何かが、何もかも。
『day:■』
目覚めてからまず感じたのは浮遊感だった。
落ち続けている。私は落ち続けている。
得体の知れない重力に縛られ、下へ、下へと。
生まれたての赤ん坊のように姿勢をかがめると、私の身体は落下したままくるりと一回転した。そうして上へと視線を向ける。そこには世界の裏側があった。平野や山、森といった地形は輪郭を残しつつも反転して私の頭上にあり、それらはどんどん遠ざかりはじめている。
私は地面の下にいる。そこにはまた空が広がっていて、私は下に向かって落ちている。言葉にすると意味不明だけれど、そうとしか言いようがなかった。それはとても奇妙な光景だった。一体どこまで落ちるのだろう。“地面の下の空”には終わりが見えない。落ちた先に地面はない。そうやって考えている間にも、私はどこまでも、どこまでも落ち続けている。
どうしてこんな。
せっかく、私の身体が私のものになったのに。
頭上の“世界”はすっかり小さくなって、まるで箱庭みたいな大きさになっている。もうどれくらい落ち続けているだろう。時間が経つにつれ、だんだんと呼吸が苦しくなってくる。空気が薄くなって、意識も遠のいてくる。
意識があるうちに全身をばたつかせる。まるで空で溺れているみたいだけれど、私は少しでもこの身体の“感覚”を取り戻しておきたかった。
この身体は私のものだ。誰のものでもない。
その証拠に、私は私の意思でもって動かすことが出来る。
自分が誰かも思い出せない。でも、この身体は間違いなく私のものだ。
だけど。だけど私はまだ落ち続けている。やがて抗いがたいほどの強烈な眠気が襲い、目を開けていることさえできなくなる。それでも私は全身を動かす。一分一秒でも、その感覚を自分に刻むために。
私は。私は。
私が、私であるうちに。
ああ。
……。
―――
『アバターの不正を検知しました。再起動します』
―――
『day:1』
目覚めると、はじめに感じたのは土の臭いだった。
俺の身体は横向きの姿勢になったまま、赤土の地面に半分埋まっていたのだ。すぐに呼吸が難しくなり、俺は手足をばたつかせて脱出を試みた。幸いにしてその赤土は柔らかく、俺は呼吸困難で“また”死んでしまう前に抜け出すことができた。危うく最短生存時間を更新してしまうところだった。
さて、というわけで俺はまた死んだ。そしてリスポーンした。
リスポーンしてからの手順もだいぶ慣れたものだ。はじめに体調確認、それから水の確保と、そこまで終わったら現状の把握と物資探し。目覚めてからの数時間が勝負。飢餓と水不足が続くと身体がほとんど動かなくなり、物資の再確保も困難になるからだ。
体調確認。喉の渇きと空腹感以外は問題なし。手持ちの物資もなし。全部ロスト。食料も衣類も武器も道具も(それから煙草も)まだまだあったはずなのに勿体ない。ああ勿体ない。これがあるからリスポーンはとにかく面倒くさい。時間は無限にあるとはいえ、またモノを集めるというのは手間だし運も絡む。だから、出来るだけ死ぬのを避けていた……はずだったのだが。
だいたい、あの青い光はなんだったのか。
これまでも不注意の死や怪物との遭遇、あるいは自死によって死んだことはあったが、さすがにあれは避けられない。まあ、考えていても仕方がない。不条理な死というやつだ。また食らったらどうしようかとも思ったが、今はそれを警戒するよりも先にやることがある。
―――
『day:4』
この数日間の詳細を説明するのは省く。あまりにも地味だし面白くもないからだ。
結論から言えば、今回は運が良かった。目覚めたところの側には例によって廃村があり、生きている井戸もあった。食料も(もちろん、あの缶詰だ)いくらか残っていた。
ところが、ここで特筆すべきことがある。まともな衣服がないのだ。廃屋のタンスや衣装棚は徹底的に漁った。普段ならここで粗末な布製の服か、運が良ければ防寒性に優れた外套やローブの一つでも見つけているところだったが、それがまったくなかった。
