戻ってくるべきではなかった?(後)
これだけ長く異世界で過ごしていても、あったことがない事、やったことがない事というのは意外と多くある。もし致死的なものであっても、死んだところでまた“リスポーン”するだけなのだから、恐れずにやってみれば良い……と、それは分かっていても、意外と本能が無意識のうちに避けてしまうことはあるものだ。
例えば湖や池に入ったとして、どこまで深く潜れるか。
例えば得体のしれないアイテムがあったとして、それを使ったらどうなるか。
例えば“人型”に噛まれたとして、自分の身に一体何が起きるか。
けれど――試したことがないことにはじめて遭う時は、いつだって予想外のことが起きる。それがこんなイカれた異世界なら、なおさらだ。
―――
み、み、み。
噛まれた脇腹の痕は痛みを放ち、周囲の肌を急速に腐らせつつ、やがて悪臭を放ちはじめていく。
長い旅路の中で“人型”には何度となく襲われた。元住人と思しき人間の成れ果てだ。奴らは、生存者であるこちらを見るなり噛みついたり引っ掻いてこようとしてきたが、しかし幸いにしてこれまで一度も傷を付けられることはなかった。行動パターンが単純かつ動きが鈍かったからだ。だがそれはつまり“噛まれるとどうなるのか”を理解していなかったという意味でもある。
みぃ。みぃ。
いま俺の前にいるのは、その“人型”をさらに醜くした異形のバケモノ達だ。四肢がグチャグチャに取り付けられたような見た目をもつ、不愉快に歪んだクリーチャー。この咬傷の汚染は奴らの攻撃そのものがもつ特性なのか、それともこんな異形になってはじめて発現した特性なのか。
ともかく“迂闊に攻撃を食らうべきではない”というのは己が身に染みてよく分かった。これからはより慎重に行動しなければならないだろう。
――これから、があればの話だが。
傷を庇いつつ、襲い来るバケモノ達を手斧で倒し、俺は路地の奥へと逃げ込む。奴らはどこに行っても追いかけてくる。まるでこちらの位置を本能で嗅ぎつけているかのように。そして噛まれた傷もまた、収まるどころかさらに拡大していく。傷口の痛みとは別に、次第に身体中がゆっくりと痺れるような感覚がやってくる。
この窮地において、俺の脳ミソはある仮説を導いた。奴らはどうして俺を襲ってくるのか。いや、襲ってくるというのはあくまでこちらの見方だ。奴らはどいつもこいつも子猫が鳴くような声を出しながら俺に噛みつこうとしてきた。敵意を感じる声ではない。まるで唯一の生存者である俺を仲間に加えようとしているかのように――。
導かれた仮説はまた、最悪の予想を叩きつけてくる。
まさか。俺も“人型”にされつつある? この傷が原因で?
汚染。あるいは感染と言い換えたほうが適切か。傷口の腐食はいよいよ範囲を広げ、背中や腹までもが青紫に染まりだしていた。さらに大元である傷口の付近は青紫からさらに変色し、乾いた土気色になりだしている。そして俺はこの傷が放つ悪臭におぼえがある。土と腐肉が混じったような……いつか“監察”と称して一匹を軟禁していたあの部屋で嗅いだことのある匂い。
仮説が確信に変わりつつある。
明確に動く脳ミソに反して、俺の全身は次第に痺れを増していく。もう手斧を振ることどころか、まともに歩くことすらできない。荒い息を整えながら、俺は壁に手をつけつつさらに路地奥まで逃げていく。ここであのバケモノ達に追いつかれたら終わりだ。
というか、もうほとんど詰んでいる。
―――
猛烈に目の奥が痒くなる。手斧を持たないほうの指でごしごしと擦ると、指の先は血で真っ赤に染まっていた。
―――
傷口を切除できないかと、すっかり朽ちかけつつあった脇腹の傷に手斧を叩きつけてみた。切れ味の鋭いナイフならまだしも、鈍い“なまくら”の斧の刃は、傷口を無残に潰すのがせいぜいだった。いくら叩きつけても、そこに痛みは無かった。
―――
みー。みみみ。
仮説から導かれた確信は、次の展開を容易に想像させる。そうぞう。そうぞうそうぞう。
もももし俺の身体がこのまま“人型”に変化してしまったらどうなる? なる?
