死んだほうがマシ。


 死んだほうがマシ、という言葉が脳ミソの中を巡る。


 そう思っていた記憶がある。その時の俺は、それからどうするつもりだったのか。ただこんな人生など早々に終わらせてしまいたかったのか、あるいは――死んだ後に、何かが変わるとでも思っていたのか。


―――


『day:1』


 砂浜の上で目を覚ます。


 はじめに来たのは耐えがたい喉の渇きだった。白砂を掴みながら起き上がり、本能の赴くままにふらふらと歩く。ああ、水だ。まずは水。水。みず。


 掌ですくい、無我夢中ですする。

 猛烈な塩気が口腔内を襲い、たまらずに俺は海水を吐き出した。

 口の中に入っていた砂混じりの海水が、びたびたと足元にこぼれ落ちる。


―――


 ここはどこだ。


―――


 一度体験して驚いたことも、二度ともなればすんなり受け入れるようになる。

 慣れとはそういうものだ。


 だから脳ミソのリブートと現状認識も手早く済んだ。

 目覚めたのはどこかの砂浜で、当然のように俺は全裸だった。身体の“つくり”も変わっていなかった。つまり、このどこの誰とも知らない女の身体のままである。


 喉の渇きに続いて感じたのは暑さだった。陽光が、砂まみれの身体に容赦なく照りつけている。立っているだけでも体力を奪われそうな環境だ。水分補給を諦め、仕方なく俺は周りを見渡す。

 周りには何もなかった。片側には海。片側には砂浜。そこから陸に向けては延々と白砂一面の世界。砂丘、というやつだろう。“先ほど”まで俺がいた森も村も、少なくともここから観測可能な範囲には存在しない。そして――俺を殺した、あの熊のようなバケモノの姿も。


 そう……つい先ほど、俺はあのバケモノの手にかかって死んだはずなのである。

 森で目覚め、村を見つけ、食料を蓄え、これからまた移動を開始しようとしていた刹那、突然出てきた“大熊”に身体を両断されて死んだ。

 死ねばそこまで、と言いたいところだが、どっこい俺は生きている。実際はそうとも言い切れないし――あるいは死後の夢の中、などという可能性もなくはないのだが――少なくとも“生きている”と感じたから、生きているのだろう。死後の夢でまでこんな渇きと暑さに苛まれ続けるなど、冗談ではない。生き返った。とりあえずそういうことにしておく。

 とはいえ、その場でまた起き上がれたというわけではない。そこまで都合の良い展開はない。俺が目覚めたのはまったく知らない場所だった。あるいはまた別の世界という可能性もあり得る。それを判断するには材料が足りない。

 まあ、どういう状況にしても、ここで突っ立っていても何も始まらない。何しろこんなところにまた全裸で投げ出されたのだ。水もなければ衣服もない。このままでは長く持たない。海風に吹かれたまま干上がり、若い女の干物ができあがってしまうだけだ。森の害獣の次は干物(候補)である。


 早く移動しなければなるまい。

 まずは陸地に向かい、水と食料を手に入れ、もう一度体勢を整えるとする。


 再び“生き延びる”ために。


―――


 だが甘かった。

 認識の甘さを後悔するのは、それからいくらもかからなかった。


 何もない。とにかく周りには何もない。砂浜は果てもなく地平線の向こうまで続いているし、陸地に向かっても砂丘があるだけ。カンカン照りの青空と白砂の砂丘のツートンが、視界の隅から隅まで広がっている。緑、というものが存在しない。盛り上がった砂の上まで行けば何か分かるかも知れない……そんな希望を抱きながら、焼けた白砂を素足で踏みしめながら登る……が、そこにはまた一面の砂がパノラマのように広がるだけだった。

 足の裏はとっくに火傷をしていて、歩かずともヒリヒリと強く痛む。喉の渇き、暑さ、痛み。俺の身体ではないこの身体が、全身から悲鳴を発している。乾いた口の中には砂が入ってきて、痛みに歯噛みをするたびジャリジャリと不快な音がした。


