第3話 1月3日の炭火焼き

親戚周りを終えた1月2日の夜、リビングでテレビを見ながらくつろいでいると、母が話しかけてきた。


「ねえ、明日からあの温泉に行こうと思ってるんだけど、あなたも行くよね?」


「……ええ?」


普段からあまり他人の都合を考えない人ではある。せめて事前に言ってくれよ。


母の言う「あの温泉」というのは、隣の県下のそこそこ有名な温泉街のことだ。両親はこの温泉街を痛く気に入っていて、僕が物心ついたころから、年に1回は必ず訪れている。


「なんで今頃? いつも秋ごろに行ってたんじゃないの」


「今年はお父さんが忙しくて行けなかったのよ」


その温泉街は確かに悪い場所でない。両親と共にそこを訪ねるのもやぶさかではない。温泉に浸かるのも、美味い飯を食べるのも一興だ。


しかし、卒研で疲れた頭を休めるために実家に帰ってきたのだ、あの温泉街のガヤガヤした雰囲気に今は入りたくなかった。


「いや……、できれば僕はうちでのんびり過ごしたいな」


「あら、いいじゃない、あそこものんびりするには悪くない場所だし。あなただって、しばらく行ってないでしょう」


確かに、最後に行ったのは中学生の頃か? 高校に入ってからは家族旅行など着いていく気もなかった。


「まあね。でもいいよ。父さんと母さんで、夫婦水入らずでしっぽり楽しんで来なよ」


僕の言葉を受けて、母さんは吹き出した。


「しっぽりだなんて、やっぱり大学に行くと悪い言葉を覚えるのねー」


何を言っているんだこの人は。すこし気恥ずかしくなって話題を変える。


「……いや、もしかして予約とかしてた?」


「ううん、大丈夫。一応3人で予約してたけど、この時期なら空いてるって言ってたから連絡しなおしとく。それじゃ、たっくんの言うとおり、お父さんとしっぽり楽しんでこようかしら」


気まずく思ったのは僕だけのようで、母さんは朗らかに笑うと、明後日の夕方には帰ってくるからねー、と言いながら、リビングを出ていった。そして扉が開閉する音。父さんの部屋に入ったに違いない。


今この瞬間、母さんが喋っている言葉の一字一句が聞こえてくるようで、僕はテレビの電源を落とし、そそくさと自室に退散した。


*


翌朝、昼前に起きると、すでに両親は出発していたようだった。リビングのテーブルの上にメモがあった。


「明日の夕方には帰ってきます」


メモの横に、1万円が置いてあった。


「追伸。好きなものを食べて頂戴。あと車は自由に使ってください。母」


それは、ある意味、僕を1人前と見ているような簡潔さで、なんとなく嬉しくなる。1万円をありがたく財布にしまう。


*


さて、それから暇だった。


一応、ノートパソコンと、卒論の続きを書くために必要な資料は持ち帰っていたが、手をつけるのも億劫だった。


テレビを眺めるのにも飽き、もしかして、素直に両親に付いていく方が良かったのではないかと後悔した。最後に訪れたときは、旅館併設のゲーセンが最も楽しいというレベルの幼さだったが、今なら、食事や温泉を気持ちよく楽しめたのではないか。


暗く沈んだ家の中で、僕の心も暗く沈みそうになったが、あえて首を振った。何か、楽しめることはないだろうか。


そうだ、手の込んだ料理でも作ろうじゃないか。万札もある。


僕の下宿先は、恐ろしく前時代的に、電気コンロが1口あるだけだ。自炊もままならない。この家なら、ガスコンロが3口あり、オーブンレンジもある。午後いっぱい使って、たまには全力で料理するのも悪くない。


そこまで考えて、ふと思いつく。七輪で炭火焼きをするのもいいな。


僕が小学生高学年だったある年の冬、突発的に父は炭火焼きにハマった。週末になると父は七輪を持ち出し、玄関先で簡易な炭火焼きを行った。ご近所からは少し離れているこの家では、そういうことをしても特に誰に迷惑をかけることもない。


飽きっぽい父の性格上、その冬が終わって以降、七輪が日の目を見ることはなかったが、おそらく、七輪や焼き網はそのまま物置にしまわれているはずだ。


悪くない。雪景色を見ながら、ビールを飲みつつ七輪で肉や野菜を焼きたい。


気力が沸いてくる。今夜はこれで行こう。僕は行動を開始する。


まず道具を探す。玄関付近の物入れを開けてみると、果たして、七輪と焼き網はすぐに見つかった。折り畳みの椅子が数台と、同じく折り畳みの机がすぐそばにあった。ほんとに飽きっぽいんだな、半分ほど残った炭も見つかった。1つ手に取ってみるが、ビニール袋に包まれていたためか、湿気っている感触もない。このまま使えそうだ。


心を躍らせたまま冷蔵庫の中を物色する。いくらかの野菜はあるが、さすがに、焼いて美味そうな肉は無い。足りない具材は買いに出よう。幸い、車を使うことができる。


しかし、待て。すこし寂しくはないか。


基本的に僕は1人で何かをするのは嫌いではない。しかし、正月の夜、雪景色あいてに1人で肉を焼くのも何か悲しいものがある。今の時期なら高校の頃の友人も地元に戻っているだろうけど、さすがに、正月のこのタイミングで呼び出すのは気が引ける。