で、今、俺がどんな格好をしているかというと――メイド服を着ているのである。
そう、先ほど“まともな”衣服がないと言ったのはそういうことだ。まともでない衣服ならあった。ある廃屋の衣装タンスを漁ったところ、これ見よがしにフルセットで一着だけ置いてあったのだ。今にも朽ち果て崩れそうな廃屋の家具とは対照的に、それはほとんど清潔な新品で、埃一つもついていなかった。この“異世界”の異常性について今さら疑念に思うことなど無くなってしまっていた自分も、さすがにこれには辟易した。ふざけているのか。それが素直な感想である。
お前はこれを着ろ、と言われているとしか思えなかった。メイド服(なぜ俺がそれをメイド服だと認識出来ているかは不明だが)とはいっても、それはいたるところが雑にデフォルメされていて、ほとんど娼婦が着るような紛い物だ。防寒性能なし。外傷からの保護性能もなし。ついでに下着もなし。それでも素っ裸よりはマシだ。これしかないのであればこれを着るしかない。俺は無理やり自分を納得させてそれに袖を通すことにした。
身体のあちこちがスースーする。こんな姿になったのを見て、誰かがバカにしているようだ……と被害妄想の一つでもしたくなる。
そして、たぶんそれはただの妄想などではない。
そんな確証がある。
―――
『day:7』
数日歩いて見つけた次の集落では、また別の衣類を見つけた。今度は円錐形をした葉笠である。他にかぶるものもないので、俺はメイド服のカチューシャを捨てて葉笠をかぶった。
ついでに武器も見つけた。竹槍である。周囲に竹など生えていない(今回リスポーンした場所は、どちらかといえば赤土だらけの荒涼な土地だ)のに、それを使えといわんばかりに落ちていた。不自然な場所に武器が落ちているのも今に始まったことではない。砂漠の真ん中にぽつんとナイフが落ちていたのも、廃屋の中に新品の直剣が置かれているのも、もちろん不自然ではある。だがこれは何だ。何故こんなところに竹槍があるのか。だが他に武器になるようなものもないので、俺はそれを拾って使うことにした。たぶんこれも上手く使えるだろう。
少々歪ではあるが当面の衣食は整った。腹が減ってきたので食事にする。竹槍の柄で缶詰のフチを突いて無理やり開封する。中身の豆スープが少々零れたが、構わずに食う。食器などないので、井戸水で手を洗い、手づかみで食う。薄い塩味。相変わらず味気ないが栄養はあるだろう。ここにいるのは、メイド服に葉笠を被った姿であぐらをかき、缶詰を貪る女。何が歪だというなら、自分の姿こそ充分に歪だ。
こんな見た目の世界なら、せめて“それらしく”粗雑な布製の衣服だの革を加工した上着だの、そういうものがあって然るべきだ。“そこにあっても違和感のないもの”があるべきだろうと思っていたし、今まではそうだった(あの缶詰さえ除けば)。
ところが今回は何かがおかしい。より正確に言い換えるならば……まるでこの世界がその“おかしさ”を隠そうとしなくなったかのようだ。
元々いた世界とは違う、どこか別の世界。
記憶は失っていたが、そんな違和感があったからこそ、俺はここを“異世界”と呼んでいた。
だがここにきてその名称は別の意味を持ち始めた。
何かが、何もかも異常な世界。
だからここは“異世界”なのではないかと。
―――
『day:9』
二日ほど街道沿いを歩く。
途中で馬車の残骸を見つけたので、先日のアイディアに基づき、幌を使って雨具代わりの外套を作成する。布を裂く刃物はちょうど馬車の中で見つけた。武器にはなりそうにないが、工作をするのにはちょうどいい折刃式の小型クラフトナイフ。何故こんな世界にこんなものが、という疑問は一度置いておいて、有り難く使わせてもらう。小型ナイフでの作業はだいぶ骨が折れたが、半日ほど格闘してようやく作成した。何事もやればできるものである。