 ともあれ登ってきてしまったからには降りるしかない。そう思ってもう一度辺りを見渡すと――視界の先に、陽光を反射してきらりと光る何かが見えた。

 こんな砂丘のど真ん中に落ちているものなどたかが知れている。そう思いつつも、あるいはそれが缶詰か何かである可能性も捨てきれない(何しろ、あれは“都合の良い”アイテムなのだ)。一縷の望みをかけ、渾身の力を絞ってその“何か”の元へと向かう。


 果たしてそれは缶詰ではなく……落ちていたのは、一本の大振りなナイフだった。

 刃こぼれはしているが切れ味はそれなりにありそうだ。これなら動物に襲いかかられても何とか応戦できるだろう(あの“大熊”を屠るのは無理そうだが)。


 ――しかし今必要なのはそれではない。

 何故こんなものが、よりによってこんなところに落ちているのか。


―――


 目覚めてからどれくらいの時間が経っただろうか。おそらく数時間。半日くらいは経っていたようにも感じたが、実際はそれほども過ぎていないだろう。

 全裸にナイフ一本、という出で立ちの俺は、やはりあてどもなく砂丘を歩き続けていた。いくつ丘を越えても、砂丘は地平線の先までまだ続いている。ナイフを見つけた時点で海まで戻ればよかったか。そうすれば、何か流れ着いたものを探して解体できるかもしれない。いや、それよりも先に必要なのは水だ。目覚めてから真水の一滴すら飲んでいない。


 引くも進むもままならぬまま、俺は砂丘の真ん中に立ちすくむ。

 そして、そこで俺はまたしてもこの身体の異常性に直面することになる。

 渇きと暑さで衰弱し、陽光と焼けた砂でローストされてなお、この身体は“動くことができる”のだ。普通ならばとっくに気を失って倒れている状況でも、歩こうと思えば歩くことができる。だから……限界を迎えたままひたすら歩けば、あるいは水と食料のある場所に辿り着くことができるかもしれない。


 だが、それはいつだ?

 傾きはじめた日の眩しさに目を細めながら、俺は絶望感を味わっていた。身体中が悲鳴を上げていても、気絶すらできない。このまま歩き続けてなお何も無ければ、俺は生きた干物としてこの砂丘の真ん中で延々と苦痛を味わうハメになるだろう。

 それに――やがて日が落ちれば夜がやってくる。夜になれば暑さが反転し、気温は一気に下がる。それをしのぐための衣服も今はない。その昼夜の繰り返しを、ひたすら浴びることになる。

 まるで死後の世界……地獄のような場所で、それでも俺は生きている。

 生き続けられている。それはあまりにも残酷な状況であった。


―――


 ならば、死んだほうがマシかもしれない。


―――


 そんなことを考えた。


 それは狂気に墜ちたわけでもなく、あくまで打算的な思考の末に導かれた結論だ。こんな状況でさえ、俺の脳ミソは干からびることなく元気に動いていた。そして俺の手には、それを成し遂げられる唯一のアイテムがある。その刃は暮れ始めた日を反射し、薄いオレンジ色に輝いている。


 死ねばまたどこかで生き返る。どこかでやり直せる。

 常人の思考ではない。だが俺は一度それを体験している。

 一度あることは二度もある。本当にそうか。その保証はあるのか。

 ナイフを握りしめる。刃こぼれをしていても、その切っ先は充分に鋭利だ。


 死。死ぬ? 俺が。また?


―――


 ……また?


―――


 砂丘の真ん中で膝をつく。熱せられた砂が、小さな両膝頭を灼く。

 細い指先を絡ませ、両手でナイフの柄を握る。切っ先を見つめ、それから空を見上げるように頭を上げ、喉を露わにする。

 ナイフの切っ先を喉に向ける。一滴も出ないはずの唾液が口から溢れ出す。ごくん、とそれを飲み込む。後は握った両手を喉に向けるだけだ。それだけでこの砂まみれの地獄から抜け出すことができる……死によって。


―――


 死んだほうがマシ。

 あのときの俺も、そう思っていた。


 あのとき? それはいつだ?


