第5話 1月3日の夜は更ける
帰りの運転にも神経が衰弱したが、なんとか無事に駐車する。ようやく運転が終ったことで僕は精神の安定を取り戻していた。
車を出て、改めてあたりを眺めると、もう薄暗くなっていた。僕と玲は買った食料品を後部座席から取り出し、玄関へと運んだ。
「だいぶ暗くなったね」
「大丈夫。七輪バーベキューは暗くなってからが本番なんだ」
「本当?」
「本当」
適当だ。
「食材の準備をしてから、一緒に火を熾そうか」
「うん、野菜とかは私が準備する!」
なんてできた子なんだ。
「ありがと。じゃあ僕は七輪の準備しとくね」
「わかった。肉とかパックのままでいい?」
「いいよ。鶏モモだけ適当な大きさに切ってくれる? あと、しいたけの軸も外しといて」
「わかった。海老もそのままでいい?」
「いいよ、殻付きのまま炙ろう」
玲は、よし分かった、という顔をするが、ふと顔が曇る。
「……あ、でもさざえってどうすればいいの?」
「さざえもそのままでいいよ。"壺焼き"っていうだろ? そのまま焼くんだよ」
「おお……なるほど……」
玲の顔からは、残酷だと思っているのか、美味しそうだと思っているのか、よく分からない。まあたぶん後者だろう。
*
食材の準備は玲に任せて、道具の準備を進める。
明かりをつけて、玄関先に七輪を置く。その脇に、折り畳みの椅子を2台、小さい机を1台用意する。新聞紙を丸めて七輪の底に置き、その上に細い炭を積み上げていく。木切れがあればなおよかったのだが、まあこれでもなんとかなるだろう。火が熾ってから積む炭も適当に選び、そばに置いておく。七輪の底の空気口の蓋を開け、団扇を机の上に置く。ライターも準備できている。
よかろう。ここから充分に火が熾るまでは長いが、ともかく準備は整った。
*
「玲! こっちは準備できたー!」
台所の玲に呼びかける。
「こっちも大丈夫ー!!」
玲は台所と玄関を往復し、食材や食器、焼き肉のたれなんかを運んできてくれる。ビールとコップもある。なんてできた子なんだ。ブドウジュースのパックとコップも合わせて運んできているのでそのあたりは抜かりない。
そのうち、机の上に食材が揃う。この寒さなら、肉なんかも多少は放置していても大丈夫だろう。
「おっけー、ぜんぶ運んだ」
「ありがとう。玄関閉めて出といで。その椅子に座るといい」
「ん、わかった」
玲が玄関から出てきて、折り畳みの椅子に座る。
*
準備は整った。
「始めよう」
丸めた新聞紙を手にしてライターで着火する。その新聞紙を七輪の奥に突っ込み、底に敷いている新聞紙に火が移るのを待つ。
よし、うまくいったようだ。新聞紙から勢いよく火は上がるが、ここで焦ってはいけない。炭が熱されるのを待つ。
ふと玲を見ると、なんだか尊敬のまなざしで僕を見ていた。まあ確かに、七輪で炭を熾すのは、現代においてはやや特殊スキルかも知れない。でもやめろ、まだ上手く行くかは分からん。
玲はそれから七輪の中で燃える炎を眺めているようだった。よいよい、でも玲、それはただの炎だ。炭火焼きの真価はこれからだ。
数分ほど待って、七輪を覗き込む。炎は消えたが、底の炭に火が移っていることが分かった。上手く軌道に乗ったことを確信する。あとは炭が焼けるのを待つだけだ。
「ちなみに、準備が完了するまで少なくとも30分はかかる」
玲の希望に満ちた顔が絶望に変わる。腹は減っているだろう。
「まあ楽しいこともあるから」
そう言って、うちわを手にして、七輪の底の開き穴から空気を送る。それに応じて奥の方の炭の縁が赤く光るのが見える。
「うおぉ……」
玲が驚きの声を上げる。
「たっくん、なにこれ、石なのに赤い」
石じゃなくて木だけどな。
玲の素朴な感想と輝く目が嬉しくて、より強くうちわを扇ぐ。
「うおおぉぉ……」
火のついた炭はオレンジ色に光り、七輪の内部と僕らの顔を照らす。新聞紙の燃えカスが吹きあがるが、大したことはない。
「たっくん!」
玲が叫ぶ。
「それ、私もやりたい!」
おっ、そうだな、その気持ちはよく分かる。
「いいよ、難しいことはない。ただ七輪の底の穴に空気を入れればいい」
「わかった!」
うちわを手渡すと、七輪の前にしゃがみこんで、玲はうちわを扇ぎはじめた。そんな大振りである必要はないよと思ったけど、黙って玲の姿を見つめていた。