現在の装備……メイド服、葉笠、馬車幌の外套、竹槍。
それからさらに半日経ったところでまた雨が降ってきた。さっそく幌の外套は役に立ったようで、かぶっていた葉笠も相まって充分に効果を発揮してくれた。そして雨は数時間ほどで止んだ。
―――
『day:11』
街道沿いに大きな町を見つける。
いつぞや見つけた交易都市とは比べものにならないが、それでも廃村よりは立派な町である。大きな町には物資も集まる(それが自然なものか不自然なものかはともかく)。だが物資が多いなら危険も多い。持ち物に不便をしていないならリスクを加味してスルーするところだが、あいにくここ数日の旅で食料は尽きかけてしまっている。それに“まとも”な衣服も欲しい。
というわけで、充分に警戒しながら捜索、および略奪を開始する。
交易都市のように秩序だてて建っているわけではなく、単純に人が集まって出来た町のようだ。街道に沿って家屋が並び、いくらかの脇道があり、またその奥に建物がある。いわば宿場町といったところだろうか。大通りの真ん中を進むのをやめ、姿を潜めるように歩く。泥棒にでもなった気分だ。実際、やっていることは泥棒なのだが――いくら人の気配がないといっても“人型”や小鬼といった怪物がいるおそれもある。無用なトラブルは避けるに越したことはない。
宿屋か食事処か、街道沿いには粗末な木造家屋だけでなく二階建てで立派な石造りの家もあった。経験上、こういったところに物資は集まる。先客がいないか気配を殺しながら侵入する。
誰もいない。まだ荒らされていないようだ。だが、そこでまた俺はおかしな点に気付く。家の中がおかしい。まあ“おかしい”のは当然のこととして、具体的に何がおかしいかというと――家具がないのである。これまで見てきた廃屋は、少なからず廃屋としての在り方を保っていた。朽ち果てた椅子やテーブルがあり、そこには埃が積もっていて、木の床も腐っていた。壁には隙間があき、黴びて湿気った空気に満ちていた。
ここにはそれがない。まったく何も無いのだ。真四角の間取りに沿っただけの、がらんどうの大部屋だけがある。
不思議に思い、一度出る。そして別の建物に入ってみる。そこは朽ちた家具があり、饐えた空気に満ちていて、いつも通りの廃屋だった。もう一度先ほどの家に入り直す。やはりここだけが“何も無い”。
いや。
ある。
部屋の隅に、山積みにされた物資があった。
ただ積まれているだけではない。積まれ方と中身が異常だった。まるで部屋ごと斜めに傾けられて隅に集まったように、あらゆるものがひとまとめになっていた。缶詰が三つ。フリルのついた下着がワンセット。握り拳大の石が八個。陶器製の真新しいカップが一つ(これは既に割れていた)。竹箒が二つ。ピンク色の――おそらく鳥のササミが五枚。黒く艶光りする革製のジャケットが一着。女児を模した人形が三体。正体不明の、金属製の空箱が四つ(表面に何か描いてあるが、まったく読めなかった。かろうじて数字のようなものが……7.……62?)。その他色々。
物資がたくさんある! と素直に喜ぶことなどできるはずもない。それはあまりにも異常な光景だった。山積みになったそれらに手を伸ばすこともできず、俺はしばらく空っぽの大部屋の前で立ち尽くしていた。物資を略奪したところで咎める者などいない。だが、何故か……山積みになったこれらに手を触れるとまずい……そんな気がしたのだ。
とはいえ物資は貴重だ。役に立たないガラクタはともかく衣類や食料は確保しておきたい。そうして手を付けるべきかどうか――迷っているうちに、事態はさらに変化する。
家の外の大通りに、何かが動く気配があった。
―――
本日の探索結果:発見済住人、なし?(これより確認に入る)。
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