第4話 今晩のためのお買い物
そうして家中をうろうろしているうちに、昼を過ぎていたようだ。
インターホンが鳴る。玄関の扉を開けると玲が立っていた。この前と同じ薄ピンクのトレンチコートを着ている。
玲は、衣服等が入っていると思われる鞄を手に提げていた。僕の旅行かばんより二回りは小さくて、なんとなくそれもかわいい。
「よくきた。いらっしゃい」
「えへへ、おじゃまします」
頬を赤く染めた玲を玄関に迎え入れる。外は寒かっただろう。
玄関に置いていた七輪に気付いたようで、玲は僕に問いかける。
「これがしちりん?」
七輪という漢字は書けないだろうなと思いつつ、答える。
「そう。この中で炭を焼く。よく知らないけど、ガスが普及するまではよく使われていた道具」
へえー、と珍しげに玲は七輪を眺める。何か難しいことを行うための機器を見るような目だ。そうかも知れない。僕だって、初めて七輪を見た日はそういう目で眺めていたのだろう。この七輪の中で赤く焼けた炭を見たら、玲の目はどれほど丸くなるだろう。
ためつすがめつ七輪を眺めたあと、玲はリビングに目を向けた。僕しかいないのでリビングの電気は消していた。薄暗い居間の様子に慣れないのか、玲はきょろきょろとしている。
道具の準備も済んだし、あとは買い出しだけだ。僕は玲に声をかける。
「玲、このまま買い物に行こうか」
「うん。……えっと、あの、ほんとに今日は2人なの?」
「うん、うちの両親は温泉に行ってるし」
ふーんという顔をして無言のままの玲に声をかける。
「荷物だけここに置いてきな。買い物行こう」
「わかった」
玲の頭をぽんぽんと叩いて、僕は靴を履いた。
*
家の前に停めてある軽自動車の施錠を解除し、玲を助手席に座らせる。僕も運転席に乗り込む。シートの位置と傾きを慎重に整え、シートベルトをセットし、各種レバーの位置を確かめる。僕はほとんどペーパードライバーなのだ。
「たっくんの運転する車に乗るの、初めてだ」
「うん? そういえばそうだな」
バックミラーの位置を整えていた僕は、気もそぞろに答える。
「……デ、デートっぽいね、これ」
玲の声に、確かにな、と思いながら、ブレーキを踏み込みつつエンジンを入れる。
「向こうじゃ車ないからな。助手席に女の子乗せてドライブするのは初めてだ」
母さん以外では、と心の中でつぶやく。
発車の準備を整えて玲の顔を伺うと、なんだこいつは、妙にニヤニヤしている。
「玲だってデートなんて初めてだろ」
準備が完了した余裕をもって、僕も微笑み、からかってやる。ハッと目を丸くして、玲はうつむいてつぶやく。
「まあ……、そうだけど……」
「今日一日、玲は僕の彼女みたいなものだ」
「えっ!?」
軽く流されるかと思ったが思いのほか大きな反応にどきっとする。
「あ……、ごめん、そういうの嫌?」
「い、いや、嫌じゃないよ!!」
なんでこの子はこんなに赤くなってるんだろう。
玲の反応に、運転の緊張が加わった手汗が出てくる。手汗をズボンで拭き、僕は冷静を保とうとする。落ち着こう。落ち着かなければ事故ってしまう。
「……さて、玲ちゃん」
「……はい!」
普段はちゃん付けなんてしないからか、玲は驚いた顔で僕の方を向く。
「我々はこれから食品を買いに出る。いま、うちには、炭で焼いて美味しい食材はほぼない」
玲に顔を向けると、うん、というふうに頷くのが見えた。
「肉はもちろん買おう。肉って、炭で焼くと、フライパンとかで焼くより、ずっと美味しくなる」
玲は、ほぅ、という顔をする。
「野菜もいいぞ。炭火で焼くとだいたいなんでも美味くなる」
野菜と聞いてか、玲の顔が曇る。
「魚介類もいい。殻つきのホタテを焼いて、バターと醤油をちょっと垂らすんだ。あれは相当美味かったな」
玲も、その光景と味を想像しているのか、心なし、目元と口元がゆるんでいる。
「玲は何が食べたい?」
「あ……! じゃあ!」
玲が顔を向ける。
「さざえの壷焼きを食べてみたい!」
「いいね!」
実にいい意見だ。さざえの壷焼き。なんていい発想だろうか。