「玲、僕もうビール飲んでいいかな」
「あ、いいよ、どうぞ」
気もそぞろな返答だったが、許可をいただいたのでビールを開ける。
玲の頑張りで炭が熱せられていく。パチパチという音が響く。
*
すぐ飽きるかなと思っていたけど、ビールが1缶空くまで玲はうちわを扇いでいた。そんな楽しいか。いや、そうだな、幼いころの僕も玲と同じようにしていたと思う。
七輪をのぞきこむと、上の方の炭にはまだ火は移ってないが、底の方の炭はすでにかんかんと輝いていた。十分だろう。
遠赤外線のせいかなにか、火が落ちてから焼く方が美味しくなるのは知っている。しかしそれは数時間は先のことだ。僕も玲も、もうお腹が減っている。うちわの動かし方も自然と上手になってきていた玲に声をかける。
「玲、ありがとう。そろそろ始められそうだ」
「ほんと!」
慣れない作業が面白かったのはあるかも知れないけど、お腹も減っているのに、ここまで文句ひとつなく待っていた玲の成熟に気付く。
「やるか」
そう言って僕は七輪に網を乗せる。
「待ってたぜ」
玲はうちわを机において、折り畳みの椅子に座る。
*
「さて、なにから行きますかね。さざえが最初がいい?」
「んー、さざえはメインディッシュかな」
生意気ガールめ。
「僕もお腹減ってるし、脂っこいのから行こうか。豚トロでどう?」
「よいです」
「その脇でしいたけも焼こう」
「すばらしいたけ」
これで笑うのは程度が低いとなんとか我慢し、トングで豚トロを数枚、網の上に置く。隅の方にしいたけを裏返して乗せる。そのうち、食材の焼けるいい匂いが立ち上る。
「おほぅ……」
玲は顔を七輪に近づけて、まさに釘付けといった様子で網の上をじっと見つめている。
突然、七輪から大きく火が上がる。
「わっ!!」
玲は驚いて体を起こす。豚トロから落ちた脂が燃えたのだろう。そのままぼうぼうと炎が吹き上がる。
「こ、これ大丈夫なの!?」
玲は僕の方を見て心配そうに問う。
「大丈夫。脂が落ちてるだけだからじきに止む」
しばらく待ってから、頃合いだろうと豚トロを裏返す。しいたけは裏返す必要はない。かさに水分が出てきたら食べごろだと聞いたことがある。豚トロを裏返してしばらくすると、ふたたび激しく火が上がる。
「キャンプファイヤー!」
とりあえず無視する。
玲は、にやにやしたり、立ち上る火に手を近づけてみたりしていたが、2分経つ頃には真顔でぐったりとしていた。
「……そ、そろそろいい?」
もう空腹も限界だろう。気持ちは分かるが、豚はよく焼かねばならない。
「あと1分くらい焼こう。もうちょい待て」
スーパーで僕の顔を野犬と評したが、僕の静止を受けた玲の顔も、腹を空かせた野犬のような表情になっている。僕も野犬見たことないけどな。
それからまた何度か火が上がる。しばらく待ってから、豚トロの裏面を確認する。うん、いいだろう。
「よし、玲、GO!」
「いよっしゃ!!」
即座に割りばしで豚トロを持ち上げると、取り皿のたれに付けて、すぐに頬張る。目を瞑って咀嚼し、そのうち飲み込む。そしてカッと目を開く。
「おいしい!!」
玲は、心底感動したというふうに叫ぶ。
「すごい! おうちでする焼き肉とはぜんぜん違う! おいしい! 香ばしい!」
「よしよし、いいだろ? 炭火焼き」
「うん! いま私はとても幸福です!」
「好きなだけ食え、まだ食材はいっぱいある」
「うん!」
玲はもう一枚豚トロを取り上げ、先ほどと同じように頬張る。
ああ、嬉しいじゃないか、こうやって玲に喜んでもらえるのは。僕も豚トロを持ち上げ、タレにつけて食べる。うむ、豚トロを自宅で食べることはないが、たまに友人らと連れ立っていく焼き肉屋で食べることはある。しかしあの店はガス火であり、やはり炭火で焼くこの独特の旨みは格別だ。
「しいたけももういいかな」
僕はしばらく豚トロを噛みしめていたが、玲の言葉に目を開く。網の上のしいたけを見ると、聞いたとおり、かさに水滴がにじんでいる。大丈夫だろう。
「GO!」
僕の言葉に、玲はしいたけを取り上げて取り皿のたれにちょんちょんとつけてかぶりつく。しばらく噛んで飲み込んだのち感想を述べる。
「んー、この触感と香りがたまりませんね」