一番問題なのは、これが明確な死であるかどうかだ。奴らは既に死んでいると言えるのか、あるいは“死んでいない”だけなのか。もし後者だとすれば、それは俺にとって最悪の展開だ。なにしろ死んでいない。いなーい。死んでいないからリスポーンもできない。やり直しのきかないまままま俺は“人型”になーるー。
ううー。ううう。あはは。感染のスピードが速い。既に頭までまわりはじめたか。そのみをもってかんじる。ておくててて手遅れになる前に決着けっちゃくを付けなければならない。
いくらリスポーンができると言っても無闇な自害はするまいと決めた。俺のなかにいる“俺”の存在を自覚したときからそう決めていたたた。俺の身体はあはははは俺の持ち物ではない。あくまで借りているだけだ。だから余計なことはするまいと思っていた。
けれど。こうなってしまったからには仕方がない。
俺は右手に持っていた手斧を壁につけ、その鈍い刃先を手前に向ける。一気に振り抜く力など残っていないから、そうするしかない。そのまま左手を壁につけ、身体を離す。ううー。はなすうー。はなしちゃだめー。
今回はだいぶ長く生き延びられた。色々な経験をしたし、得るものもあった。だからこそ惜しいと思えた。特に、世話になったゴーレムに新しい身体を作ってやれなかったのは心残りだ。
俺はここに戻ってくるべきではなかったのか。迂闊なことをしなければもう少し生きていられたか。まあ、何を考えても後の祭りだ。起こってしまったことは変わらない。
とりあえず手遅れになる前に一度死ぬ。話はそれからだ。
壁にもたれかかるように倒れ込む。固定した手斧の刃先がちょうどよく首筋に刺さる。
痛みはなかった。咬傷から広がった感染は痛覚を麻痺させるらしい。鈍い刃先に切りつけられた首から、やけに粘つく赤黒い血液が垂れた。
やがて全身が痙攣しはじめた。身体から急速に力が抜け、口いっぱいを血の味が満たす。
感染が広がって“人型”になるのが先か。無事に失血死できるのが先か。よたよたと不規則に動きながら、俺の身体は路地奥の“壁と壁の間”に倒れ込む。関節という関節が外れた感覚があり、四肢があり得ない方向にねじれる。けれど、俺はもうそれを正しい向きに戻すこともできない。
―――
そして異変は起きた。
倒れ込んだはずの壁に“当たり判定”はなかった。空に放り出されたような開放感。続いて全身が異常なほど引き延ばされるような感覚。痛みはないが、それは“何も感じない”からこそ奇妙だった。
何が起こったのかを理解する間もなく――やがて音も消え、血の味も消え、匂いも消え、視界もブラックアウトし――俺の五感は全て停止した。
『生命活動の停止を確認』
『PERK:Undyingを発動。Respawnを実行します
実行します
再試行しています
実行します
再試行しています
『有効な座標の獲得に失敗しました』
『■■■■■■■■■に失敗しました』
失敗しました
失敗しました
失敗しました
すべて失敗しました
―――
本日の探索結果:発見済住人、なし。
―――
『yd:a■』
気付いた時にはそこにいた。
幾度となく繰り返してきたリスポーンの中で、それはこれまでに感じたことがないほど不愉快な目覚めだった。
はじめに、俺は私は自分の身体を見る。脇腹の咬傷は既になく、あるのは細く括れた腹、つるりと白い少女の肌のみ。どうやらあのバケモノどもの仲間になる前に無事に死ねたらしい。まずは安心――と言いたいところだが、ああ、さっきから頭痛が酷い。二日酔い(とは?)から覚めた後のような不快感がずっとつきまとっている。
そしてもう一つ。
目覚めた場所がどうにもおかしい。
そこはどこかの室内だった。これまでも室内でリスポーンすることは何度かあったが、どこにも窓がない。風の音も鳥の声もなく、ただブーンと耳障りな低周波音だけが耳にまとわりついている。おまけに、ここは湿った布のような匂いがする。
俺はこの場所に見覚えがある。
(私はこんな場所に見覚えなんてない)
薄黄色の壁。薄黄色の床。薄黄色の照明。
一歩を踏み出してみる。裸の足裏が床を踏みしめる。固くも柔らかくもない不思議な感触に包まれる。
一歩。また一歩。死ぬ間際に感じた脱力感は既になく、俺の身体は思い通りに動く。バケモノになることもなく、俺の身体は間違いなく私のものに戻っていた。
出口はないかと探す。壁はくっきりと区切られていて、迷路のように入り組んでいる。左折、右折、左折、左折。広い部屋に出る。通路を見つけて入る。右折。右折。左折。また広い部屋に出る。ここがさっきと同じ部屋なのか違う部屋なのか、それすらも分からない。のっぺりとした壁は目印の一つもなく、歩き回るほどに方向感覚が狂っていく。迷った時はヘタに歩き回らないほうがいいのかもしれない。分かっていても、この足は勝手に動いていく。
頭痛が酷い。後頭部の奥に鉛を詰め込まれたかのような不快感がある。
耐えきれないほどの眼窩痛に、私は思わず目を擦る。出血はない。その代わりに、視界の隅におかしなノイズが入りはじめた。
歩けば歩くほど、ノイズは強くなっていく。
(俺はこの場所を知っている)
(この場所に出口はない)
わかっていても、私は歩く。
呼吸が荒くなっていく。進めば進むほどに空気が薄くなっていくのが分かった。
急に不安になり、私は踵を返して元の道を戻りはじめる。けれど元の道はまったく違う構造になっていて、どれだけ戻っても進んでもこの苦しさが快復することはない。
視界の強いノイズはそのうちに視界の上半分を覆うようになり、俺は俯いて薄目で下を見ながら歩くことにした。薄黄色に染まった風景は気味が悪く、なるべく見たくないと思ったのも理由の一つである。それに……何処に行こうと同じなのなら、もはや前を向こうと下を向こうと変わらないだろう。
―――
やがて俺の視界の隅に、小さな一対の足が見えた。
それはどうやら、目の前に立ち塞がっているようだった。
俺はゆっくりと首を上げ、その姿を見つめる。
薄黄色の照明に照らされ、次第に影が晴れていく。と同時に、視界のノイズ混じりで曖昧だったシルエットが、次第にはっきりとヒトの形を作っていく。
それがヒトであると、俺は認識する。
だから聞いてみた。声は出なかったが、俺は口を動かして問うた。
(お前は誰だ?)
―――
目の前に立っていたのは――私だった。
―――
呼吸が止まる。息を吸い込むことも吐くこともできなくなる。
私の意識はまた、そこで途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます