第五話 スラックス

 私は今、かつてないほど戸惑い、迷い、混乱している。


 夕陽が私を好きで?

 夕陽は女で、私も女で?

 そんな夕陽を私はどう思っている?


 考えれば考えるほど思考は堂々巡りに陥って、結論が出せないまま気づけば修学旅行の日を迎えていた。

 このまま悩み続けていてもきっと答えは見つからない。だから私は答えを内に求めるのでなく、外に見出すことにしたのだ。

 ちょうど身近なところにいるではないか。「男女」という二つの境界で分けられない存在が。


 楯無アメ。


 教室では性別不詳とされ、その話題に触れることすらタブーとされている。

 けれど、修学旅行という解放的な非日常の瞬間なら、ひょっとすると〈彼、あるいは彼女〉の性別に迫れる可能性だってなくはないはずだ。

 一番近道なのは〈彼、あるいは彼女〉と仲良くなって、さりげなく、そこはかとなく尋ねてみること。

 だけれど、朝の点呼の段階で思い切り委縮させてしまったことが記憶に新しい。

 つくづく自分の不器用さを思い知った。


「どうかした、早智? ちゃんと前向いとかないと危ないよー」

「え、ええ、そうね」


 夕陽に指摘されて、自分がいつの間にか俯いていたことに気がつく。

 これではいけない。常に胸を張って堂々としていなければ、私は私の弱い心に負けてしまう。

 背筋を伸ばして顎をピンと上げる。と、隣からくすり、と笑い声が漏れたのが聞こえた。目を向けると、夕陽の視線とぶつかった。


「ごめんごめん。素直だなって思って、つい。ふふ」


 彼女は口元に手を当てて悪戯っぽく、でも優しさも含んだ微笑みを浮かべて言う。


「別に珍しくないもでしょ」

「そう? あ、でもあたしといる時はそうか」


 斜め上辺りを見上げて記憶を辿っている様子の夕陽。

 私はカッと耳が熱くなるのを感じた。一刻も早くこの熱を逃がしたくて、夕陽からふいと目を逸らす。


「他の子たちにもそうやって素直に接していればさ、もっと仲良くなれるんじゃない?」


 まるで私の心境を見透かしたかのような彼女の言葉に、私は素直になれなくて顔を背けたまま、


「私はいつだって自分の心に素直よ」


 と屁理屈をこねるのだった。




 クラスごとの列に並んで新幹線の車両に乗り込んでいく。

 はじめは独特の落ち着いた雰囲気で満たされていた車内も、浮き立った高校生が入るたび、落ち着いた空気が押し出され、かわりに喧騒が広がっていった。

 席が生徒たちで埋め尽くされるころには、辺りは静かな興奮と抑えきれない熱気で満ち、普段は冷静沈着を自負する私までも雰囲気にあてられて高揚を覚えるほどだった。


「楽しみだね、宮島」

「そうね」


 私の隣の席に座った夕陽もいつもより声のトーンが明るい。彼女も何か大きなイベントが始まる前の高揚感に身を委ねているのだろう。


 席は基本的に班ごとに割り当てられていた。

 進行方向に向かって右側に二席、左側に三席設けられており、二席の方には窓際に夕陽、通路側に私。三席の方は奥から楯無さん、小野寺、佐倉の順で並んでいた。ナメクジ二人に阻まれて、楯無さんまでの距離は遠い。


 しばらく待った後、やがて定刻となり、新幹線はゆったりと動き出す。

 あまりに静かな出発で、窓の外の景色が流れていなければ、発車に気づかないほどだった。

 それまで車内に散乱していた興奮やら期待やらは、列車が動き始めたことで一旦は落ち着き、そこかしこから普段通りのやり取りや笑い声が聞こえてきた。

 ふと、その中から気になる会話が耳に飛び込んでくる。


「ねえねえ、てかさ、アメちゃんて、ちゃんとくん、ほんとはどっちで呼んだらいいのー?」


 何の気ない佐倉の質問だった。ほとんど無意識に私は耳をそばだてる。


「好きな方で呼べばいいと思うよ、なあアメ」

「う、うん」


 質問は小野寺に引き取られ、楯無さんへと送られた。残念ながら敬称からの判断は出来そうになく、尋ねた本人もその答えにあまり納得いっていないような声を出した。


「ふーん。じゃあさじゃあさ──」


 佐倉の質問が続きそうになった時、しかし何列か前の席から飛んできた別の声によって遮られた。


「マジか! パンツ見えたのかよ!」

「バッカ! 声でけぇって!」


 同じクラスの何たらとかいう男子たちの声だった。座席の背もたれに隠れて姿は見えないものの、私は彼らをキッと睨みつける。


「はは、男の子ってバカだねえ」


 夕陽は呆れつつも面白がっているような様子だった。


「本当に馬鹿らしい。ああいう人たちと同じ空気吸いたくないわ」

「相変わらず厳しいねえ。でも男の子の気持ちもわからないこともないけどな。だってそれ、ひらひらしてるんだもん」


 夕陽にそう言われ、私はつい反射的に自分のスカートを抑えてしまう。


「あはは、気になるんだったら、早智も私みたいにスラックスにすれば? うちの高校、そうところ寛容だし」

「嫌よ。どうして私がわざわざ男子なんかの目を気にして我慢しなくちゃならないのよ。私、スカート気に入っているもの」

「ひゅー、それでこそ早智さまだ」


 冗談めかして笑う彼女に私はふと、尋ねてみようと思った。


「夕陽はその……どうしてスラックスにしたの?」


 考えてみれば、直接聞いてみたことはなかった。

 夕陽とは二年生になってからの付き合いだけれど、何となくその存在は一年生の頃から認知していた。

 周りの女子が当たり前のようにスカートを履いている中、ひとりスラックスを履く少女がいると。初めは線の細い男子生徒がいるもんだと勘違いしたけれど、全校集会で女子の列に並んでいるのを見て、女子生徒だと知ったのだった。


 それ以来、勝手に男勝りな子なのかしらと想像を膨らませていたが、彼女と同じクラスになって、私の数少ない友人となった今、その想像は否定されている。

 彼女は勝気でもなければ、豪胆でもない、少しマイペースな普通の女子高生、だと思う。


「あたし? うーん、そうだねえ」


 顎に手をやって考える夕陽を、何故だかどぎまぎしながら待つ。


「好き、だからかな」


 ふわりと振り向いた彼女の瞳が私と絡み合う。

 胸の内側にばくん、と強い衝撃を感じて、つい数日前の夕焼けの帰り道での出来事が脳裏に蘇り──


「スラックスが。スカート、なーんか苦手なんだよねえ」

「……え? あ、ああ、そうなのね」


 記憶の夕暮れから現実へと引き戻されて、慌てて相槌を打つ。


「あと、スラックスの方が綺麗に見える気がするし。ほら、あたし足長いからさっ」


 夕陽はこれ見よがしに足を組み、得意げにふふん、と鼻を鳴らしてアピールした。


「言ってなさいよ」


 憎たらしい笑顔を向けられても全く嫌な気分にならないのは、冗談として言っているのがわかるからか、あるいは彼女の憎めない性格ゆえか。

 いずれにしてもこうして軽口を叩いてくれる存在は私にとって貴重なもので、もっと大切にしなくてはならないと思うのだけれど、気恥ずかしさとむず痒さが胸に渦巻いて、ついそっけないふりをしてしまうのだった。


 窓の外に見える景色はすでに知らないものだった。

 新幹線は広島に向けて、どんどん速度を増していく。

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