渋いな。大学に上がるくらいまではその触感と香りが僕は大嫌いだったというのに。僕もしいたけを持ち上げ、かぶりつく。おっ、美味い。玲の感想の通り、肉厚のしいたけの触感がよい。
豚トロを焼いては炎に驚く玲の横顔を見ながら、残りを平らげた。
*
もちろん、我々はまだまだ満たされない。
次は鶏モモを焼く。玲がぶつ切りにしてくれている。無難なチョイスだが、炭火で焼けばただの鶏モモも存分に美味しくなる。
ぶつ切りの鶏モモを皮目を裏にして網に並べていく。身の方から焼くと網にくっついてしまう気がする。こうすれば皮から出た脂が網に付いて、いい感じにはがせるだろう。たぶんな。
そのうち、豚とはまた違う脂の匂いが漂ってくる。炭火が鶏の皮を炙るたびにその匂いは強まってくる。
「……たまらん」
思わず僕は呟く。
「……たまらん」
玲が呼応する。
「これ、普通のにわとりだよね」
網と僕を見比べながら玲が尋ねてくる。
「そうだ。これが炭火焼きの真価」
「すげえや」
やめなさいそういう言葉遣いは。でもその気持ちは分かる。
頃合いを見計らって鶏モモを転がす。ふと、宮崎だったかの鶏の炭火焼きを思い浮かべる。大学の飲み会で入った店で食べた。あれは美味かった。でもあの黒色ってどうやってつけるんだろうな。炭に突っ込むわけでもあるまいし。
そんなことを考えながら、鶏モモを適度にひっくり返していた。玲の顔を見ると、もう、まだかまだかという表情で、しかし、ぎらぎらした目で七輪を眺めていた。吹き出しそうになったけどなんとかこらえる。たぶんそろそろいいだろう。
「玲、もういいよ」
「やー!!」
即座に鶏モモを掴みあげて取り皿に置く。タレに絡ませて口に運ぶ。
「玲、熱いから気をつけな……」
僕が言い終わるより前に、鶏モモは玲の口から取り皿に吐き出された。
玲は、ブドウジュースのコップを取り上げて口に運ぶ。飲み終えて、ふぅーっと息を漏らす。白くなった呼気は緩やかに空へと消えていった。
「……熱かった」
怒りに満ちた口調で玲は呟く。
「舌、火傷したか?」
「ギリ大丈夫だった。私が愚かだった」
玲の視線が手元の取り皿に落ちる。
「うん、私が愚かだった。ちゃんと冷まさないとだめだ」
「また1つ賢くなれたな」
「たっくんが火傷すればよかったのに」
変な流れ弾を食らった。
「ほら、端に置いたやつはもう冷めてると思うから、食べな? 中の方はまだ熱いだろうから気を付けろよ?」
「ん」
取り皿の鶏を食べると、玲は即座に網から鶏肉を取り上げる。育ち盛りめ。
「あふっふ、たっくふ、こへ、おいひい!」
玲がはふはふ言うたびに白い息が溢れている。その姿を見て、僕はなんとも言えない満足感を覚える。
よし、玲の観察も済ませた、僕もそろそろ食べよう。モモ肉を持ち上げた感触からして、皮がぱりぱりになっているのが分かる。タレに絡めて口に運ぶ。おおう……、皮は歯に弾け、身はぷっくらしてジューシーだ。鶏の香りと炭の香りが絶妙にマッチして、これは素晴らしい。
飲み込んで目を開くと、網が空になっていた。すべての肉が玲の取り皿の上にある。
「おい玲おい」
「はやく次焼いて」
怒りも沸かず、僕は笑ってしまう。
「焼きますとも」
テーブルの上のパックとトングを持ち上げる。美味いと思ってくれてるならいいんだ。
*
続いてやげんナンコツだ。居酒屋で唐揚げとして食べることはあるが、焼いて食べるのは初めてだ。しかし間違いなく美味いことを確信する。
「これ鶏だよね? でも見たことない」
鶏モモをもぐもぐしながら玲が僕に尋ねる。
「うん、鶏のナンコツ、軟らかい骨。ちょっと固いけど美味しい」
「ふーん、初めて食べるや」
まあ確かに、ご家庭で食卓にのぼる食材ではない気がする。
「これはタレよりは塩コショウの方が美味しいかな」
テーブルを見ると、果たして、塩コショウの容器が置いてある。玲を振り返ると、ふふん、という顔をしている。悔しいができたやつだ。
「玲、お前はよくわかっている子だな」
「だてにお母さんのお手伝いしてませんから」
「ほめてつかわそう」
「これはどうも」
ニッと笑い合う。
ナンコツを網の上に乗せていく。ううむ、ナンコツについているわずかな身の色が変わっていくのは分かるが、どれくらい焼くのが適切なのかいまいち掴めない。5分ほどころころ網の上で転がしながら様子を眺める。まあ、これくらいでいいか?
