第9話 生活に必要な魔法

 結局、あの後蛍は吐くことはなかったが、強い吐き気に負けてベッドに横になっていた。

 殺されるかもしれない、という可能性に、心が負けてしまった。


「(無理だ、あの街に行くなんて……)」


 身体の震えが止まらない。

 吐き気が止まらない。

 でも、出てくる気配がない。

 こういう時は出してしまった方がスッキリするというのに。


「デザルトさんのバカ……! なんで突然あんなこと言うのよ……!」


 蛍はスプラッタもホラーもサスペンスも苦手だ。

 そういうものが例え好きだったとして、自分が殺される立場にあると知ったらみんなきっと同じ反応をする。


「賢者候補様、大丈夫ですか? 薬を煎じてきました。飲んでください」


「うっ……変な臭い……」


「起きられますか?」


 ひょこり、とハシゴからデザルトが顔を出した。

 手にはガラスのコップを持っていて、何やらドロドロしたものがたっぷり入っていた。甘いような、柑橘類のような、よく分からない複雑な臭いが漂っていた。

 

 これは、あれだ。

 子供の頃に飲んだ薬用シロップをもっと煮詰めたような臭いだ。それが、小さなプラスチックカップに数センチだけ、ではなく、ガラスのコップに並々と、だ。

 最悪だ。飲めるわけがない。


「デザルトさん、それ何?」


「吐き気があるように見えたので、吐き気止めの薬を煎じてきました。飲んでください」


 ベッドの上にまで上ってきたデザルトによって起き上げられ、手にしっかりとコップを握らされる。

 立ちこめる臭いに、ますます吐き気が込み上げてきそうだった。


 そっと口をつけようとして、止めるを繰り返す。

 その間デザルトが優しく背中をさすってくれるのだが、それは非常にありがた迷惑だった。


「いい、いいよ、さすらなくて大丈夫だから」


「飲んでください、賢者候補様。よくなりますよ」


「分かった! 分かったから、背中さすらないで……」


 そうは言っても、蛍の主張は通らない。

 仕方がないので蛍は嫌々コップに口をつける。


「うっ……甘っ……美味しくない……」

 