―――


 どうして、自分で?


―――


 心臓の鼓動が早くなっていく。両手をスイと押しつけるだけ。たったそれだけの動作なのに、まったく動かない。本能が死を拒否している。息をするのも忘れて、俺はただ空を見上げ続ける。陽の光を直視しても、なおその瞼は閉じることがない。

 ふと思い出したのは“先ほど”の自分の死だった。大熊に身体を両断された時に感じた痛み、熱さ、そして意識を失う間際に感じた明確な恐怖。死は恐ろしい。痛くて暑くて寒く、そして苦しい。あんなものは一度感じれば充分だ。けれど――そうだとして、この先どうする? あのときの俺も、最後は死を恐れたのではなかったか?


 どれくらいそうして硬直していただろうか。固まっていた両指がするりと緩み、俺の身体はまた自由に動かすことができるようになった。その瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解け、身体中から汗が噴き出した。忘れていたはず呼吸を再開し、俺は荒く息を吐く。


 ダメだ。止めよう。そう考えた。どんなに衰弱状態にあっても、どんなに干物寸前になっていても、本当に“死なない”というのであれば“生き延びる”ことが重要だ。黒く澱んだ思考が汗と共に流れていく。まるで祈りの姿勢のようについていた膝を持ち上げ、立ち上がる。


 ――足が滑る。ナイフの切っ先が、首の右側を横切る。


 あ、という声が出た。

 それは単なる呻き声ではなく、自発的に出た声だった。


 がくん、と身体から力が抜けた。両手を砂に付けて、四つん這いのような姿勢になる。視線の先が、空から地面へとうつる。白砂の上に、た、たたた、と赤いものが数滴垂れる。

 ――それは汗などではなかった。血の気が引く。引いた血の気は首の側から、たた、たたた、と滴る。咄嗟にナイフを放し、右掌で首筋を押さえる。ぬるり、という手触りがあった。落ち着いたはずの呼吸が、再び荒くなっていく。心臓がばくばくと脈打ち、その脈に合わせてポンプのように右掌から血が吹き出ていく。


 立ち上がり、砂丘を歩く。こんな状況においてさえ、何故か俺の思考は“前に進め”という命令を下した。歩くたびに、裸足の足跡と、そして血の跡が点々と残っていく。どれだけ衰弱していても明瞭だった視界が、次第にぼやけていく。


 手が滑った。こんなはずではなかったのに。

 俺はこんな結果を望んでいたわけではない。

 とりあえずは生き伸びよう。そう決めたはずだ。なのに。


 砂丘の真ん中で、俺はまるで幽鬼のようにふらふらと歩く。

 俺の口から(文字通りに)乾いた笑いが漏れた。


 あは、あはは。


 言葉にならない笑いが、口から漏れる。右首筋からは、なおも血が漏れる。

 俺は笑えるのか。一体何がおかしくて笑えたのか。

 こんな状況で。いや、こんな状況だからこそ?


―――


 あは。あは。あはは。


 また死ぬの?


―――


 砂丘の下り坂にさしかかり、足がもつれる。

 俺の身体は転倒し、そのまま坂を転げ落ちる。


 死ぬのなんて一度で充分だ。そう思っていたのに。


 意識が薄れていく。いやだ。こんな砂丘の真ん中で死ぬなんて。

 意識が薄れていく。しめた。これでもう一度やり直せる。


 生と死の境で、理性と本能が混濁する。

 それでも――失った血と命は、もう元には戻らない。それが本来の自然の摂理。


 口からも血が漏れた。笑いと共に、血が漏れた。





 そしてまた死が訪れた。





















『生命活動の停止を確認』

『PERK:Undyingを発動。Respawnを実行』


―――


 本日の探索結果:発見済住人、なし。

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