「玲、すまん、これどれくらい焼けばいいか僕もよくわからんから、先に味見する」
「うん、わかった」
網全体に塩コショウを振りかける。そうしてナンコツを取り上げ、ふーっと冷ましてから口にする。ガリっとかじるとちょうどいい歯ごたえだ。おっ、これくらいで良さそうだ。そのままがりごりかみ砕いて飲み込む。うむ、唐揚げしか食べたことなかったが、これはこれでとてもいい。
「玲、OKだ、行ってくれ」
「いただきまーす」
玲はナンコツを取り上げ、ふーふー吹いてよく冷ましたのち、そのまま口に放り込む。一口噛んで、む、という顔をする。
「……これ食べていいんだよね」
気持ちは分かる。こんな触感の食べ物は他にあまりない。
「大丈夫だ、がりがり行け。そのがりがり感がナンコツの美味さだ」
「ん」
僕の言葉で玲は咀嚼を再開する。
どうだろうか、味がないわけではないが、触感を楽しむ食材だと思っている。そういう意味でいうと、わりあい"大人の味"だ。さあ、玲の感想やいかに。
ごくんと飲み込んで玲は僕に顔を向けて言う。
「おいしいじゃん! 私これ好き!」
玲は大人だった。
「そうか、僕もこれ好きなんだ。まだあるから食おうぜ」
「うん!」
それからナンコツをころころ焼いてはがりがり食べた。
やはり塩コショウがいい感じで美味い。玲も満足そうで、これはいい買い物だったと思った。
*
ナンコツも食べ終わり、僕はにやにやと次の食材を取り上げる。
「よしピーマンいくか」
玲は露骨に嫌そうな顔をする。気にせず、丸のままピーマンを3つ網の上に置く。
「ええ……、ほんとに丸ごとなの? 種とか取らないでいいの……?」
「いいんだよ。よく焼けば丸ごと食べられる」
「ぐええ……」
網の上で転がし、ピーマンをじっくり焼いていく。5分ほどそうしているうちに、全面の緑色が褪せ、やや焦げ目がつく。そろそろいいだろう。
「よし、玲、食え」
「……うぅぅ……」
玲は割りばしでピーマンを持ち上げ、手元の取り皿に置く。玲は、心底嫌そうな顔で焼けたピーマンを眺めていたが、ちらちらと僕の顔を伺い、もう逃れられないと観念したのか、取り上げて口にする。
「あつっ!」
そりゃ中身は熱くなってるだろうな。先に忠告してやらなかったことを申し訳なく思う。
それでも玲はピーマンの半分ほどを噛みちぎり咀嚼する。玲は目を瞑って苦々しい顔をしていたが、ふと目を開ける。口を動かすスピードが速くなる。しだいに玲の目が丸くなる。噛んでいたピーマンを飲み込み、僕の顔を見て小さく叫ぶ。
「おいしい!」
そうだろうそうだろう、僕の言ったとおりだったろう。
残りの半分もそのまま口に入れ、目を瞑ってもしゃもしゃと噛む。咀嚼を終えてピーマンを飲み込んだ玲は目を小さく開いて呟く。
「すごい、ぜんぜん苦くなかった」
「大人の階段を1つ登ったな」
僕の言葉を完全に無視して玲が尋ねる。
「もう1個食べていい?」
「いいよ。1つは僕も食べたい」
「うん」
玲は網からピーマンを取り上げていったん取り皿に置く。それから口にくわえる様子を眺める。うんうん、僕はたぶんいい行いをした。滋味に溢れる野菜を美味しく食べる方法を1人の少女に教えてやった。たぶんこれは、僕の人生における善行のトップ20には入るだろう。
僕もピーマンを食べることにする。網から取り上げ、少したれに付けて口にくわえる。
「あつっ!」
内部の思っていた以上の熱さにピーマンを取り落としそうになり、噛み切った残りを慌てて取り皿に落とす。ああでも、美味い。やはり甘味を感じる。苦みなんて一切ない。くわえて、炭火の香ばしい匂いがたまらない。
自然と目を瞑っていた。咀嚼したピーマンを飲み込んで目を開けると、ピーマンを割りばしでつかんだまま、こちらをにやっと見ている玲が見えた。
「……なに?」
「え? いや、たっくんが『あつっ!』って言ったから」
「……別に玲が言ったときも笑ったりしなかったろ」
「だから私も笑ってないじゃん」
でもそのにやり顔が腹立たしいというか恥ずかしいんだ。
「いいだろ、熱かったんだよ。残りも食べろよ。僕も食べるから」
「はーい」
残りのピーマンも美味かった。しかし、なんとなく玲にもてあそばれている感じがする。しかし不快な感情は一切ない。なんだ? 僕Mなのか?