やっぱやめようかな……、と思ったところで、玲の顔が思い浮かんだ。ああ、玲とひとみさんを呼ぼうか。それも悪くない。


しかし、やはりあちらはあちらで親戚まわりとかしているだろう。僕はしばらく悩んだが、とりあえずひとみさんに電話してみることにした。


*


2コールほどですぐに電話が取られる。


「もしもし、たっくん?」


「はい、明けましておめでとうございます」


「こちらこそ、明けましておめでとうございます」


「それでなんですけど、ちょっとお誘いがあって」


「おっ、なにかな」


「えっとですね、うちの両親、今日の晩いないんですけど、よかったら、玲と一緒にうちで炭火焼きしませんか? 七輪があるんです」


「あーいいね!」


期待できる感触だ。


「だけど、たっくん、ごめんなさい。私たち、うちの実家に帰って一晩泊まる予定なの」


「あっ、そうですか……」


我ながら情けない声をしていたと思う。


「でも待って、そのお誘い、玲だけでもいいかな?」


「え? 玲も同行するんじゃないんですか?」


「まあたっくんだから言うけど、うち複雑でしょう?」


「ええ、まあ何となく聞いてますけど……」


詳しくは知らないけど、母子家庭だし、離婚の際に色々と揉めたことは、何となく聞いている。


「あんまりあっちには玲を連れていきたくてなくてね。あいつら、私だけに言えばいいのに、玲にも嫌味言ってくるのよね」


静かな声だが奥底の怒気が伝わってくる。


「……おっと、ごめん、今のは忘れといて」


「……いろいろは察しました」


「それで、玲は連れていきたくないんだけど、1人で家に置いとくのもなあ、って思ってたの。だから、たっくんに玲を預けてもいいかな」


「いいですよ。僕も玲とゆっくり話したかったし」


そこでふと気付く。


「ってことは、玲はそのままうちに泊めるってことですよね?」


「うん、たっくんさえよければ」


……玲は妹のようなものだが、年頃の女の子と一つ屋根の下で一晩過ごしていいのだろうか。


「……うちの両親いないのって、さっき言いましたよね?」


「あっはは、わかってるって、そのあたりは気にしてない。たっくんにとって玲なんて妹みたいなものなんでしょ?」


「まあそうです」


「いいよ、たっくんが変なことしないのは分かってるから」


「しないですよ」


「うん、ごめんね、一晩、玲を預かってくれるかな」


「わかりました。そういうことならぜんぜん構いません」


「ありがとー。玲に代わろうか?」


「あ、お願いします」


電話の音が遠ざかり、ひとみさんが玲を呼ぶ声が聞こえる。内容までは聞きとれないが、事情を説明しているようだ。


ほどなくスマホが持ち替えられる音が聞こえる。


「もしもし、たっくん?」


「玲か。あけおめ」


「あっ、あけおめ」


「ひとみさんから聞いたと思うけど、今晩、うちに泊まりにおいで」


「うん! 行く!!」


「玄関先で焼き肉するから楽しみにしておけ」


「……お外で焼き肉するの?」


「七輪って道具を使うとできるんだよ。これで焼いた肉はとても美味いから覚悟しておけ」


「……わかった、覚悟しておきます」


「車で買い出しにも行こうと思ってるけど、一緒に行く? それなら昼過ぎにうちに来てくれるといいんだけど」


「いくいく! そっか、たっくん、車運転できるんだ」


「あんまり上手くないけどね。じゃあ昼過ぎな」


「うん! ……お母さんと代わる?」


「あ、うん、ちょっと代わって」


ばたばたした音が聞こえて、そのうちスマホから声が聞こえてくる。


「もしもし、たっくん」


「はい、玲とも話しました。昼頃に来てくれって伝えました」


「おっけー、ちょうどいいや。ほんと、ありがとね。お礼は弾むよ」


「いいですよ、そんなそんな」


「いやいや、ありがたいありがたい……。あ、一応、私の方から彩月さんには連絡しとくね」


「わかりました。ありがとう」


「それじゃあ、玲をよろしくね」


「はい、炭火焼きの美味さを玲に教えてやります」


ふふ、と笑う声が聞こえる。


「それからね」


「はい?」


「玲はたっくんのこと大好きみたいだから、むしろ注意してね」


「えっ」


「ではよろしく」


そこで通話は切れた。


*


何だか妙なことになってしまった。玲が来るのは何も問題ない。しかし、うちに泊めることになるとは。


まあ、玲が小さいころにはうちに泊まりに来ることも珍しくなかった。……いま思うと、それはつまり、ひとみさんが「複雑なこと」に巻き込まれていたからか。当時は全く気付かなかった。


ともあれ、よかろう。玲と炭火焼きをした後は、玲を風呂に入れ、並んで寝るだけのことだ。高校生だったころには何度となく行ったことだ。


ひとみさんの「むしろ注意してね」という言葉が引っかかったが、とりあえず忘れることにした。


僕は、道具の準備を進め、もう一度 冷蔵庫をあさったりする。やっぱウインナ―くらいしかないな。客用の布団ってあったかなと思い、押し入れを確かめる。ある、OK。どんとこい、玲。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る