第二十二話

「それでね、今日こんな事があったの!」

「まぁ、そうなの?」


 私は一階から聞こえてくる楽しそうな話し声で目を覚ました。置き時計を見ると、十六時を回っている。どうやら薬の影響で今まで眠ってしまったらしい。


「うぅん……頭も痛くないって事は熱はだいぶ下がったみたいね」


 私はベッドからゆっくりと起き上がって、グッと伸びをすると、衣服が汗で張り付いているのが分かった。服を指先で摘んでパタパタと風を送ると、自分の匂いに混じって汗の香りがしたような気がした。


「誰か来てるみたいだけど、さすがに先にお風呂に入りたいわね……」


 汗まみれで気持ち悪いと思った私は、ベッドから降り、クローゼットの中に仕舞っている衣装ケースを漁って、替えのパジャマと下着を取り出した。


 音を立てないように自分の部屋から出ると、話し声が先程よりも鮮明に聞こえてくる。聞いたことのある明るい女の子の声と、楽しそうに話すママの声がした。


「この声は……ママとミラ? あれ? ジェイクは?」


 耳を澄ませてみるが、ジェイクの声は聞こえてこなかったので、ちょっと残念だな……と思いながら、私は彼女達の会話を盗み聞きし始めた。


 聞こえてくるのは、「もう、ミラちゃんったら〜♡」という照れたような話し声に対し、「もうっ、ステラママ可愛い♡」という他愛のない掛け合いが途切れる事なく聞こえてきた。どうやら、ガールズトークとやらで盛り上がってるらしい。


「やっぱり、ジェイクは来てくれてないか」


 私は少しシュン……としながら、短く溜息を吐いた。リビングに顔を出してから、お風呂に入ろうと階段を降りようとした――その時だった。


「それでそれで!? ステラに泳ぎを教えてくれたのが隣にいるジェイク君なの?」

「そうなのよ、おばさん! 昨日、私とステラとジェイクの三人で水泳の練習をしてたんだから!」


 ミラの言葉を聞いた私は、ドキンと心臓が跳ねた。だらんと元気のなかった尻尾も彼の声を聞いた途端、真っ直ぐにピンと伸びる。


(ジェ……ジェイク、初めからいたの!? もしかして、ミラと一緒に来てくれたの? ていうか、昨日の水泳の件はミラが口裏合わせてくれたのね)


 ホッ……と一安心したのも束の間、私は自分の格好を見て慌て始めた。


「ど、どうしよう。こんな格好で下に降りちゃったら、ジェイクになんて思われるかな」


 いつもの自分なら、病人だから髪の毛はぐしゃぐしゃだし、パジャマ姿のままでも恥ずかしくもないと思うはずだった。けれど、今日はジェイクがお見舞いに来てくれているだけで、こんなにも心臓が煩くなってしまう。


(ど、どどど……どうしよう! 今から私服に着替える? あぁっ! でも、汗まみれだから先にお風呂に入りたい! でもでも、下に行ったら、お風呂に入ろうとするのがバレちゃうじゃない! でもでもでも、このまま何も言わずに素通りするのもおかしいだろうし! だからといって、こんな格好で下に行くのは恥ずかしすぎるっ!)


 これだけテンパってしまうと、なんだか急に自分が汗臭いような気がしてきた。


(どうしよう! 私、臭くないかな!?)


 そう思いながら、階段の踊り場でパジャマを摘んだ。鼻を突っ込んで、自分の匂いを嗅ぐ事に夢中になっていると、リビングの扉が開く音と男性特有の低い声が聞こえてきた。


「すみません、お手洗い借ります」

「はーい! 右に行ったら階段があるんだけど、階段のすぐ側にある小窓がついてる扉がトイレだよ!」

「物知りだな、クローヴィス」

「えへへ! そりゃあ、小さい頃から遊びに来てますから!」

「了解。それじゃあ、お借りします」


 扉を静かに閉める音と、ジェイクの足音がどんどんこちらに聞こえてきた。そのせいで、先程よりも自分の心臓が煩くなってしまう。


(やだ、どうしようっ! お見舞いに来てくれてるんだったら、挨拶しに下に行かなきゃいけないし! でも、こんな格好だし……んんぅぅ〜〜)