そんなことを考えながら噛むピーマンは、へたの付近は焼けてなかったようでやや苦かった。玲を見ると、やはり、うげっとした顔をしている。1つ目のピーマンは網の中央に置いていたから完全に火が通っていたか。玲、幸運だったな。それでも玲はちゃんとピーマンを完食する。よかったな、大人の階段をもう1段登れたな。
*
玲に大人の階段を登らせたところで次の食材に移る。
「次は海老いくか」
「いいねえ」
「しっかり焼けば殻ごと食べられるはずだ」
「えっ、殻はずさないの?」
玲は怪訝な表情を見せる。
「ほら、小さい川海老とかってそのまま揚げて食べるだろ? それと同じ」
たぶん。
「ふうむ」
「まあダメなら殻は剥けばいい。やっていきましょう」
「はい、やっていきましょう」
網に海老を並べる。じきに、甲殻類特有の香ばしい匂いが立ち上る。そのままじっくりと焼き、1尾を裏返す。うむ、カリカリに焼けている。そのまま残りの海老も裏返す。この様子だと、炭の香りのついた殻ごと食べるのが最良だと思う。そのまま海老が焼けていくのを玲と眺める。
海老の両面が十分に焼けたのを確認する。やはりこれは殻ごと行けそうだ。これも、ナンコツと同じように、タレよりは塩コショウの方がいいだろう。七輪の上から5尾の海老全体に薄く塩コショウを撒く。
「僕は殻ごと食うぞ。見てろよ」
玲は黙ったまま引いた目で僕を見ていた。
海老を取り上げ、少し冷ましたのちにかぶりつく。む、よい、これは行ける。殻は香ばしく、殻の中の身は甘くぶりっとした触感でとてもいい。咀嚼するうちに殻の香ばしさと身の甘さが混然一体となり、海老という食材の美味さを再確認する。
そしてこれは……、頭もそのまま食えるのではないか? 意を決して残った頭も口に放り込む。熱い。だが全面的にクリスピーで、殻の香ばしさとともに、奥から海老の味噌の苦甘い味がする。
いける。これは美味い。食うべきだ。もろもろ喉に刺さるのは怖いので十分にかみ砕んでから飲み込む。
玲が唖然とした表情で僕を見ている。
「……野蛮人だ……」
失礼な。
まあ玲の口の小ささとお子様舌を考えると、頭まで食べろとは命じられない。
「意外といけた。でも頭は別にいいよ、身のところだけでも殻のまま食べてみな」
「えー……、うん……」
ナンコツとピーマンで信頼を得たのか、やや憮然とした表情をしつつも玲は僕の言うことを素直に聞く。網から海老を割りばしで取り上げ、熱くないか確認するように尻尾を何度か指で挟む。割りばしで頭のあたりを挟んで、左指で尻尾を掴み、海老を安定させる。
「ううむ……」
まだ疑念は晴れないようで、玲はそのまま目の前の海老を眺める。そうして決意を固めたように海老にかじりついた。殻に歯が入るバリっという音が聞こえた。ほとんど一口に食べたようで、玲は、片手には海老の頭、もう片方の手には尻尾を持っている。そしてその格好のまま、目を瞑ってバリバリと海老の身をかみ砕く。
しばらくして海老を飲み込んでから玲は呟く。
「……たっくん」
「はい」
「……いけますねこれは。海老の身は甘く、殻は香ばしく焼き上がり、問題なく食べることができます」
アナウンサーか。
「言ったとおりだったろ? 頭もいけるよ」
「あ、それはいいです」
無碍もない。
「まあいいや。もう1尾食べな。僕も食べる」
「うん!」
そのまま2人でもう1尾ずつ海老を食べた。海老は5尾がパックに入っていたので、あと1尾、七輪の上で焼かれている。
「玲、もう1尾食べていいよ」
「いやいや、たっくんの方が体が大きいんだし、どうぞ食べてください」
「いやいや、玲が美味しそうに食べてたから玲に譲る」
「そんなそんな」
「どうぞどうぞ」
「いえいえ」
「いいんですいいんです」
「ではいただきます」
さっと網から海老を取り上げ、玲はバリっと殻ごとかじる。こいつは。
でも、はふはふと口を動かしながら、美味しそうに海老を頬張る玲の顔を見ていると何も言えない。