 ドロドロをゆっくり飲み込んで、空っぽになったところでデザルトの手も蛍の背中から離れた。

 コップも取り上げられ、優しく寝かせられる。

 まるで母親のような献身に、礼を言おうとするが、甘ったるい飲み薬の味にやられてしまって言葉が出てこない。


 布団も整えられ、どうも気に入ったと思われたらしい毛布も掛けられて、満足したデザルトがベッドを下りようと背中を蛍に向けた。


「デザルトさん」


「ん? どうかされましたか? 賢者候補様」


 そんなデザルトの、服の長い裾を摘んでみると、デザルトが振り返る。


「ありがとう」


 デザルトのせいでこうなっている訳だが、薬を用意してくれたり蛍が寝やすいように整えてくれたりと、その献身さには感謝すべきだと思った。


 蛍の言葉にデザルトは首を傾げたものの、こくりと頷く。


「次は食べすぎないようにしましょうね」


「……いや、違うんだけど……」


 反論しようとするが、薬には強い眠気を引き起こす作用もあったようで、口を開く前に蛍は眠ってしまった。


 ******


「アディオペラ」


「なんだ? 蛍や」


 夢に、またアディオペラが出てきた。

 今度は一回でアディオペラの前に立つことができた。


「また伝達漏れなんですけど!」


「五百年前のあれか? あれは王のせいだろう? わたしではない」


「そうかもしれないけど! でも、知ってのね?!」


「それはそうだろう。わたしは全てを見ているからな」


 なら、なぜ言わなかったのか。

 ワナワナと手が震える。


「言ったら、お主は引き受けてくれたか?」


「そ、それは……! 受けなかったかもしれないけど……!」


 でもだからって、言わないのはおかしい。


「なら、仕方なかろう?」


「仕方なくない! 私、これから死ぬかもしれないんだよ!? 帰らせて!」


「それはできん」


「どうして!」


「ここで帰ったら、誰が魔の長を抑えるのだ?」


「……っ!」


 百年に一度、魔の長は人間を襲う。

 それを止められるのは、賢者候補である自分ただ一人。

 ここで蛍が元の世界に帰ってしまったら、どうなってしまうのか。


「そ、それでも、私まだ死にたくない!」


「ならば、行くしかなかろう。五百年前は、あの時の賢者候補の態度も酷かった。王が首を刎ねよと判断したのも正しいと思える」


 そんなことを言われても。

 蛍には関係ない。


「大丈夫だ、蛍。今は導き手も一緒だろう?」


「……五百年前だって一緒だったでしょ」


 デザルトはその時も一緒だったから、あんな話ができたのだ。あの時もきっと、蛍と同様に、杖を買いに来て、そのまま王に謁見したのだろう。


 アディオペラは宙を指でなぞると、デザルトの胸像をその場に写してみせた。瞬きをしているから、これは映像なのだろう。姿形に今と変わりなく、これは現在のデザルトなのか五百年前のデザルトなのか分からない。


「あの頃は、まだあいつも導き手になったばかりだった。技量も魔力も何もかもが足りなかった」


 デザルトの背後に突如炎が立ち上がり、その炎がデザルトを包んだところで、アディオペラがその炎ごとデザルトを握りつぶした。


「今は大丈夫だ」


 それで安心しろとは。

 不安でしかない。


「〜〜〜〜っ! そんなの! 全っ然、安心できない!」


「起きましたか、賢者候補様」


 ガバッと、勢いに任せて起き上がる。

 またこのパターンだ。

 完全なる夢オチ。

 アディオペラに明確な返事をしてもらえず、自分の声で起きる。これで二回目だ。


 カーテンから差し込む光から、今が朝だというのが分かる。


 息が苦しい。

 大きく何度も呼吸を繰り返してみるが、浅い呼吸しかできない。

 ベッド下を見ると出発準備中のデザルトがいて、鞄からタオルを出しているところだった。

 あの長い杖はカーテンに立て掛けてある。


 髪を手櫛で整えてから二段ベッドを下りると、デザルトからそのタオルを手渡された。


「二日もシャワーを浴びていないでしょう? 場所を教えますので、浴びてきてください。スッキリしますよ」


「……分かった」


 確かに、肌がベタベタで気持ち悪い。

 大人しくタオルを受け取って、デザルトに誘われるままにシャワースペースへ向かった。


 シャワースペースは、スポーツジムのシャワールームのようなところだった。旅館のように籠とそれを置く棚がズラッと並んだ脱衣所の向こうに、木板で分けられたシャワールームがたくさん置かれている。

 そのうちの一つを覗くとシャンプーとリンス、ボディソープが置かれていて、ここに来て初めて神に感謝した。


 だが、問題はここからだった。

 頭の先から爪先まで洗い終えて脱衣所に来てから気づいたのだが、服の替えがない。

 今回はデザルトに頼むわけにはいかない。

 他にも利用者がいる。

 周りを見ても洗濯機などはなく、蛍はその場で絶望にしゃがみ込んだ。


「終わった……どうしよう……」


 ローブはまだいい。

 上着だし、まだ平気だ。

 だが、制服と下着はダメだ。

 女子高生として、そこは妥協できない。


「あ、あの! すみません! 教えてほしいことがあるんですけど!」


 意を決して、着替え終えようとしていた女性に話しかけてみたが、女性には怪訝な顔をされて去られてしまった。

 次の人にはあからさまに手を振られてしまって、その次の人に無視をされ、蛍はすごすごと退散するしかなかった。


 髪から滴る湯は既に水に変わっていて、とても寒い。


 もうこのまま洗濯していない服を着るか、と諦めかけていたところで、「あら、あんた、どうしたの?」と声をかけられた。

 涙目で振り返ると、宿の女主人が掃除道具と共に立っていて、彼女は蛍の様子を見て何かを納得したように手を叩いた。


「なんだい、あんた服が洗えないのかい?」


「……はい……」


「しかもそんなビシャビシャで……あーあー、可哀想に。こっちにおいで。まずはあんたの髪を乾かさないと」


 手を引かれて、一つの洗面台の前に立たされた。

 洗面台の上にはドライヤーなんてものはなく、化粧水と乳液くらいしかなかった。

 ここでどうやって髪を乾かすのだろう、と不安そうな顔で待っていると、女主人がエプロンのポケットから、長さ二十センチほどの木の棒を取り出した。その形状で、それが魔法の杖であると察する。


