第9話 前世の婚約者はいよいよ料理する
いつも座っている人をダメにするソファに浅く腰かけながら僕は、じーっとキッチンの方を見つめる。
いつもなら解けた氷のようにだらーんと、どこまでも意識を遠くに飛ばしてしまうところなのだが、今は、中々そうはいかなかった。
視線の先には、オシャレな雰囲気を醸し出すベージュ色のエプロンを身に着けた渋谷さん。いつもは下ろしている長い黒髪をポニーテールにしている。
そんなほとんどの男子が心を躍らせそうな光景を前に僕は、心配すぎて心を躍らせている場合ではなかった。
――大丈夫……なのか……? あれ……?
「えっと……確か、まずは、器を用意して……。あ、フライパンも用意しなきゃか……」
色々と思い出すような仕草をしながらぶつぶつと渋谷さんが呟いている。
もう、この時点で不安しかない。
「渋谷さん……? 本当に、一人で大丈夫なの?」
僕は、全く機能していない人をダメにするソファから立ち上がろうと、腰を少し浮かした。
「ええ。大丈夫です。たまご焼きの作り方は心得ています」
即答された。
そして、すぐに「ご飯ができるまでは、リラックスしていてくださいな」と言われた。何を言ってもやっぱりダメそうだ、と諦め、再びソファへと腰を下ろす。
そのまま、腰を下ろすと、渋谷さんから視線を感じた。おそらく、僕がちゃんとくつろいでいるかの確認だろう。慌ててスマホを取り出し、SNSチェックなどをすることにした。
スマホから一瞬目を離して、渋谷さんの方へと視線をやって、彼女が料理の準備に戻ったことを僕は確認する。
その間も彼女は、料理の手順をぶつぶつと呟いていた。
――やっぱり、心配だ。
そう思った瞬間、渋谷さんが顔を上げる気配がしたため、僕は一瞬で目線をスマホに戻した。
渋谷さんからの視線を感じながら、大して見てもいないSNSのタイムラインを眺める。
SNSチェックをし始めて数分後。渋谷さんがたまごを割り出したころに、ある投稿が目に入った。というより、自然に目を引き付けられた。
『今日は、メイドコスをしてみたよ! どうかな? 似合う?』
僕の推しコスプレイヤーの投稿だった。
いつもの僕だったら、「めちゃくちゃ可愛い! 保存保存!」とか言って、ニヤニヤするところだったが、さすがにそうはいかない。
渋谷さんに料理をしてもらっておきながら、推しコスプレイヤーの写真を見て、ニヤニヤする気分には到底なれなかった。というか、絶対にばれたらまずいし、家にいるときは常時気をつけなければならない。
あれ? 僕のプライベートってどこへ……?
部屋も同室だし、どうしろと……?
僕は、自分のプライベートがほとんどないことに気がついてしまい、絶望的な気持ちになってきた。虚無の心ってこんな感じなのか。
僕にとってプライバシーを保てる唯一の存在となっているスマホへと視線を落とす。
その画面には、メイドの衣装に身を包んだ推しコスプレイヤーの画像が表示されている。
僕は、保存ボタンをすっ、と押した。プライバシーを失った僕のちょっとした抵抗だ。
保存完了、とすぐに表示された。
未だにキッチンからはコンコン、と音が聞こえてくる。
――うーん、なんだろう……。やっぱり、なんか、こう……罪悪感が……。
たどたどしくたまごを器の角に叩きつけている渋谷さんを見て、推しコスプレイヤーの画像を保存したことが一般的には別に悪いことではないはずなのに、僕は罪悪感を感じずにいられなかった。
まあ、ニヤニヤはしていないし、ただ、後でいつかできるであろうプライベートの時間に見る用に保存しただけだ。やっぱり、このくらいは許されるはずだ。
そう、僕は自分に言い聞かせた。
そんな風に僕が罪悪感と戦っているうちに、渋谷さんは、いよいよ、本格的に火を扱う段階に入ったようだった。火を扱うとはいっても、家ではIHコンロが使われているため、火は出ないのだけれども。
「フライパンに油を注いで……っと……。このくらいかな……?」
渋谷さんがIHコンロを起動した後、油を注いだ。
「あら……? このコンロ、火が出ないのですね。これがあのIHってやつでしょうか……? 不思議……」
どうやら、渋谷さんはIHコンロを今まで見たことがなかったらしい。不穏だ。
「ここで、かき混ぜた卵液を入れてっと……」
先ほどまでは、僕がくつろいでいるかをチラチラと確認していた渋谷さんが一切こちらを見なくなっていた。本格的に料理をし始めたため、当然と言えば当然だが。
それにしても、料理は時間勝負。火を使い始めたらもたついている暇はない。
そこのところを渋谷さんはちゃんとわかっているだろうか……?