玲の残した海老の頭だけ炙り直して食べようかなーと思ったけど、玲に変態的な目で見られる様子が思い浮かんで諦めた。
*
「こいつも今日のメインディッシュの1つだ」
和牛カルビのパックをかかげる。
「こいつはたぶん、とてもいい肉だ。ふだん僕が食べられない程度には」
「かわいそうに」
「言ってて僕も辛い」
「せめて今は楽しもう?」
10も下の女の子に慰められてしまった。
しかしそろそろ炭の火も落ちてきて、コンディションとしては最良と言える。僕はカルビのパックを開け、トングで網の上に何枚か乗せる。この網の面積ならあと3,4回は楽しめそうだ。
じうじうと肉の焼ける音がして、油が落ちては七輪から炎が上がる。なんとも言えぬいい香りが広がってくる。やっべ、めっちゃうまそう。玲の顔をちらと伺うと、玲も玲でよだれを垂らしそうに口を開けている。というか少し垂れている。
牛だしそんなに念入りに焼く必要もないだろう。1分ほど待ったのち、トングで網の上の肉を裏返す。そうして30秒ほど待って、玲に告げる。
「玲、もうOKだ」
「……あっ、はい!」
玲を慮る余裕もなくして、即座に割りばしで肉を1枚取り上げ、軽くタレにつけ口の中に入れる。
嶺上開花。
麻雀はよく知らないが、この単語が浮かんできた。うっめぇ、やっぱ高いものって値段なりに美味いんだな。飲み込むのが惜しいほどに美味い脂がにじみでてくる肉を何度も噛みしめる。ついに飲み込み、追ってビールを飲む。こんな愉悦がこの世にあったのか。
玲を見ると、玲の顔も嶺上開花している。お互いに見つめ合い、無言のまま頷き合う。
カニを食べるときに無言になってしまう話はよく聞く。どうもカニには限らないようだ。そのままカルビをすべて食べ終わるまで、ときおり玲と頷きあいながら、無言のまま黙々と焼いては食べた。
*
肉も野菜も海老も堪能した。やはり炭火焼きというのはいいものだ。
和牛もとてもよかったが、しかし、今日は真のメインディッシュがある。
「そろそろさざえといくか」
ごくりとのどを鳴らし、玲は頷く。
「このまま七輪の上で焼けばいい」
そう言いつつ右手に軍手をつけて、ビニール袋に入ったさざえを2つ七輪に並べる。
おっと、醤油と、身を引き上げるためのつまようじが必要だ。一応、机を見返すが、この2つの品は無い。仕方ないことだ。
「玲、ごめんけど、キッチンから醤油とつまようじを持ってきてくれる?」
「ん? わかった」
僕の要請に素直に応じて、玲は玄関を開けて部屋に入る。いい子だ。
七輪の上でしだいにさざえは煮立っていく。蓋がかたかたと動き、その殻の中で身と肝が煮えているのが分かる。
ぱたぱたと音がして、玄関の扉が開く。玲は、食卓用の醤油刺しとつまようじの筒を持って出てきた。
「これでいいよね?」
「うん、それでいい。ありがとう」
「いいえいいえ。……おお、これがさざえの壺焼きか…!」
七輪の上で煮立つさざえを見て玲が感嘆する。
「これで上手く行ってると思う。もう少し焼いて、醤油を垂らせば完成だ」
「おおぉ……!!」
玲は目を輝かす。憧れの品が目の前にあるその気持ちはよく分かる。
「たぶんあと1分も焼けばいいと思う。座りな?」
「うん! いい匂いだね!」
先の海老とも違う貝類の匂い。かたかた揺れるさざえの蓋から溢れる蒸気とともに、あたりに満ちている。
「そしてここに醤油をすこしかける」
2つのさざえの口に少しずつ醤油を垂らしていく。少々わざと外して七輪にも垂らす。さざえの匂いとともに、醤油の焦げる匂いが立ち上る。
「……ほあぁ……」
玲が間抜けな顔で間抜けな声を漏らすが、気持ちは分かるので特に何も言わない。
さざえは殻の中で煮立ち、垂らした醤油を吸い込んでいく。
「よし、もういいと思う。玲、メインディッシュと行こう」
「うえっへへ、待ってました!」
心底嬉しそうな顔の玲を見て僕も嬉しくなる。でもたぶんこのあとお前は落胆する。
