人間では、ない。
『day:1』
仰向けの状態で目が覚めた。いつものように喉の渇きが来て、それから次に感じたのは寒さだった。目の前には赤い月と青い月があり、歪なオッドアイの双眸がこちらを睨んでいる。
倒れていたのはどこかの草原の真ん中だった。行けども行けども……というわけではなく、付近には森があって、おまけに軽く舗装された道らしきものもある。川や池もどこかにあるだろう。今回目を覚ましたところはそれなりに“マトモ”な場所らしい。
……この時点で確信したことが一つある。
それは“場所こそ変われど、身体はこの異世界のどこかに飛ばされている”ということだ。世界ごと変わったのではない。相変わらず頭上には赤い月と青い月がある。同じ世界の中のどこか、ということで間違いは無いだろう。もっとも、この場所が、これまで飛ばされたあの森や砂丘からどれだけ離れているのかは調べようもないが。
当然のごとく自分の身体は素っ裸で、あの砂丘の真ん中で俺の首を掻ききったナイフももう手元になかった。死んだら持ち物は全部無くなる、というわけだ。
首元を触ってみる。傷跡があるような感触はない。相変わらずこの身体は誰かも知らない形をしているし、左手甲には金属球が埋まっている。外見上は同じだ。他は分からない。血の一滴も、内臓も、髪の毛一本も、果たして“さっきまで”の自分と同じものなのか、あるいはそっくりな別のものなのか?
それでもハッキリしていることはある。
俺の意識はまだ、俺という連続性をもって続いている。
―――
夜半過ぎ。
出現地点から歩きだし、道を辿り、ほどなくして村を見つける。一度やったことなら二度目は早い。井戸から水を飲み(そう、湧き水が出る井戸があった!)無人の家に侵入し、服と食料を漁る。缶詰を見つけ、食える分だけ食う。手早く、手当たり次第に略奪をする。夜目が効く身体なのか、暗い中でも何となく見えるし、動けてしまう。
見つけた村は前回よりも小さな規模だったが、やはりここも“突然人々が消えてしまった”ように不自然な痕跡を残していた。もちろん最初は、ここなら人がいるのではないか、という考えもあった。けれど、やはりその息づかいは感じられなかった。
そもそも何もかもが不自然なのだ。人がすっぽりと消えたことも、こんなに都合良く物資が残っていることも、都合良く食い物があることも。疑問は残る。しかし疑問を抱いたまま立ち止まったところで物事は進展しない。立っているだけでも腹は減る。空腹を堪えたところで死にはしないが、動くのには苦労する。だから略奪する。獣のように。少なくともここに人はいない。おそらく、戻ってくることもないだろう。
あるいは、あの水晶がないかとも探してみた。理由も原理も不明だが、あれはかつての住人達の言葉を残す録音機のようなものらしい。彼らの言葉を知ったところで何ができるわけでもないが、行き先がわかればやがて辿り着くこともできるかもしれない。
前回の水晶から読み取れた単語は数少ない。約束の日。虚空の門。もっと見つければ、何か分かるだろうか。
けれど。
そうして謎を解き、晴れて人と会ったところでどうなる? 何者かも分からないまま、言葉一つもマトモに発することもできない、ただの略奪者か獣のような自分が? 人間らしく挨拶をして、コミュニティに入り、この世界で穏やかな生活を望むか?
疑問は尽きない。自問自答も尽きない。
だがそうしたところで状況は進まない。
だから、今はそれを一度忘れ去っておく。
結局、その村に水晶は見つからなかった。無いよりマシ程度の衣服、踵の潰れた草履のような履き物、それから食料……だが、侵入した家の中に、水晶と同じくらい興味深いものがあった。
壁にかけられた、背丈ほどもある細長い板。
布に覆われてはいたが、端からのぞく反射面を見て確信する。
それは鏡だった。全身が映るような、いわゆる姿見というものだ。
―――
着いてからずっと捜索をしていたからか、いつの間にか日が昇り出している。どんな世界であっても夜が来て、そして朝が来る。窓からは朝日が差し込み、空き家の部屋に差し込んでいる。陽に照らされて、埃がきらきらと舞っている。
念のため、外へと続く扉を閉めて木製の簡素なカギを掛ける。誰か来るかもしれないから……というよりは、またあの大熊のようなバケモノに襲われるのを防ぐためだ。衣服をすべて脱ぎ、生まれたまま(文字通りの!)の姿になる。姿見の前に立ち、布を取り去る。それは自分自身との対面であった。たったそれだけのことに対してわざわざ仰々しい“儀式”のようにしてしまうのが、なぜだか自分でも可笑しく思える。
――見る。
姿見に映る自分は、まるで自分ではないようだ。それでも間違いなくそれは俺自身の身体で、自分が腕を動かせば、それに応じて姿見の女も腕を動かす。余分な肉のない(だが栄養失調と呼ぶには健康的な赤みがあった)細身の肉体。成長期にあることを主張する膨らみかけの乳房。桃色のつんと張った乳首、毛も生えていない、つるりとした人形のような肌。……そう、人形だ。“それ”は自分自身の意思によって動かせる人形のようにも思えた。これが本当に“つくりもの”なのだとすれば、むしろそちらのほうが腑に落ちる。
右掌で乳房を触り、ぐっと力を込める。強い痛みがあった。例え“つくりもの”だったとしても、そこにあるのは生身の肉。くびれたこの腹の中にも、赤くどろどろとした血と内臓が詰まっている。何故分かるかといえば――もちろん、俺はその中身を自分自身で確認したからだ。
