第8話 前世の婚約者は朱色に染まる
夕暮れ時に影が二つ並んでいる。
もちろん、僕と渋谷さんの影だ。僕たちの影は絶妙な距離を保っている。近くもないし、遠くもない。そんな距離。
ゆらりゆらりと影が動く。
帰り道を歩きながら僕は一人ひっそりと息をつく。初めてのことだらけでなんだか疲れた。けども、周囲に知り合いがいないかと神経質になっていた割にはなんやかんや楽しむことができた。
そんな家を出るときには、思ってもみなかった感想をオレンジがかった空の下、ゆらゆら揺れてる影を一瞥し、胸に抱く。
「そういえば、冬理くん。夕飯は何にしましょうか」
渋谷さんが大きく一歩踏み出して、前かがみになって言う。
一々仕草が可愛いが、騙されてはいけない。少し高鳴った鼓動を、頬をばしん! と自分で叩いて、落ち着けた。
「急にどうしました……? 何かありましたか……?」
ニヤニヤとする渋谷さん。
またもや、確信犯らしい。いい加減慣れたい。
「別に何でもないよ」
ヒリヒリとする頬をさすりながら僕は言う。
「そうですか」
渋谷さんが少しつまらなさそうな顔をする。
それはそうと、渋谷さんを横目に僕は、彼女に投げかけられた質問を頭の中で反芻し始めた。
『夕飯は何にしましょうか』
――うーん……。そうだなぁ……。
渋谷さんの料理の腕前を確かめるために、まずは代表的な料理を作ってもらうべきだろう。
そう判断した僕は、肉じゃがなど色々と代表的な家庭料理の候補を考えた。結果、やっぱりあれしかないよな、と結論に至る。
「夕飯のことだけど」
「はい。何なりとお申し付けください!」
一体その自信はどこから湧いてくるのだろうか。朝の様子を見るに多分、苦手だろうに。不思議で仕方がない。
そうはいっても、渋谷さんは退く気配を一切見せないため、一度料理してもらって料理が苦手かどうか判断するほかない。
「色々候補はあるけどやっぱり……」
僕は口を開く。
同時に渋谷さんが固唾を飲んだ。ような気がする。
「たまご焼きかな」
瞬間、渋谷さんが歩を止めた。渋谷さんとその周囲だけが世界から取り残されたような感覚がしてしまう。そんな、止まり方だった。
それに意識がどこか別のところに行っているようにも見えた。
何かまずいことを言ってしまっただろうか……?
僕は、少し不安になった。
今回は、火をちゃんと扱えるか、とかそういったところを見たかったためのリクエストだった。しかし、料理が苦手なのを察しておきながら、料理下手な人たちが焦がすなどといった失敗をしがちなたまご焼きをリクエストしたのは、さすがに意地が悪いか、など懸念が浮かんでくる。
「渋谷さん……?」
僕は、様々な不安を胸におそるおそる声をかけた。
「あ、いえ! たまご焼きですね……!」
我に返った渋谷さんがあわてふためいた。彼女がどこか別の世界に行ってしまったような感覚はすっかりなくなっていた。いつも通り時が流れている。
反応を示してくれた渋谷さんを見て、僕はまだ少し不安を抱えつつも言葉を続ける。
「うん。たまご焼き。誰かが作ってくれたのを久しぶりに食べたいなって」
「他の方が作ったたまご焼きを食べたことがあるのですか……!?」
さっき声をかけたとき以上の焦燥感を見せながら、渋谷さんが距離を詰めてきた。
ものすごく顔が近い。
気恥ずかしくて目を背けると僕と渋谷さんの影が目に入った。影だけ見ると、キスでもしているように見える。断じてそんなことはしていないが。
「え、あ、うん、母さんが作ったたまご焼きを食べたことあるけど」
僕はあまりの渋谷さんからの圧に押され気味に答えた。
「あ、なんだ……。そういう……」
渋谷さんが、心底安心したように上がっていた肩を下す。そして、僕から離れた。
その様子を見て、なんとなく僕は、彼女の意図を理解した。
「なんか問題あった……?」
少し意地悪をしてみた。一々、可愛らしい仕草で僕を惑わせてくる仕返しのつもりだ。
「いえ、何も。忘れてください。たまご焼きですね」
ボソボソと呟きながら渋谷さんが顔を耳まで真っ赤にし、前を向いた。そして、そのままズンズンと先に進み始める。
僕の予想はどうやら当たっていたらしい。それを朱色に染まった彼女の頬と耳が物語ってくれる。
仕返しをしたつもりが、また可愛い、と思わされてしまった。「他の人が作ったたまご焼きを食べたことがあるのか」とか聞いてきたり、その意図を指摘してみたときの反応を見るに、どうやら僕のことを本当に好きらしい。
生まれてこの方十八年。女の子に嫉妬されるほど好きになってもらったことなんて一度もない僕としては、そう気づいてしまうと、少し嬉しい。いくらやばそうな女の子が相手とはいえど、好意を向けられるのは悪い気はしない。実害はないし……。いや、あるのか? その辺のことがよくわからなくなってきた。
もう何度も同じようなことを考えているような気もするが、渋谷さんを前に細かい事情は考えるだけ無駄だろう。考えたところで、母さんと僕の生活を担保にかけられているわけだし。どうにもならない。
まあ、ゆくゆくは、許嫁関係はどうにかしなきゃなんだけど……。母さんが、ある程度の額を稼いで、生活に余裕が生まれたタイミングでどうにかしよう。そのときには、きっと何かいいアイデアが生まれていることだろう。
未来の自分に期待。
今は、突然できた許嫁との同居生活をできるだけ楽しもう。そっちの方が気が楽だ。と改めて目を閉じ、肩をすくめる。そして、顔を上げた。
顔を上げ、目を開くと、朱色の景色が両目に映る。渋谷さんの朱色に染まった耳がこれでは見えないな。なんて、そんなことを思う。
沈みかける太陽に向かって歩いていく渋谷さんを僕は小走りに追いかけた。
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