軍手をつけた右手でさざえを網の端に寄せる。そのうち1つを取り上げ、蓋を外し、つまようじで身を引き上げる。よく焼けていたか、肝の奥まで、にゅるんと持ち上げることができた。
「おおっ! ……おお……?」
玲が感嘆の声を上げるが、即座に不審な声に変わる。
つまようじで持ち上げたさざえは、クリーム色の身の下に、薄緑の渦巻き状の肝を付けている。
「……思ってたよりキモい……」
玲が素直な感想を述べる。そう言うと思った。まあ肝だからなと言いそうになって思い留める。
「気持ちは分かる。身の下のところは肝だな。これも食えるし美味いぞ」
「んん……」
幼いころの僕と同じ反応をしていて笑いそうになる。
「……身のところだけでいい?」
「いいよ。残ったところは僕が食べよう」
「うん」
つまようじに刺したさざえを玲に渡してやる。玲は、肝の部分をかじらないように慎重に身の部分だけをかじる。玲の顔を眺めつつ、憧れの食べ物を初めて食べる玲の気持ちを想う。目を瞑ってゆっくりと口を動かしていた玲は、ついにさざえの身を飲み込み、そして目を開いて叫ぶ。
「おいしー!! なんか……なんていうか……、貝の味なんだけど、アサリとかホタテとも違うし……、でも美味しい!! 私これすごい好き!!」
玲の素直な感嘆の声に、僕の功績などほぼないのに、多幸感で脳が痺れる。たぶんこれは、僕の人生における善行のトップ10には入るだろう。
よかった。玲が食べたいって言ったものを食べさせてあげて、それで、ちゃんと美味しいと言ってもらえた。こういう種類の幸せな気持ちってなんて言うんだろうな。
そういう思考になんとなく恥ずかしくなり、僕は努めて冷静に答える。
「玲の憧れを叶えられたならよかった。うまいだろ? さざえ」
「うん! すっごい美味しい!!」
かわいい。玲の満面の笑みがかわいすぎる。頭をぐりぐりしてやりたくなったが、腕が届かないので諦めた。
それにしても、玲が持つつまようじの先にはさざえの肝が残っている。嗜虐心というか、いじわるい気持ちが沸いてくる。
「よかった。玲が嬉しいと僕も嬉しい。で、その残ってる肝も美味いんだぜ。まあ苦みもあるし、ちょっと玲にはまだ早いかな」
そう煽ってやる。率直に反応して、玲はムッとして答える。
「ピーマンも美味しかったしなー! 私はもう子供じゃないしなー! 食えるからなー! こんなのー!」
そう言うが早いか、残った肝を一気に口に放り込む。
おっ言うほどでもないじゃんといった玲の顔が、真顔になり、なんだこれという顔になり、これ食べ物じゃないという顔になる。僕は笑い出しそうになったが、玲の尊厳のためになんとか抑えた。
「玲、無理だったら出していいから」
「うぇ……、ごめんこれ無理……」
そう言って取り皿の中にうぇぇとはきだして、即座にブドウジュースを飲む。
ジュースを飲んだあとにも苦い顔をしている。
「悪かったよ」
「悪い」
玲は、ぷいと顔をそむける。まあ煽ったけど玲が食べたんだから玲だって悪い。
「僕も食べよう」
そう呟いてから、軍手でさざえを持ち上げ、つまようじを身に刺し持ち上げると、やはり、奥の肝まで抵抗なく出てきた。殻をその辺に置く。身の味わいと肝の味わいは大きく異なるし、肝はちびちびと食べたかった。だけど、玲に見せつけてやりたい気持ちで一息にすべてを口に入れる。
いいじゃないか。もちろん、苦いのは苦いけれども、それは何ともない。そのあとからくる磯の香りとなんとない甘みが非常によい。ビールで追う。うむ、美味い。僕も大人になったようだ。
「いやー、さざえって肝もやっぱり美味しいなー」
「たっくんはクソ大人になってしまった」
「おこちゃまめ」
玲は鼻にしわを寄せて僕を見ている。
「わかったよ。悪かったよ。でも、昼にスーパーで玲が言ったように、どうも、大人になると味覚が変わるみたいだ。うそとか見栄じゃなくて、いま食べた肝も美味しかった。……実を言うと、僕も玲と同じくらいの頃にさざえの肝を食べさせられて、玲と同じように吐き出したことがある」
「あ、そうなんだ」
