただ朝早くに起きて支度をしている渋谷さんとか全女子に敬意を払っていただけです。


「まあ、いいです。では、早速よろしくお願いしますね……!」


 渋谷さんがくるりと身体の向きを翻して、部屋を出て行った。


「はい」


 僕は、ベッドから起き上がって、リビングへ向かっていく渋谷さんに続いた。


***


 見慣れた最寄り駅までの道を一人歩く。


 ちなみに、渋谷さんには、先に行ってもらった。というのも、あんな美少女と歩いていたら、絶対に目立つからだ。


 渋谷さんは、不服そうな顔をしていたが、こればかりは僕の平穏な学校生活のため。ではなくて、人生のためだ。これ以上、外堀を埋められるわけにはいかない。許してほしい。


 そんなことを考えながら、なんで、あんなことをしてしまったのか、と土曜日のことを思い起こす。


 僕は、渋谷さんとの許嫁関係を解消したいはずなのに、自らチャンスを逃すような真似をしてしまった。


 まあ、さすがに女の子が泣いているところ、落ち込んでいるところにつけこむ程、僕は非情ではない。というか、誰もそんなことをしないはず。しないよね……?


 絶好の機会を失ったような気もするが、母さんは仕事を辞めて渋谷さんの家に雇われの身だし、どちらにせよ、今はまだ時期尚早だ。


 今、僕にできることと言ったら、渋谷さんとの関係性を周囲にばれないようにすること。要するに外堀を埋められないようにするくらいしかない。学校でも逃げ場がなくなったら、いよいよ僕の全ては彼女に掌握されてしまうのだ。


 少しげんなりとしながら、地元の神社の横を通りすぎようとした瞬間だった――。


「みゃあ」


 猫の鳴き声が聞こえてきた。


「……」


 僕は、立ち止まってそちらを無言で見た。


 ――なんだ……? この猫……?


 鳥居のちょっと後ろに立ち、僕のことを見上げ、じーっと見てくる猫。


 神社にいる猫、というか日本にいる野良猫なら大体が三毛猫とか黒猫だと思う。


 しかし、僕のことをじーっと見てくる猫は、全く野良猫らしくなかった。


 どこからどう見ても、ペルシャ猫。それもチンチラゴールデンだった――。首に鈴もついていないため、飼い猫が脱走したパターンかと思ったが妙に落ち着いている。この場に全く似つかわしくない。


「みゃあ」


「みゃあ……?」


 また鳴かれたので、困惑しながらも返してみた。


「みゃあ!」


 エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、満足気な顔を浮かべ、ペルシャ猫は心なしか胸を張りながら、境内へと歩き去っていった。


 ――なんだったんだ……?


 ペルシャ猫の後ろ姿を横目に再び歩を進め始めた。


***


「おはようっ!」


 教室に入って席に着くなり、もう先に来ていた一斗に絡まれた。


 相変わらず朝からテンションが高いことで。


「おはよう」


 僕の挨拶は多分普通だが、一斗の挨拶が明るすぎるのも相まって暗く聞こえてしまう。


「元気ないなー! 月曜だけど、シャキッといこうぜ! シャキッと!」


 教室を見渡しても、月曜日であることも相まってはいるが、ついに本格的に始まってしまう高三の一学期を憂いている生徒がほとんどだ。


 まあ、教室に活気はあった方がいい。


「お、おー……!」


 ほとんど知らない人だらけの教室で目立たない程度にやる気を出してみた。


「よし。いいぞ、いいぞ」


 一斗がうんうん、と腕を組みながら頭を縦に振っていた。が、突然、何かを思い出したかのように一斗がぴたりと止まった。


「どうした?」


「元気が出たところで、行きますか!」


「どこに……?」


「五組の教室に」


「なんで……?」


「そりゃ、お前、転校……げふんげふん! ほら、去年同じクラスだったやつらにも会いたいじゃん!」


 今、絶対、転校生を見に行くためって言おうとしていたよね? それに五組には、仲の良かった友人は、去年クラスが違った一斗はともかく僕にはいないはずなのだが。


 そして、何より、僕は、その転校生に心あたりしかないため、行きたくない。


 僕の目の前に現れた前世の婚約者を名乗る、今まで学校で見たことがない美少女。あんなのが、今まで学校にいたら一度や二度くらいは、男子の間で噂になるはずだ。タイミング的にも状況的にも間違いない。