思い返すと、一度、父がさざえを買ってきたことがあった。七輪の上でぐつぐつと煮えるさざえに醤油を垂らしたときの香ばしさは今でも思い出せる。その身の部分はとても美味しかった。しかし、その先の薄緑の肝は、見た目からして、食えるものでないと幼い本能は警告した。したのだが、父に「食えるから」と無理やり食わされた。小学生の僕の舌にはさざえの肝は苦すぎて、結局、吐き出した。懐かしい思い出だ。今の僕ならさざえの肝も美味しく食べられるだろう。
「でもなんでさざえ?」
「テレビで見てから食べてみたかった」
なるほど、グルメ番組で取り上げられてもおかしくない食材だ。
「でも、高いかな、さざえって……」
正直に言って、さざえの値段なんて想像が付かなかった。どれくらいなんだろう。しかし、万札を持っている僕に恐れるものは何もない。
「大丈夫大丈夫、大学生というのはお金を持っているんだよ」
「うそ、バイトしてないんでしょ?」
風見家にはすべてが筒抜けだ。
「すみません、母さんからお金もらってます」
「もー、見栄っ張り」
「ごめんなさい」
「たっくんのばーか、たっくんはばか」
「ばかって言うな」
互いににんまりと笑い合う。やっぱり玲と過ごす時間は楽しい。
「よし行くか」
「行きましょう」
「事故らないように祈っててくれ」
「事故らないでください」
サイドブレーキを起こし、シフトレバーをドライブに入れる。ちょっと遠出にはなるけど、食材の揃っていそうなスーパーへと出発した。
*
徹底した「かも知れない運転」のおかげで無事にスーパーへとたどりついた。僕は心底から疲弊していた。
駐車場に車を止め、エンジンを切る。これ以上、勝手に車が動くことがないことを確信し、僕はほとんど喘ぐように深いため息をつく。
「……しんどかった……」
「しんどそうだった」
「おそらく並みの人間には車の運転なんて楽な仕事なんだろうよ。僕は並みじゃないんだ……」
「大丈夫だよ、運転できなくても生きていけるよ」
「でも運転できないとこのスーパー来れないじゃん」
「それは一理ある」
一瞬の沈黙を感じたが玲がすぐに戸を開けたためにうやむやになった。
*
買い物かごをカートに載せる。おお、一人の買い物だとカートなんて使わないからなあ。新鮮だ。……カートって楽だな。
先に店舗に入った玲を見やると、山積みになったトマトをつついていた。トマトの旬っていつだっけ、冬だったか? と思いつつ、玲の隣にカートをつける。
「玲、トマト好きだっけ」
「嫌い」
無碍もない。
「じゃあつつくなよ」
「感触はいいと思う」
「ちょっと分かるけどつついたやつは買っとこう」
「やだよ! 傷とかつけてないよ!」
「次からは気をつけるんだな」
「トマトとか酸っぱいだけじゃん! 栄養あるとかウソだよ!!」
128円のトマトお買い上げ。熱したトマトは酸味が抑えられることを玲に教えてやりたいが、炭火焼きでは難しいか。これは明日以降の炊事に使おう。
「おっ、玲、ピーマンあるぞ。焼くと美味いぞ」
「嫌い」
無碍もない。
「炭火で焼くとほんと美味いんだよ。甘いまである」
「大人になると味覚が衰えるって聞いた」
「その意見は尊重しつつも、でも甘いんだよ」
「たっくんはクソ大人になってしまった」
「いやいやいや、美味しいよほんと、なんかこう、知らなかった世の中の一面ってあるんだなあって思うって」
「知りたくないです」
「クソ子供め」
3つで98円お買い上げ。
ぽかぽか叩かれつつ売り場をめぐる。ちょっといじわるい気持ちになってきた。
「玲! これ! 立派! しいたけ!!」
地元の産物らしい、198円でこんなに肉厚だ。しいたけを好む幼子はまず存在しないからな。なんなら僕だってこの前まで嫌いだった。しいたけのパッケージを玲に見せつける。
「たっくん」
真顔だ。
「いーね!」
パーッと浮かべる笑顔の法則性が分からない。玲、しぶいところ突いてくるな。
*
野菜のコーナーを抜け、食肉のコーナーに入る。
「お肉ってどれがいいの?」
「ここらへんは僕に任せろ」
自炊1年目は鶏ムネと鶏モモも区別できなかった。しかし今の僕はすべて分かる。各食肉の100gあたりの適正金額が!