 少しだけ後ずさると、フローリングが小さく軋む音が聞こえた。すると階段の下から、「……ステラ?」と私の名前を呼ぶ声が聞こえてきたので、私は肩を小さく震わせる。


「お、おはよう。ジェイク……」


 結局、階段の踊り場で挙動不審になっているところを見られてしまった。パジャマ姿で髪もぐしゃぐしゃ。だらしない格好をジェイクに見られてしまい、私は頭が真っ白になった。


(なんてことなの。よりによって、ジェイクにパジャマ姿を見られてしまったわ……)


 別にジェイクに悪い事してるわけじゃないのに、こんな格好のせいかとても恥ずかしく感じてしまい、「ごめんなさい……」と何故か弱々しく謝っていた。


 すると、ジェイクは階段を登りながら、「謝るのはこっちの方だ」と少し悲しそうな顔に変わったのだった。


「ごめん、ステラ。俺がもう少し、ステラの体力を考えるべきだった。そしたら、風邪をひかなかったかもしれない」

「ううん、もう大した事ないから気にしないで! ほら、熱も下がったんだよ!」


 そう言って、私はジェイクの手を自分の額に持っていく。彼は少しだけ眉根を寄せながら、「まだ熱があるぞ」と言った。


「ステラの部屋は?」

「え? 階段を上がってすぐの部屋よ」


 私が指をさした扉を見たジェイクは、「ふーん」と言った後、階段を素早く登って私の手を取った。


「ちょっと。私、今からお風呂に――」

「風呂なんて後にして、もう少し寝とけよ」

「うぅ〜〜、でも汗臭いんだもん」

「元から良い匂いだから、大丈夫だ」

「な、なによそれ! ヘッ……クシュン!」


 ほら、言わんこっちゃない……とジェイクは眉を下げ、私の肩に手を添えてきた。そして、扉を開けて部屋に入ってゆっくり休むようにと促してきたのである。


「明日は学校に来れそうか?」

「うん、このまま熱が下がったらきっと大丈夫!」

「そっか。ちゃんと寝て早く治してくれよ? じゃないと、毎日お見舞いに来るからな。じゃあ、クローヴィスを待たせてるから、もう行くよ。差し入れでチュールトンホテルのマタタビティーとマタタビケーキを持ってきたから、食べれそうだったら食べてくれ」


 私の頭を優しく撫で、ジェイクはその場から去ろうとした。彼の大きな背中を見て、何故だか分からないが、私は寂しくなってしまい、気が付けば制服のシャツを軽く引っ張っていた。


「ステラ?」

「あ、えっと……その……」


 ジェイクと目が合わせられないまま、顔がボワワ……と真っ赤に染まる。尻尾が忙しなく揺れ、口がパクパクと勝手に動いてしまう。


(あぁ、私の馬鹿。下にママとミラがいるから、ジェイクに帰らないでって言えるわけないじゃん。何か気の利いた言葉を言いなさいよ、ステラ!)


 私は視線を上げると、ジェイクの顔が近付いてきた。「ステラ」と愛おしそうに名前を呼ばれると、ジェイクは私の頬に手を添えながら、唇が触れるだけのキスをしてきた。


(あ、マタタビティーの味がする……)


 そう思いながら、されるがまま夢中でキスをした。触れるだけのキスから、次第に熱くて深いキスに変わっていく。熱い舌を差し込まれて、吸われて、歯列をなぞられて。少し唇を離してはまた角度を変えて、ジェイクとキスをするを夢中になって繰り返していた。


「悪い。このままだと襲っちゃいそうだから、続きはまた今度な」

「うん……」


 ジェイクはそれだけ言うと、私に背を向けて階段を降りていった。トイレに入る音が聞こえ、水を流す音が聞こえてくる。


 恐らく、これ以上キスをしてしまったら我慢が効かないと判断したのだろう。それが分かった私は顔を手で覆い隠し、自分の部屋の前でへたり込んでしまった。


「もう、ジェイクの馬鹿。好き……」


 あぁ、早く明日になって欲しい。ジェイクに会いたい。会いたい、会いたい、会いたい。今までこんなにも学校が待ち遠しいと思った事なんてあっただろうか?


「私……本当にジェイクの事が好きなんだなぁ……」 


 私はギュッと目を瞑る。明日から彼の顔をどんな風に見つめたら良いのか、分からなくなってしまった。

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