この身体は獣の爪によって真っ二つにされたことがある。
そして、首筋から赤い血を吹き出して死んでもいる。
だがそれを示す傷跡はやはりどこにもない。
続いて顔を見る。まだあどけなさの残る、頬面のすらりとした、十代後半から二十代はじめくらいの女。少女、といってもいいだろう。黒目がちな瞳はこちらをじっと見つめており、眉根を寄せると向こうも同じようにした。そのうちに俺の意思とは関係なく動き始めるのではないか? という錯覚にすらとらわれていく。それくらい自分自身の顔であることに実感がない。
さらに面白いのは髪だった。視線の隅にうつる前髪からして薄々気付いてはいたが、この女の長い髪は燃えるような赤色をしていた。その赤は、どこかで見たことのある色だった。
姿見の前で手をかざしてみる。俺の左掌と女の左掌がぴたりと重なる。
そこでようやく赤色の正体に気付く。ややオレンジがかった、深みのある赤。それはこの掌に埋め込まれた金属球が発する色であり、空にうかぶあの赤い月の色でもある。
お前は誰だ? と言いたかった。
そうすれば、鏡の中のそいつは答えてくれるのではないか? と思った。
もちろん声は出なかった。
手近にあった麻紐で、長く赤い髪を縛る。
俺自身が取る一挙一動が、姿見の向こうで繰り返される。
朝日に照らされた少女の顔は、驚くほど無表情だった。
―――
俺の意識は俺のものであり、二度死んでも続いている。
俺の身体は俺のものであり、二度死んでも元通りになっている。
それでも実感はない。姿見に映る自分の身体を見ても――いや、“見てしまった”からこそ余計に――実感がわいてこない。
姿見に布をかけ、再び衣服を身に着ける。これでドレスのひとつでも瀟洒に着こなせばそれなりに器量の良い娘にも見えるだろう(自分自身の身体なのに、ここでもまるで他人ごとのようだ)が、今あるのはひどい見た目の布服の上下だけ。もっとも、ドレスがあったとしても見せる相手などいないが。
麻紐でくくった簡易ベルトにナイフを差し込む。同じく、麻袋と縄で作った簡素な背嚢にできる限り役立ちそうなモノ(缶詰、紐など)を詰め、背負って外に出る。これで“獣よりまだマシな程度の知性と見た目をした人間モドキ”の完成だ。
この村でこれ以上の収穫は見込めない。だから、ひとまずの身支度を終えた俺は早々とここを出ることにした。道は村を抜けてさらに先まで続いている。人が作った道だというなら、さらに進めばまた何かの“痕跡”が見つかるだろう。山や森、砂丘を進むよりはよほど可能性がある。
誰もいない村の真ん中で俺はふと立ち止まり、後ろを見返す。ここで暮らしていた人々は何を生業としていたのか。ここで暮らしていた人々の中には、ここから一度も出ずに人生を終える者もいたのだろうか。もちろん、答えてくれる人間などいない。生き延びるアテが出てくれば、余計な考えや感傷に浸る時間も出てくる。
物資を漁るだけの略奪者が、知性のある“何か”に進化しつつある。何度目かも分からない無意味な自嘲をしてから、俺は考えるのを止めて歩き出す。
―――
目の前に、人影があった。
村を突っ切る道の、その真ん中に、一人。
―――
それは確かに人間に見えた。
しかし結論から言えば“彼女”との会話はできなかった。
お互いに理由はある。俺は声を出すことができない。出そうとしても、う、う、と唸るだけだ。そして同じく“彼女”も声を出すことができなかった。よたよたと覚束ない動きで歩きながら、う、う、と唸るだけ。
いつの間に現れたのだろう。あの場所は先ほどから何度も確認した。今まではいなかったはずだ。それが何故……いや、この状況には見覚えがある。外に出た瞬間、音もなく“どこからか湧いて出てきた”としか思えないもの。俺の身体を真っ二つにしたあの大熊もそうだった。思えばあまりにも不自然である。
とはいえ今はそれを考えている場合ではない。何しろ、俺が向こうに気付いているように、向こうも俺に気付いているからだ。お互いの距離は20mほど。年の頃は俺(の身体)と同じくらい。いかにも村娘といった地味な服装に身を包んでいる。生気の無い瞳が、俺をぼうっと見つめる。
ようやくこの世界で人間を見つけた……と言いたいところ、だが……あれは。
う、う。
うう、うう、う、あ。
あ、ああ、あ、あああああ。
―――
あっという間の出来事だ。“彼女”は獣のような唸り声と共に、こちらへと走ってきた。まともな走り方ではない、身体のバランスを崩した、今にも転びそうなほど前屈みの体勢で猛然と近寄ってくる。少なくとも友好的ではない。そう判断した俺は腰に吊したナイフを取り出し、軽く腰を落としたスタンスで切っ先を向ける。扱い方など習ったこともないが、ナイフを手にしただけでこの身体は勝手に動いたのだ。
切っ先に怯えることもなく“彼女”は走ってくる。10m、5m、3m。やがて至近距離。防御など考えない捨て身の強襲。相手はあの大熊ではない。ただの人型だ。向こうに敵意があるというならばこちらも反撃をするだけ。そう思った――が。
確かに理性は失っているように見える。けれども“彼女”が人間のような獣なのか、それとも本当に理性を失っただけの人間なのか、それが分からなかった。言葉は通じなくとも意思疎通が出来るのではないか。この距離でようやく確認できた“彼女”は、少なくともマトモな状態ではない。生気の無い瞳、血色の悪い肌。それでも“人間ではない”という保証はない。至近距離で掴みかかられる直前でさえ、俺は一瞬の躊躇をしてしまった。
人間では、ない。
本当に?