 色々とおかしなことが起きて、自分のことに必死だったせいで学校のこととかを聞くのをすっかり失念していた。


 が――。


 絶対、転校生って……。


 今日の朝も見た顔を脳裏に浮かべる。


「行かないよ。五組に仲良かった人いないし」


「見落としてるだけで、誰かいるかもじゃん」


「絶対嫌だ」


「なんだお前、転校生ちゃんとなんかあったのか……?」


 そう言われて、背中から少し汗が噴き出した。


「い、いや、何も……」


「なら別にいいじゃん! さっきも人だかりができていたし、行ってみようぜ! 五組に知り合いがいないから一人で行くのもあれなんだよ!」


「てか、やっぱり、転校生目当てじゃん」


 そう僕がつめると、てへぺろ、と一斗が舌を出した。


「というわけで、れっつごー!」


 一斗にがっしりと身体を拘束され、そのまま抱きかかえられて五組の前まで連行された。


 さすが、元柔道部。敵わなかった。


***


 五組の前まで一斗に運ばれると、そこそこ人だかりができていた。主に男子が中心だった。


「すげえ! めちゃくちゃ可愛い!」


「アイドルか何か絶対やってるだろ!」


「今年のミスコンはあの子で決まりじゃね……?」


 その場から立ち去る男子生徒たちの会話がちらほらと耳に入る。


 この反応……。絶対、間違いないな。


 とりあえず、目立つから下ろしてもらおう。


 僕は、一斗の背中をぼんぼん! と叩いた。


「げほっ!」


 一斗が苦しそうな声をあげ、僕のことを下す。


「ご、ごめん」


「いや、大丈夫だ……! それより、転校生よ!」


 一斗がうきうき、とした様子で開いている教室のドアから中をのぞいた。


 僕も一斗に続いた。一応、念のため。


 教室の中を見ると、僕の予想通り。


 渋谷さんが男女問わず囲まれていて、笑顔を振りまいていた。


 でも、それは、僕の知る渋谷さんの表情ではなかった。僕と一緒にいるときの方がいい笑顔を浮かべているような気がする。


 そんなことを思ってしまうのは、僕の思い上がりだろうか。


「うおお……! こりゃ噂以上だな!」


 一斗が僕の耳元で興奮気味に声を抑えて言った。


「あー。うん。そうだね」


「なんだよ、反応薄いな」


 まあ、反応薄いも何も僕の許嫁です。一緒に住んでます。


 だなんて、ここで言えるわけもない。


「まあ、もういいでしょ! 転校生にも迷惑だし帰るよ!」


 渋谷さんに見つかる前に、一刻も早くこの場を立ち去りたい。


 そう思った瞬間だった――。


 渋谷さんが何かを感知したかのように突然こちらを向いた。そして、目が合った。


 ――やば。


 そう思った瞬間には、渋谷さんが、ぱあっとあからさまに顔を明るくして手を振ってきた。


 ここで手を振り返すわけにもいかず、僕は目を逸らしてしまった。


「お! 手振ってくれた!」


「いやいや、俺にだろ!」


 幸い周囲には、渋谷さんが僕に手を振ったとは気づかれていないようだった。ぜひ、君たちに手を振ったということにしておいてほしい。


 そんな僕の願いを他所に――、


「なあ、冬理」


 一斗がどこか抑揚のない声で声をかけてきた。


「ん? どうした?」


「今、絶対にあの子お前に手振ってたけど。どういうことだ……?」


「いや、あれは、僕じゃないでしょ。他の人だって……」


 ないない、と手を横に振る。が、一斗が肩をガシッと掴んできた。


「俺たち、親友だよな……?」


「うん、親友だ」


「よし! じゃあ、隠し事はなしだ! 放課後、ゆっくりポテトでも食べながら語り合おうじゃないか」


「は、はい」


 一斗は、僕と渋谷さんに何かがあったと勘づいている。


 ――まあ、一斗には話しておいた方がいいか……。


 そんなことを考えていると、渋谷さんが立ち上がりそうな気配がしたため、僕は、一斗の手を引いて、その場を足早に立ち去った。


 立ち去った後で、あからさま過ぎたな、と少し後悔した。が、幸いみんな渋谷さんに夢中みたいで、僕と一斗のことなど気にも留めていなかった。

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