たどたどしく思い出すような仕草をしながら上を向いてフライパンから目を離してしまっている渋谷さんを見て心配に思う。
僕は、居ても経ってもいられなくなり、立ち上がった。そして、渋谷さんの方へと向かっていく。
近づくにつれ、だんだんと焦げたにおいがし始めた。
「半熟になってきたら……って!? え!?」
渋谷さんが慌てたようにフライ返しを手に取った。
裏返されたたまごは真っ黒とまではいかないが、中々に焦げていた。それに、これでは、もう綺麗に巻くことはできない。
「やっぱり、こうなったかぁ……」
僕が独り呟くと、渋谷さんが慌てた様子でこちらを見た。
「と、冬理くん……!? え、えっと、これはですね……」
渋谷さんは、あれこれと支離滅裂なことを口走り、口をあわあわとさせる。
「とりあえず、火を止めよう」
僕がそう言うと、はっ、と我に返った渋谷さんが慌てた様子で火を止めた。
「えっと、それでですね……これは……」
俯きながら渋谷さんが言う。
「別に隠さなくて大丈夫だよ。渋谷さん料理苦手なの……?」
「……苦手というか……その……はい……」
渋谷さんは昨日、押しかけてきた時からは考えられないほど弱々しい声を発した。
予想はしていたため、驚きはしなかったが、実際にこうなった際、ここまで落ち込むとは思っていなかった。あの押しが強い渋谷さんがこんなしおらしくなってしまうだなんて、誰が予想しようか。
――こういうとき、どうすればいいんだ……?
予想外の状況に僕は、内心焦る。
「そっか……」
こういうときに気の利いたひとことも言えない自分という人間の浅さが嫌になる。
「はい……。隠しててごめんなさい……」
「大丈夫。僕は気にしてないから」
そんな僕の言葉は彼女の心にはあまり届いていないのか、渋谷さんの表情はどんどん曇っていく。
「ごめんなさい……。今世でも、迷惑をかけてごめんなさい……。前世でおいしいご飯はおろかおいしいたまご焼きを食べさせてあげることもできなかったので、今度こそと思って、色々できることはしたつもりだったのですが、全くダメダメでした……。結局、私は前世から何も変われていないんです。今度こそはできると思って、やってみたら結局この様です……。本当にごめんなさい……」
渋谷さんは、僕が思っていた以上に落ち込んでいる。ところどころ、前世だとか今世だとか、またもや、にわかには信じがたいことを言い始めているが、とにかく、落ち込んでいる。
――いや、これ、本当にどうしよう……。
僕が、そう焦っているうちにも、渋谷さんは、僕に謝り続けている。
挙句の果てには「私って本当にいいところがないですよね……。こんなので、冬理くんと結婚したいだなんて、おこがましい話でした。出て行けというのなら出て行きます」なんて、自己否定までし始めてしまった。
さすがにそんな彼女を見てしまったら、気の利いたひとことも言えない僕でも、身体が勝手に動いていた。
僕は、そっと、自分の右手を渋谷さんの頭に添えた。そして、ゆっくりと、優しく、撫で始める。
昨日から頭を抱え続けている問題を全て解決することができるチャンスなのに馬鹿だな僕は。なんて思いながらも自然と身体がそう動いていた。まるで、昔そうしたことがあるみたいに――。
「と、冬理くん……?」
両目が潤んでいる渋谷さんがきょとん、とした顔で僕を見上げた。
「自己否定はよくないよ。誰にだって苦手なことはあるし、失敗だってするよ」
「それは、そうですが……。前世から通算したら二度や三度の話ではないのです……」
おお……。また、前世……。
こうも、シリアスな状況で前世とか言われてしまうと、渋谷さんが前世で僕と婚約者だった話も本当だったりするのか……? なんて思ってしまう。
まあ、とりあえず、今は話を合わせよう。詳しい話はまた今度、聞くとする。さすがに今は「前世の婚約者とかなんだって本当なの?」なんて聞けるような状況ではない。
「前世は前世、今は今だよ。もし、今、渋谷さんが本当に自分が何もできないとか思っているのなら、できることを今から少しずつでも増やしていけばいいよ」
「冬理くんは、それでいいのですか……?」
「いいよ。それに、こんなに落ち込めるのはそれだけ頑張ってきたからでしょ? 頑張り屋さんな人、僕は好きだよ」
僕がそう言うと、渋谷さんが僕の胸に顔をうずめてきた。そして、静かに嗚咽を漏らし始めた。
「ちょっ……!? 渋谷さん!?」
「ごめんなさい……。少しだけこうさせてください……」
「わ、わかった……」
僕は、急に近づかれて内心、ドキドキしながらも、渋谷さんの頭をそのまま撫で続ける。
――というか、胸に顔をうずめられているから、絶対ドキドキしてるのバレてるじゃん。
そう気づいて、顔が一気に熱くなるのを感じる。
そのまま、渋谷さんが落ち着くまで、僕は、渋谷さんの頭を撫で続けた。