それが命運を分けた。振り下ろされた腕は俺の手元からナイフを弾き飛ばし、豪快なハグでもするように全体重を預けてきた。俺達はもつれるように倒れ込む。ああああああ、がああああ、と言葉にならない奇声を発しながら、“彼女”は俺に噛みつこうとする。口の中には乱杭歯のようにボロボロの歯があり、例えようもない腐臭を放っている。そして力が強い。抵抗しようとしてもままならない。“彼女”は俺のことを襲おうとしている。それはもはや明らかだ。
空いているほうの腕を必死にばたつかせる。何かが爪に当たる。大きめの石。俺はそれを掴み“彼女”の口に突っ込む。ごきん、と嫌な手応えがして歯が砕け散る。口の中に石を入れられた“彼女”は声にならない声を発して悶絶する。その隙に俺は拘束から抜け出す。叩き落とされたナイフを拾い、身体を転げさせながら距離を取る。お互いの身体はもう砂まみれだ。
まだ殺していない。これが獣だったら戸惑いなど無かった。だが相手は――女だ。口に石を入れられたまま“彼女”は立ち上がり、今度は腕を振り回しながらこちらに襲ってくる。逃げられるか。このまま逃げたとして“彼女”はどこまで追ってくるか。まだ戸惑いがある。俺の心の中に、そんなものがある。そうこうしているうちに再び二人の距離が詰まる。突き飛ばして倒せるか。殺さないまま――殺さないまま――。
身体が勝手に動いた。
俺は振り下ろされる腕を払いのけ、姿勢を低く沈め“彼女”の首筋に向かってナイフを――。
ぶつ、と薄皮を引き裂く音。
切っ先が骨に当たる手応え。
華奢な“彼女”の細く柔な首筋に、鈍色のナイフが深々と突き刺さっていく。
う。ああああ。ああ。
あ、あ、あああーーーー。
あ。
―――
数刻後。
井戸の前で、俺は手を洗っていた。
顔や手の“それ”は洗えば落ちる。
だが布服にも背嚢にも、まんべんなくそれは付着している。
いくら洗ったところでシミは残る。
そして俺が為した事実もまた残っている。
あれは人間ではなかった。俺は自分にそう言い聞かせた。それでも――少なくとも、あの“人型”の首筋からは赤い血が吹き出した。俺の首と同じように、そこには血管があったのだ。
全身に浴びた返り血をようやく洗いきる。シミだけはどうしようもないが、今さら代わりの衣服を探す気力もない。今になってようやくどっと疲れが押し寄せてきて、俺はふらつく足取りで井戸を後にする。ここにきて、俺の身体は得体の知れない倦怠感に包まれていた。相変わらず眠気はない。だが今は少しでも身体を横たえたい。そんな気分になっている。
先ほど去ったばかりの、あの姿見のある家に逆戻りする。あの部屋には確か粗末なベッドがあった。またいつあの“人型”が来るともわからないのでカギは掛けておく。扉を突破されて襲われたらどうしようもないが――まあ、その時はその時だ。
埃まみれの、ほとんど床と変わりないようなベッドに身体を横たえる。
眠いわけではないが、目を閉じる。
眠いわけではないが、意識が少しずつ朦朧としてくる。
―――
――姿見に掛けられていた布が、ひとりでにはらりと落ちる。
――姿見にはあの赤い髪の少女が立っていた。
――彼女は裸で、血塗れで、血色の悪い肌をしていた。
――彼女は生気の無い瞳でこちらを睨んでいた。
――小さな口元が動き、何か呟いている。
俺はそれを聞き取ることができない。
―――
朦朧としていた意識がふと覚醒し、身体を起こす。
部屋の隅には、布に覆われたままの姿見があった。
―――
本日の探索結果:発見済住人、なし(“彼女”を人とカウントしないならば)。
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