「いいかい? これからあんたはいっぱい旅をするんだから、この魔法は覚えていきな。《フレッサフリマウェリーレ》」


「《フレッサ》、わっ!」


 女主人が杖で蛍の頭をポンポンと軽く叩くと、杖の先からシュルシュルと空気の球が出てきた。

 その球が蛍の頭と髪を覆い、温かい風だと感じている数秒もしないうちに蛍の髪を乾かしてしまった。


 次に女主人は蛍に大きなバスタオルを掛けた後、蛍の服が入った籠を杖で叩いた。


「《ラウァレトゥットコンアクア》」


「ラ……え?」


 長い呪文が出たと思ったら、二日前に見た紫色の水球が蛍の服を包んだ。

 デザルトが唱えた呪文もこれだったのか、と感動してしまった。


「すごい! すごいです、これ!」


「はは、そんなにビックリしなくても。水の波が落ち着いたら、次は乾燥だよ。《アウウォルシトゥットコンウェント》」


 また長い呪文だ。

 勝手に、長い呪文は文章として耳に届くものだと思っていたのだが、どうも違うらしい。


 女主人の呪文に応えて、水球が風の球に変化した。

 デザルトが施してくれた魔法と同じだ。

 風が収まると服はしっかりと籠の中で畳まれて、ちょっと得意げな顔をしてこちらを見た女主人に、蛍は飛び跳ねながら拍手と称賛を贈った。


「すごい! すごいです! ありがとうございます! 本当に助かりました!」


「はっはっは、喜んでもらえて何よりだ。これから大変かもしれないが、頑張ってな。応援してるよ」


「はい! ありがとうございます!」


 悪い人ばかりではない。

 やっぱり、蛍にはこうして良くしてくれる人を「信じない」とバッサリ切ることなんて、できなかった。


 ピカピカに綺麗になった服を纏ってシャワースペースを出ると、デザルトが廊下で待っていた。


「待たせちゃってごめん! お待たせ!」


 彼の足元には蛍の鞄も置いてあり、蛍は慌ててデザルトに駆け寄った。鞄を受け取ると、デザルトは「行きましょう」と言って宿の出入り口へ向かう。


「さっぱりしましたか?」


「うん! あのね、さっきここの店員さんに助けてもらったんだ!」


 必死にさっきあったことを伝えたくて、何から伝えたらいいか分からず彼の横で「あのね、あのね」と口どもってしまう。


「髪も乾かしてくれたんだ! あと、デザルトさんがやってくれた洗濯の魔法の呪文、すごい複雑だった。私にもできるかなぁ。不安だ」


「そうですか」


「そうですかって、ちょっと冷たくない? そりゃあさ~、デザルトさんからしたら簡単な魔法かもしれないけどさ……」


 魔法に慣れているなら、きっと蛍がスマートフォンで画像加工したり動画編集したりする程度と思えるかもしれないが、蛍にとっては何もかもが目新しいのだ。


「(加工アプリ絶対使えないって言ったママのこと馬鹿にしたの、良くなかったな)」


 今更ながら、反省だ。

 突然黙ってしまった蛍を気にしたようで、デザルトがこちらを覗き込んでくる。

 それに慌てて手を振ったが、デザルトは少し蛍から離れて蛍の頭の先からつま先まで眺める。


「うん、上手にできていますよ、賢者候補様」


「って! 話聞いてた? 私じゃなくて、あの店員さんがやってくれたの!」


「うんうん、聞いてますよ、ちゃんと」


「聞いてないじゃん!」


 適当な返事をされた。

 女子高生の相手をすることに、三日目にして嫌気がさしてきたのかもしれない。

 デザルトの背をポコポコ叩くと、まったく痛そうでないのに「痛い痛い、やめてください」と言われた。

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