第四話 少し前の出来事

 ひゅうと足の隙間をすり抜けていく風が秋の深まりを実感させる。


 日もすっかり短くなり、まだ十七時を過ぎたばかりだというのに辺りは夕闇に包まれ始めていた。

 この暗さでは飛んでくるテニスボールは見えない。

 だから、部活も夏より早めに切り上げられるのだ。私はずり落ちてくるラケットバッグを背負い直して、アスファルトの鋪道をそれまで通り歩いてゆく。


 ナイター設備の充実している野球部はまだ練習中のようで、緑のネットを隔てた向こうの校庭からは、カキン、とバッドの甲高い打球音と唸りを上げているような低い部員たちの声出しが聞こえてくる。それに混じって私の数十メートル後ろから、女子たちのかしましい笑い声が時折、耳をつんざいた。


 いったい何が楽しくてあんなにはしたなく笑っているのだろう。

 正直言って、理解に苦しむ。

 適当に部活をやって、適当にサボって、適当に喋る。彼女たちにとって、人生はそれで良いというのだろうか。


 私は違う。

 やるからには真面目にやりたいし、きつい練習だって厭わない。


 やるべきことを地道にやっていけば大会での上位入賞だって難しくはないはずだ。

 私が女子テニス部の部長になった際、そう演説したのも遥か昔の事のようである。あの時は彼女たちも調子よく拍手していたくせに、今となっては大笑いして手を叩くのが関の山だった。


 先輩たちがいた頃は良かったわね……。


 もはや定型といって差し支えない愚痴を、ひとりまたこぼす。それをはあ、と大きなため息で押し流すまでが一連の流れだった。


「どーしたの? ため息なんかついちゃって」


 唐突に背中から声をかけられる。振り向くともはや馴染みとなった少女の姿があった。


「……なんでもないわ。あなたも部活終わったのね、夕陽」

「そーだよー。部長が『硬式』どもには負けてられん! って言ってたから早智たちより遅かったけどね」


 ふふ、と微笑む夕陽。その肩には黒のラケットケースがかかっていて、小物入れのファスナーには部内でお揃いだというラケットを模した小さなストラップが揺れていた。

 私はつい癖で視線をそのまた下へ滑らせそうになるのを堪えて前を向く。


「ソフトテニス部は仲良さそうよね」

「まあね」


 夕陽は事も無げに答える。今はその正直さに逆に救われるような感じがした。

 アスファルトを蹴るローファーの靴音が重なる。

 オレンジの空は段々と藍によって侵略され、明るい星が瞬いている。

 もうほとんど、夜だ。


「もうすぐ修学旅行だねえ」


 私と同じように遠くの空を眺めていた夕陽がしみじみと言った。


「そうね」


 彼女に相槌を打って、週末から始まる三泊四日の長旅に思いを馳せる。


「早智はさ、三日目の夜間外出、誰と回るとか約束ある?」

「……いえ、ないけれど」


 一瞬、揶揄われているのかと勘繰った。

 けれど、彼女に限ってそんな嫌味をぶつけてくるわけがないとすぐに思い直す。

 あれはカップルの逢瀬や告白の場に使われることが多いとどこかで耳にしたことがあるけれど、無論、私にそんな予定はない。むしろ、男子との逢瀬という唾棄すべきイベントなど、仮に誘われてもこちらから願い下げである。


 私の答えを聞いた夕陽は何故かほっとしたように頬を緩ませ、それから「じゃあさ」と口を開いた。


「あたしと回らない?」


 意外なお誘いに私は驚いた。

 目を見開いているであろう私を見て、夕陽は珍しく焦ったように言い訳めいたことを口にする。


「ほら、あたしも誰とも約束してないからさ。 友達どうしで夜の街? に繰り出すのも悪くないかなって。結構そういう子たち多いらしいし」

「……いいけれど」


 誘いには驚いたけれど、特に断る理由もないので普通に了承する。

 私の色よい返事を聞いた彼女は「やったね」と小さくピースサインをつくった。


 夕陽と、夜に出掛ける。


 それは何だか特別なことのような気がして、胸の内側がうずうずとして落ち着かない。

 修学旅行には大して期待していなかったけれど、彼女との約束が生まれた今、週末に控えるそれを待ち望んでいる自分がいた。


 でも。一方で不安に思う自分もいた。


 後ろの方からは相変わらず、きゃはは、と下品な笑い声が聞こえる。

 あんなに楽しそうにしているなら、やはり彼女たちも夜間外出の約束を交わしているのだろうか、と想像してしまう。

 私は夕陽に尋ねざるを得なかった。


「でも、いいの? ソフトテニス部の人たちと一緒じゃなくて」


 夕陽には友人が多い。私とは違って明るく社交的だから、誘いには困らないだろう。

 彼女を訪ねて教室にやってくる友人らしき生徒を何度も目にしたことがある。それなのにどうして私を誘ったのだろうか。


 もし、私に気を遣っているというのなら、それは。


「いいのいいの、あいつらは。いつも一緒にいるし」

「……私も同じクラスだし、修学旅行の班も同じだけれど」

「それはまあ、そうかもしれないけどさ」


 あはは、と困ったように頬を掻く夕陽に私は確信する。


「気遣いなら不要よ。あなたも好きな人たちと回った方がいいでしょう? さっきの約束はやっぱり無かったことに──」

「……そうじゃない!」


 夕陽は立ち止まり、声を張り上げた。突然の出来事に私は面食らい、そして振り返った。


「そうじゃないよ、早智」


 彼女の表情は悲痛に歪んでいて、けれど瞳は何かを訴えるように真っ直ぐだった。私は思わず息を吞む。


「あたしは早智が好きだから、誘ったの」


 目と目が合う。

 友人からの熱烈な告白を受けてつい、たじろいでしまう。

 こんなにも誰かに好きだと言われたのは初めてだった。家族ですら、思っていても口にはしない。


「あの、ごめんなさい。そんなに大切な友人だと思ってくれているなんて私、知らなくて」

「友達としてじゃないよ」


 さっきまで騒がしかった校庭からふっと音が消えたような気がした。


 友達として、じゃない?


 その意味を図りかねて私は困惑する。夕陽は相変わらず、真っ直ぐ私の目を見つめていた。


「好きなんだ、あたし。早智のこと。……恋愛的な意味で」


 一瞬、何を言われたのか、まるで理解が追いつかなかった。


 レンアイテキ。れんあいてき、恋愛的な意味で。スキナンダ?


 思考がショートする。辺りは夕闇に溶けているはずなのに視界がチカチカした。


 そうして私が何の声もあげられないまま呆然と立ち尽くしているうちに、夕陽は耳を真っ赤にして私を追い抜いて駆けていってしまった。

 あの耳の赤さは夕焼けに照らされたことによるものではない。

 なぜなら夕陽は沈んで久しく、あるのは鋪道に設置された白い電灯の光だけであるから。


 離れたところを歩いていたはずの女子テニス部の集団が追いついてきてもなお、私は落雷に遭ったかのように立ちすくんで動けないままだった。

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