第二話 点呼

「優太くん! おっはよー!」


 駅構内に遍く響き渡るような甲高い声とともに、とん、と右腕に柔らかい衝撃を感じた。ふわっとした女の子のいい匂いも遅れてやってくる。

 こういう抱きつき方をしてくるのは俺の知る限り、ひとりしかいない。


「佐倉。おはよう、朝から元気だね」

「えー? だって修学旅行だよ? それに優太くんと一緒の班だし! 香乃愛、めっちゃうれしい」


 自分のことを名前で呼ぶ彼女には、俺の困惑も皮肉も全く通じない。明るい色の髪と同じような光が満面の笑みから放たれていて、そういった邪気や邪念を丸ごと浄化しているみたいだ。


 男としては、可愛らしい女の子に言い寄られて悪い気分にはならないが、流石に時と場所を選んで欲しいとは思う。

 日曜日の午前八時、それも東京駅のど真ん中で抱き着かれては周囲の視線が痛い。さらに言えば、今のこの状況は少々、俺にとって都合が悪かった。


 右腕を解放してもらおうと身じろぎしつつ、佐倉に抱き着かれている方とは反対側に目を向ける。

 そこには案の定、どうしたらいいのかわからなそうに視線を行ったり来たりさせている整った顔があって、俺は申し訳なさを感じた。


「あ、アメちゃんもおはよー」


 その存在に気がついたらしい佐倉が片手を俺の腕から離してアメに向かってひらひらと振る。アメはやや俯き加減に目を忍ばせながら、控えめに手を振り返した。


「あ、うん、おはよう佐倉さん」


 小動物然としながらも挨拶を交わすアメの表情には遠慮がちな困惑こそあれ、痛みを感じている様子はなかった。

 俺はほっと胸を撫でおろした。


「ところで佐倉、そろそろ離れてくれない?」


 頃合いを見計らって、佐倉から自分の右腕を取り返そうとする。このままだとアメにとっては居心地が悪いだけだ。

 だが、佐倉は口を尖らせて思いっきり不満を露わにする。


「えーっ、アメちゃんはよくて、香乃愛はダメなのー?」

「何言って──」


 佐倉の言葉の意味を図りかねて、彼女の反対側に目を向けると、アメもその小さな手でちょこんとブレザーの裾を掴んでいた。

 俺は思わず言葉を失う。


「あっ、ごめん優太……」

「いや、別に……」


 臆病な子犬のように掴んでいた手をすぐさま引っ込めるアメに、何だか悪いことをしたような気分になる。怒っても、嫌な気分にもなっていないことを今すぐ伝えてやりたい思いに駆られる。


 こういうことは何も今日に限ったことじゃない。アメと感情が微妙にすれ違う場面は多々あり、その度、得も言われぬもどかしさが俺を急き立てた。

 でも、相手を理解しようと、心を通わせようと、言葉を尽くせば尽くすほどに「俺とアメの関係」が薄っぺらでどこにでもありふれたものに変わっていってしまうような気がして、結局、いつも何も言えずじまいだった。


 俺とアメの関係は、一言で表せるほど単純じゃないし、安定したものでもない。

 そして対等でもない、と思う。

 俺に許されることと言えばせいぜい、降りかかる火の粉を払って、巣立つのを温かく見守ることくらいのものだろう。


 俺とアメの間に流れる、互いの距離を測りかねているような微妙な空気が濃さを増していく。

 右腕にかかる圧力がますます強くなり、血管が圧迫されて痺れてきた。しかしその時、息苦しい雰囲気を切り裂くかのように、俺たちの間に冷ややかな声が差し込まれた。


「あなたたち」


 見れば──春木さんが鬱陶しそうに眉間にしわを寄せて、腕を組んで立っていた。にわかに緊張が走る。


「ここは公共の場なのよ? 節度を守って行動してくれないかしら?」


 背中に下ろされたその長い黒髪は彼女の謹厳実直な性格を表しているみたいだ。

 であれば、


「えー、いんちょー厳しー! 香乃愛たち普通にしてたのにぃ。ね、優太くん?」


 佐倉とそりが合わないのは火を見るよりも明らかであり、彼女の甘ったるい抗議に春木さんの眉間のしわはいっそう深まるばかりだった。

 そして理不尽なことに、彼女は佐倉よりもむしろ俺の方に鋭い視線を向けてきている。


「えーっと、ごめん春木さん。点呼だよね?」


 腕から無理やり佐倉を引きはがしながら答える。

 はがそうとして佐倉の肩に触れた時に彼女が妙な甘い声を上げるものだから、余計に目つきが厳しくなって恐ろしい。


「佐倉香乃愛に、小野寺優太に、楯無アメ……さん。全員体調は良好ってことでいいわね?」


 春木さんに順番に睨まれ、俺たち三人が口々に返事をすると、彼女は「そう、わかったわ」とそっけなく言い放ち、最後に釘を刺すように俺を一瞥してから、踵を返して去っていった。

 厳しい態度とは相反して翻った彼女の長い黒髪からはほのかに甘い香りが漂ってきた。


「いんちょーが班ちょーとかちょーこわーい! ね、優太くん! 一緒に三泊四日乗り越えようねっ!」


 こっちはこっちでカールした明るい髪を肩口でふわふわ弾ませて、再び俺の腕に体を寄せてくる。


 俺は苦笑いで曖昧に返しつつ、高校生活最初で最後の修学旅行に前途多難を予感した。

 正確に言えば、班が結成された段階ですでに雲行きが怪しかったが。


 まあ、でも。


 俺からしてみれば、アメと同じ班であれば、あとはどうにでもなると思った。

 俺が、佐倉と春木さんの間を取り持てばいいし、栗秋さんとならアメだって普通に話せるだろう。むしろその手助けだってしてやれる。

 最悪の状況は、俺とアメが別々の班になってアメがひとり馴染めないで苦しむことだ。それが回避できるのなら、班内での多少の不和など許容範囲、この際どうにでもなれというのが、正直なところだった。


 俺より、頭一つぶん小さいアメに視線を落とす。

 空調か、あるいは気圧の変化か、駅の構内に生温いそよ風が吹いた。

 柔らかそうな猫っ毛が揺れ、濃いグレーのスカートがひらりと舞う。

 胸元に飾られた男子と同じ臙脂のネクタイが良く映える、透き通るように白い頬と、引き寄せられるような色素の薄い唇。俺の視線に気づいたのか、きらきらと光る瞳に興味を乗せて、小首を傾げている。


 一見すると、華奢で愛らしい容姿の女の子。しかし、当の本人はそう決めつけられるのを嫌う。

 彼、もしくは彼女にとって、「性別」などという凝り固まった枠組みはあまりに窮屈で時代遅れなのだということを、俺は改めて肝に銘じた。

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