「まあそんなものだよ。何事も変化していく」
「ふうむ」
「残り2つも焼こうか。2つとも身は玲が食べていいよ。肝はちょうだい」
「え? それでいい?」
「いいよ」
「いつもすみませんねえ」
「いいってことですよ」
「この肝が美味しいとかちょっとキモい」
おい、それはさっき僕が言うのを留めたやつだぞ。
「なんとでも言え」
そう言いつつ、残りのさざえを七輪に置く。
「さざえって変な形だね」
玲は、脳が動作していないような感想を述べる。
「このとげとかなんなんだろうね」
僕も、脳が動作していない。
そのうち、さざえの蓋が開く。
「おお?」
玲は前のめりになってさざえを見つめる。七輪の熱を受けてしだいに貝殻の内側の水分が煮立っていく。
「うおお……」
ぐつぐつ煮え立つさざえを見て玲は驚きの声を上げる。……いいな、こういう、世の中の神秘を教える感覚というか。
さざえの味だけでなくて、この体験のすべてを玲がいつまでも覚えてくれていますように。……おっと、僕は酔ってるな。
*
玲は、かたかたと動くさざえの蓋の様子をためつすがめつ眺めていたけど、そろそろ頃合いだ。
「玲、そろそろできあがり」
「待ってました!」
「あとは醤油をたらすだけだ」
玲が持ってきてくれた醤油刺しからそれぞれのさざえに醤油を落とす。
「……んん…、やっぱいいね、この匂い」
玲は、目をつむって天を仰いでいる。でもその気持ちはわかるぜ。僕もこの匂いにつばが止まらない。
軍手をつけた手で2つのさざえを網の端に寄せる。
「熱いと思うけど、もう行くか?」
玲に問う。
「行かせていただきます」
目を輝かす玲がかわいくて、どうにも笑ってしまう。
「いいよ、行ってくれ」
3つ目のさざえを取り上げ、蓋を外してからつまようじで身を持ち上げる。
「ほら、身だけ食え」
「ありがとうございます」
玲は神妙に答えて、僕の手からつまようじを受け取る。慎重に、身と肝のぎりぎりの境界線でさざえを噛みちぎる。"食い意地が張っている"という表現の具体的な姿を見ているようだ。
「んふー、やっぱり美味しい!」
玲の表情を見ていると、やっぱり嬉しくなってしまう。よかったなあ、玲。しばらく咀嚼して身を飲み込んだのち、つまようじに残った肝を差し出してくる。
「はい、キモいの」
「やめなさい、そういう言葉遣いは」
そう言いつつ玲からつまようじを受け取り、すこしかじる。うむ、苦いは苦いがその奥に甘さがあり、磯の風味と貝特有の旨みがたまらない。ビールビール、足元に置いていた缶を取りあげて飲む。いいじゃないか。大人になるというのも悪くない。
ちらと見ると、玲はだいぶ引いた顔をしていたが無視する。
でもこのまま放置するのは悪いな。やれと言われれば10分くらいかけて残りの肝をちびちび食べられる気がしたが、残りをぜんぶ口に入れて十分に咀嚼し飲み下す。ううむ、やはり美味い。そうして玲に告げる。
「悪い、待たせた。そしてこれがラストさざえであり、ラスト七輪だ。最後も同じように玲が身だけ食べてくれればいい」
「もう終わりかー」
「一応、冷蔵庫にウインナ―とかあるから続けようと思えば続けられる」
玲は、むー、と上を見ていたが、そのうち答える。
「や、大丈夫。お腹いっぱい」
「そうだな、僕ももうお腹いっぱいだ」
「ラストさざえお願いします」
「了解です」
さっきと同じようにつまようじでさざえを殻から取り出し、玲に手渡してやる。玲は身を食べて、残った肝を僕に返す。玲から受け取った肝をかじる。
んん、そういえば、これ間接キスっぽいな。玲がかじったさざえを僕がかじり直している。
まあ特に感慨もないし、玲は玲でブドウジュースを嬉しそうにコップに開けている。
「まだあるまだいっぱいある…うへ……」とか言って、気にした様子もなさそうだ。
まあ、僕と玲ならなんでもない。考えてみると変な関係だ。
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