おかしいな。
『a■:yd』
ふかふかのベッドの上で、私は目を覚ます。
窓からは陽光が差し込んでいて、部屋全体が柔らかな温かさに満ちている。このままいつまでも眠っていたくなる心地良さ、起きるのが勿体ないほどの安堵感。こんな目覚めはいつくらいぶりだろう。
でも。一度目を覚ましてしまったからには、起きなくちゃいけない。
身体を起こす。寝相が良くなかったのか、いつの間にか着ていたらしい水色の可愛らしいパジャマがはだけていた。覚束ない指先でそれを直しながら、私は周りを見渡す。パジャマの色とお揃いの壁紙に彩られた一人用の小さな部屋は、ベッド以外に家具らしい家具もなく殺風景といえば殺風景。それでも窓があるだけ寒々しい印象はない。
窓の外には木々と草原。見たことがあるようなないような、牧歌的な風景。
ベッドから出ると、自分が裸足のままなことに気がついた。何か履くものはないだろうかと探すと、起毛のついた白いスリッパがあった。片っぽだけ。もう一方はないかとベッドの下まで覗き込んでみたけれど、結局見つからなかった。仕方ないので右足だけ履く。
部屋にはドアが一つあった。この向こうにはきっと家族がいる。何故だか分からないけれど、そう感じた。お母さんとお父さん、それから妹。おはよう、と挨拶すれば、みんな笑顔でおはよう、と返してくれる。朝食は柔らかい白パンとジャムとサラダ。いつもの日常。何も変わらない朝。
出る前に、寝癖を整えなくちゃ、と思って姿見を探したけれど、部屋のどこにもなかった。仕方ないので手櫛で整える。ふとした拍子に髪の一本が抜ける。指の隙間に絡まった髪の毛の一本は、血のように真っ赤な赤色。
おかしいな。
私の髪は、こんな色だっけ。
―――
部屋を出ようとした。でもドアが開かなかった。ドアノブもまわらない。押しても引いても横にしても開かない。
そのうちに、それはドアではなく単なる壁(にドアノブがついたもの)であることに気がついた。これはドアじゃない。だとすると、私はいったいこの部屋にどこから入ってきたのだろう。にわかに不安になり、水色の壁に手をついて探す。すると、ドアではなくその横の壁に異変があった。そこだけが手を触れられない。手を触れようとすると、壁の向こうに腕がすり抜けてしまう。
たぶん、ここに身体を入れれば部屋からは出られる。でも――この壁の向こうにきっと家族はいない。何故だか分からないけれど、そう感じた。すると突然、この部屋から出るのが怖くなった。
この部屋にいる限り、私を脅かすものは何もない。他の誰も入ることなく、安らかに過ごしていられる。見せかけのドアはきっとその象徴だ。暗に、ずっとここにいようよ、と言われている気がする。それでもいいかもしれない。もう一度ベッドに潜り込んで目を瞑れば、私は“元に戻れる”かもしれない。そうすればドアも開いて、家族にも会える。いつも通りの日常が戻ってくる。ああ、私はきっと、まだ夢の中にいるのだ。
でも、きっとこれは夢じゃないんだろう。そんなことはわかっている。わかっているからこそ、少しくらいは目を背けたかった。
これは夢じゃない。かといって現実でもない。
じゃあ何?