――渋谷さんの言う前世での『僕』は、こんなときどうしていたのだろうか。
信じたわけではないが、そんなことをふと思った。
***
「やっぱり、冬理くんは、料理がお上手ですね」
僕が、食材を切るところを見て、渋谷さんが感嘆の声をあげる。
あれから色々と話し合った結果、しばらくの間は、一緒に料理をすることで話が落ち着いた。のだが、今日は、渋谷さんのリクエストもあって、たまご焼きではなくチャーハンを作ることにした。
たまご焼きは、毎朝、僕と練習して、お弁当にいれていくこととなっている。そのため、焦らずともいい。
とりあえず、基礎からやり直したいという渋谷さんからの要望で、今は猫の手から教え直しているところだ。
「いや、そんなことないよ。渋谷さんだって、慣れればいつかはできるよ」
「はい! 頑張ります! でも、本当にすごいです」
「ありがとう……」
料理をしているところを褒められることなんて滅多にないため、少し照れ臭い。
「それじゃあ、渋谷さんもやってみようか」
「は、はい」
渋谷さんが頷く。
僕から包丁を受け取って、渋谷さんが食材をたどたどしい手つきで切り始めた。
猫の手はちゃんとできているが、力が入りすぎていて逆に危なっかしい手つきだ。
「冬理くんがすごいのが改めてわかりますね」
渋谷さんが食材を切りながら言う。
そして、ハッとした表情を浮かべた後、包丁を置いた。
「あの、冬理くんが食材を切っているところを動画に撮ってもいいですか……?」
少し頬を赤らめる渋谷さん。
そんな彼女のことも、リクエストの意図もよく分からず僕は首をかしげる。
「いいけど、なんで……?」
「あの、その……。料理のモチベアップ的な……?」
まあ、よくわからないが、減るものでもないしいいか。
「まあ、うん、いいよ……?」
僕がそう言うと、渋谷さんが嬉し気な様子で近くにおいてあったスマホに手をのばした。
「あ、それ、僕の」
僕がそう言った瞬間には、彼女は僕のスマホを手にしてしまっていた。僕と渋谷さんのスマホは全く同じ機種だったらしく手をのばしていた際の渋谷さんには何のためらいも見られなかった。
――あ、やば。
僕は、本当に不用心だと思う。逆に、すぐにこうなってしまうことを予測しておくべきだった。
後悔しても時すでに遅し。
僕は、ただただそのときを待つ。
「冬理くん」
「はい」
「この女性って昨日の写真集の方ですよね?」
「はい」
「……では、お願いします」
渋谷さんがスマホを僕に差し出してくる。そして、可愛らしくピースサインを決めてきた。
「え? どういうことっすか……?」
なぜか体育会系な口調になってしまった。
「私の写真を撮ってください」
ポーズを取るのをやめて渋谷さんが真顔で言う。
「撮ってどうすれば……?」
「待ち受けにしてください」
何それ。僕たち別に付き合っていないのですが。ものすごく重くないですか……?
「あの、お言葉ですが、猫の写真に変えるとかってダメですかね……?」
「私じゃ、ご不満ですか?」
ニコッ! と渋谷さんが微笑む。
うん、相変わらず圧がすごい。
「いえ、全く」
「では、よろしくお願いします!」
渋谷さんが再びアイドルも顔負けの可愛らしいポーズを取る。
すう……と息を吸って、僕は、カメラを構えた。どうせなら、と可愛く映る角度を探す。が、どこから見ても可愛い。
困り果てたが、どうにか僕的に納得のいくポイントを見つけることができた。
「じゃあ、撮りまーす。はい、チーズ」
パシャ! と軽快な音がキッチンに響く。
「可愛く撮れましたか……?」
「う、うん。ばっちり」
僕は、撮れた写真を見てすぐに答えた。
正直、芸能人に全く引けを取らないレベルの美少女の写真が画面に表示されていて、誰かに見られても推しのアイドルか何かだとしか思われないだろう。
「ならよかったです! では、早速待ち受けにしてくださいね!」
「は、はい」
僕は、その場でスマホを操作し、今撮った渋谷さんのそれはそれは彼女感溢れる写真を待ち受けに設定した。
自分の写真に待ち受けが変わった僕のスマホを見て、満足そうな様子の渋谷さんに少し恐怖を感じながらも、いつも通りの渋谷さんに戻ってくれて僕は一安心。逆に料理を失敗してしまったときみたいにしおらしくされると調子が狂うため、これでいい。いや、いいのか……? まあ、いいのか……。
昨日からペースを乱されすぎて色々わからなくなってきている。
少し釈然としない気持ちを胸に抱えながらも、僕はチャーハン作りを再開した。
余談だが、横でニコニコとする渋谷さんに食材を切っているところを撮影されていたせいかはわからないが、その後、僕は普段ならしないミスを繰り返すのだった――。
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