「今日は金に糸目をつけないからな」
玲にも気づかれぬほど小さくつぶやき、売り場を眺める。豚、鳥、牛の順で並んでいるようだ。
豚は、まあ少しあればいい。鳥も、モモが1枚あればいいだろう。牛を厳選せねばならない。しかし牛は少し怖い。豚と鶏の金額感は完全に把握しているつもりだが、牛は未知数だ。
売り場のパックを眺めていく。豚肩ロース、海外産で100g 148円。少し高いし、七輪で焼くには少し薄い。となりの豚肩ロース、国内産で100g 238円。高い。ちょうどいい厚さだが、やはり高い。
いや、今日は金に糸目をつけないと決めたはずだった、と思い直し、豚はこれでいいかと手に取ろうとするが、隣のパックが目に入る。豚トロ、国内産100gで158円。これだ! いい品を手に入れた。豚はこれだけでいいだろう。
次は鶏だが、大した選択肢はない。国内産鶏モモが100gで138円、安いとは言えないが、今日のところはまあこれでいいだろう。
パックをカートに入れたところで、目の端に何かが写る。国内産鶏やげんナンコツ! 100gで138円!値段が妥当かは分からないが、この品をスーパーで見たのは初めてだ。購入。
鶏と牛のコーナーのあいだに、焼き肉セットのようなパックがあるが無視する。そういうのは望んでいない。また、すでに味付けされたタイプの品も無視する。
そして、純正の牛のコーナーへと来る。ここからは未知の領域である。
ごくまれに、100gで150円くらいの海外産の牛バラを買うことはあるが、自炊歴4年、それ以外の牛は買ったことがない。
とりあえず、炭火焼きに適していそうなパックを眺めてみる。
和牛カルビ、焼き肉用。100g、898円……ッ!!
意味が分からない。脳が理解を拒んでいる。
いや分かる、和牛が生育される過程の大変さは何かの授業で習った。200gほどのカルビのパックを持って、僕はしばらく立ちすくむ。……まあでも、金に糸目はつけないと言ったあとだし、この肉は炭火焼きにも適した厚さだ。覚悟を決めてパックをカートに入れる。いいのかこんなことして……。
200gもあれば、玲と二人で食べるには十分か。それでもお買い得品がないか売り場を眺める。牛スジが安いなと思ったが、さすがに今回の用途には合わない。牛タンも売られていたが、どれもどうにも薄いし高い。牛についてはこのカルビでいいだろう。高い買い物だが、万札を持つ今の僕に恐れるものは何もない。
豚トロ、鳥モモ、やげんナンコツ、和牛カルビ。これだけあれば、玲との2人だと十分かな。ちょっと多いくらいかも知れない。OK、いいだろう、食肉売り場から離れる。
*
「たっくん……」
玲に声を掛けられ、ふと我に返る。
正直に言うと、玲の存在も忘れて肉を物色していた。
「……なんかこう、野犬みたいな顔してたよ」
野犬とか見たことないだろ。
「……ごめん、金に余裕を持った状態で我を忘れていた。普段は豚コマか鶏ムネしか買わないから」
「よくわかんないけど、たっくんが貧しい生活をしてることは分かった」
「……僕も、貧しい生活してたんだなって分かった」
*
そのまま鮮魚コーナーへと移る。
売り場の一角を玲がじっと眺めている。
「海老」
玲が指さす先には、5尾の生海老が入ったパックがあった。アルゼンチン産赤海老。赤く長い身が並んでいる。
「……5匹で400円。1匹80円」
玲が計算する。そして僕の方を見る。
「妥当?」
分からない。男子大学生は海老を自炊に用いない。
1尾80円、コンビニチキンは100円ちょい。……いや、チキンと比べるのはよくない。これから炭火で焼くことも考えるとその価値は段違い、……のはずだ。それに、先ほどの和牛の値段に脳みそはショートしていた。
「妥当!」
「購入!」
玲は海老の入ったパックを取りあげてカートのかごに入れる。
ああ、この海老の値段が妥当なのであれば、僕はどれだけ貧弱な食生活を送ってきたのだろう……。なんだか暗い気持ちになりながら、売り場を歩いていく玲を追ってカートを押す。
そうして見つける。
「玲、あった!」
このスーパーの品ぞろえの良さはなんとなく覚えていた。やはりあったな! 大きな発泡スチロールの脇に、"活さざえ、298円" と書いてある。 80円の海老におののいていたが、さざえなら298円でも妥当だと即思う自分の価値観がよく分からない。
「4つくらい買うか」
用意されているトングを持ち上げる。
「たっくん……」
ふと見ると、玲が怯えた顔をしている。
「トマト1個で128円だし、ピーマンは1個33円だよ……? 海老だって1匹80円だよ……?」
「玲」
僕は厳かに言う。
「気にするな」
僕は発泡スチロールから4つのさざえを取り上げ、ビニールに詰め口を閉じた。
*
「だいたいそろったかな」
酒場売り場に移動してビールを何本かカートに入れる。
ざっくりと計算して1万円は越えていないだろうと判断する。
「玲、他に欲しいものある?」
「ジュース買ってよ」
おっと、玲の飲みものの事を考えてなかった。
「すまんすまん、どれでもいいよ」
「じゃあね」
玲の案内についてカートを押していく。……清涼飲料水のコーナーを過ぎる。うん? 玲は何を望んでいるんだ? たどり着いたコーナーで、玲は、果汁100%の1Lブドウジュースを持ち上げる。
「私ブドウ好きなのに、お母さんいっつもオレンジジュース買ってくるの」
「よかろう、今夜はパーティナイトだ。好きなだけ飲め」
「やった!」
こんな158円の紙パック飲料に目を輝かせる玲に涙が出そうになるが、さっき玲に指摘されたように貧しい暮らしをしているのは僕も同じかと思うと涙は引っ込んだ。
*
それからレジで会計をして、買ったものをビニール袋に詰めていく。玲の性格上、いくらかの荷物を持つと言って憚らないのは予想できたため、玲用に軽めの袋を用意する。
「いっこ持つよ」
やっぱりだ。
「じゃあこっち頼む」
軽い方の袋を玲に頼み、かごとカートを戻してから車に戻った。
「さて、帰るか」
「無理しないでね」
「そうはいっても僕の神経に無理をかけねば運転はできない」
「……とりあえず事故らないでください」
「はい、頑張ります。申し訳ないですが、運転中はあまり声を掛けないでください」
「はい、わかりました。正直に言いますが、私はいまひやひやしています」
「申し訳ない。本当に申し訳ない。ただ事故らないことだけは保証したい」
「……どうぞ、出てください」
「はい、出発します」
玲になぐさめられて、僕はゆっくりと車を発進させる。車怖いよ……。
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