―――
壁の向こうには何も無かった。おはよう、と迎えてくれる家族も、温かい朝食も。壁をすり抜けた先は部屋の外。私が目覚めた場所は、木々と草原の間にぽつんと一件だけ建った建物だった。凝った屋根も外壁もなく、あるのは窓が一つだけ。壁紙と同じ水色をした、無機質な四角形の建物。たったそれだけの。
片方だけのスリッパを履いたまま、私は外に出て歩く。あの水色の四角い家を除けば、一見、特に何がおかしいわけでもない世界。けれどここには生物がいる気配がない。私の他に誰もいない。人間も、鳥も、動物も……それでも、吹く風や空、土の匂い……そういうものだけには懐かしさがあった。こんな風景には見覚えがないのに、漂う空気だけはどこか懐かしい。例えようのない感覚が私の中をぐるぐると回っている。
あてどもなく歩く。草や土を踏みしめる裸足の裏には痛みも不快感もない。身体は軽く、空腹感も疲労感もない。何処まででも歩いて行けそうなほどに体力は満ちている。何処まででも。何処まででも。このまま歩いて行けば、もしかしたら誰かと会えるんじゃないか。そう思いながら歩く。
けれど、その思いはすぐに打ち破られる。
ほんの少し歩いた先に、世界の終わりが見えた。まるで“ここから先は何も無い”と言わんばかりに、見えない一定の線があって、それを境に草木や道路がすべて消えていた。けれど地面だけは広がっていた。のっぺりと、薄く緑のカーペットを引いたような地平だけが。地平線が見えるほどに、何もない無機質な草原が。
おそるおそる一歩を踏み出してみる。土とも床とも違う不思議な感触が足の裏に伝わってくる。固くも柔らかくもなく、冷たくも熱くも、湿っても乾いてもいない。決して歩きづらくはない。だからこそ余計に不気味だった。この“緑のカーペット”は一体何でできているのか。私はすぐに足を引っ込めた。
ああ、ここから先には本当に何もないんだろうな、と私は思った。
どれだけ歩いても、ここからは“ずっと”このままなんだと。
私は引き返し、記憶を頼りに元いた家まで戻る。
家は、既に消失していた。
―――
木々の間に岩があった。
けれどその岩は、まるで紫のペンキを塗りたくったような異様な色をしていた。
ひときわ大きな大木があった。
けれどその木の“うろ”を覗き込むと、そこからは逆さまの空が見えた。
あるところにはベリーの実った木が生えていた。
けれどその木は、宙に浮いていた。
そんな感じで、この世界はあちこちが“抜けて”いた。
いつか見た悪夢を思い出す。あれは“世界の裏側”から、逆さまの空に落ちていく夢だった。二度と見たくない夢。でもきっと、ここはその続きだ。夢でも現実でもない場所。そこに私は迷い込んでいる。ここには家族もいない。安堵に包まれた家もない。だから――早くここから抜け出さなくちゃいけない。
沈んだ気持ちとは対照的に身体は軽い。
いくらでも歩ける。何処まででも行ける。
でも、何処へ?
目指す場所はない。世界が世界として成り立っているのは、いま私が立っている場所(元はあの四角い建物があった場所だ)を中心としたわずかな距離だけ。
ここから何処に行けばいいのか。
あてがあるとすれば――。
―――
『dyyayyd:■』
世界が世界として彩られた世界。その境界線を越え、緑のカーペットが広がる地平へ進み出してから、いったいどれくらいの時間が経っただろう。ここは昼夜もないから、時間の感覚さえ失っている。
元いた場所はすでに遙か後方に過ぎていた。きっと後戻りはできないだろう。私の周りには四方八方、文字通りに“何もない”世界が広がっている。
何処までいっても何もないとわかっていて、私はどうして歩いているのか。きっと何かがあるはず。その微かな予感だけを頼りに歩いている。
ちゃんとまっすぐ進んでいるのかどうかさえ怪しいのに。
―――
『aayy:■ddaa』
―――
『■:addy』
―――
もうなにもわからない。どれだけ歩いたのかもわからない。何処を歩いているのかもわからない。疲労感はない。達成感もない。何の感覚もない。ただ緑のカーペットだけが一面に広がっている。考えることを止めたまま、この足は半ば自動的に無間地獄のような地平を歩き続けている。
一生このままなのだろうか。
わずかに取り戻した正気が、頭の隅でそんなことを呟く。
やがて――地平の向こうに、何かが見えた。
何もないはずの場所に、何かがある。
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