第四話

 数学の授業が終わった直後、「どうしたの、ステラ? どこか体調が悪いの?」とミラに心配されてしまったが、「なんでもない! いつも通りだから平気よ!」と私は無理やり笑って誤魔化した。


(ジェイクの奴! なんで私にあんなちょっかいをかけてくるのよ!)


 そう思いながら、隣の席にいるジェイクを睨み付けてやる。問題の転校生は黒いスミャホを片手に音楽を聞いる最中だった。


(なによ、目を瞑って自分だけ余裕ぶっちゃって! 真剣にムカついてる私が馬鹿みたいにじゃない!)


 ジェイクの余裕そうな表情がまた腹立つ。けれど、今日という日を乗り越えれば、いつも通りの明日がやってくるのだ。だから、頑張って乗り越えよう!


◇◇◇


 そして、時間はあっという間に過ぎて放課後――。


(うぅ、お腹が空いてきた……。秋の空に浮かぶ鰯雲いわしぐもが美味しそうに見えるし、窓から差し込むオレンジ色の夕日がとても眩しい。あーーん、いつもなら家に着いてる時刻なのにぃぃ!)


 私一人でジェイクを案内するのは気が引けた為、ミラを誘うと、「ごめん! 今日はピアノの練習があるんだ!」と手を合わせて断られてしまった。


 そういえばそうだった。今月末にミラはピアノのコンクールを控えていると教えてもらったではないか。


(くっ……なんたる失態なのかしら! ミラから「絶対に見に来てね!」と誘われていたじゃない! あぁん……私のバカバカバカ〜〜! こうなったのも転校生が来たせいよ! も〜〜、ムファサ先生ったら、いつも勝手に決めるんだからッ!)


 チラッと私の後ろに控える転校生のジェイクを睨みつけてやると、彼はポケットに手を突っ込みながら気怠るそうに、オレンジと黒の縞々の尻尾をゆらゆらと揺らした。


「さっきからブツブツと一人で何言ってるんだ?」

「……なんでもないわよ。ほら、さっさと行くわよ!」


 転校生を置き去りにして短い足でズンズンと前へと進む私と、その後をゆったりとした歩幅で進む転校生のジェイク。


「おい、見ろよ。世界最小のクロアシ族と今日転校してきた世界最大のアムール族だぞ」

「激レアじゃん。つーか、身長差ありすぎじゃね?」


 確かに、その光景は周りから見れば異様な光景だった。世界最小といわれるクロアシ族の女の子と、世界最大といわれるアムール族の男の子が並んで歩く姿なんてそうそう見る事がない……というより、皆無に近い奇跡のような光景だった。


(うぅ〜〜、皆こっち見てる。見せ物じゃないんだからこっち見ないでよッ!)


 私は不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らした。


「おい。最初はどこに行くんだ?」

「実験室! その後は図書室に行って、色々回ってから最後に保健室に行くわ!」

「わかった」


 なんの感情のこもらない口調でそう言われると、余計に腹が立ってきたが、少しの辛抱だ。さっさと案内してさっさと帰る……そうだ、そうしよう!


「さぁ、さっさと行くわよ!」


 私はジェイクを置いて、早歩きで歩き出した。


◇◇◇


(よしよし、順調に案内できたわ。残るは保健室のみ! 案内し終わったら全速力で帰るんだから! はぁ〜〜、今日の晩御飯なんだろ? すっごく楽しみ〜〜♡ ママのご飯大好き♡)


 私はジェイクと一定の距離を保ったまま、校内を案内していた。最後は校舎の一階にある保健室に案内するのみだ。


「ここが保健室よ。先生、失礼しまーす」


 私は小声で保健室の扉をそっと開けた。中に入ると、消毒液の独特の臭いが鼻をついた。いつもならベネット先生の朗らかな声が返ってくるのに、今日に限ってなんの返事もなかった。


「先生? あれ、いないの珍しいな……」


 ジャコウ族のベネット先生がいない。いつもなら消毒液の匂いに加えて、コーヒーの良い匂いが香ってるのに。それに加えて、ベッドもガラ空き。本当に珍しい日もあるもんだと思っていたら、聞き慣れないガチャリという音が聞こえてきた。


「……え?」


 後ろで鍵の閉まる音がした。すぐに振り向くと、ジェイクは真剣な表情で私を見つめながら、一歩ずつ距離を縮めてくる。それに対し、私は一歩ずつ後ずさった。


「な、何よ……」


 彼の青い目がギラギラと輝いて見える。それはまるで、獲物を狙っているかのような目付きだったので、私は尻尾を束子のように膨らませて、フーッ! と威嚇し始めた。


「こ、来ないでよ!」

「服に糸屑が付いてるぞ。ほら」


 い、糸屑? あ……本当だ。本当に付いてた。


「なんだよ、その反応。俺に何か期待したのか?」

「バカ、違うわよ! アンタみたいな体格の獣人に距離を詰められたら、誰だって警戒するでしょ!?」


 ヤバイ、顔がとっても熱い。きっとトマトみたいに顔が真っ赤に染まってるだろうから、私はそれを隠す為にジェイクに背を向けた。


(あぁ〜〜、本当に調子狂うなぁ……って、ジェイクってば、保健室の鍵を閉めてなかったっけ!?)


 しまった!と、そう思った時にはもう遅かった。


「ひぁッ!? な、なにを……」


 いきなりジェイクに私の栗色の後髪をめくられ、うなじを露出させられた。私達、女性にとってうなじは身体の部位で最も見られたら恥ずかしい部分であり、結婚まで守るべき大切で特別な場所――初対面のコイツは何の許可もなく、手を出してきたのだ。


 私は反射的にジェイクの手を思いっきり振り払った。


「何すんのよ、この変態ッ!!」

「良かった。まだ誰にも手を出されてないんだな」


 無表情のまま、ジロジロと観察するジェイクの発言に呆然とする私。


「て、手を? 何それ、どう言う意味……」

「年頃の女は皆、そういう事してるだろ? お前は俺のものだから、他の男に手を出されたら困る」


 ジェイクの発言に私は頭が真っ白になってしまった。絶対に初対面のはずなのに、人のうなじを露出させるだなんて、黒ジャガー族のジエンにもされた事ないのに――。


(さっきから何を言ってるの、コイツ!? 私の事が好きだとか、お前は俺のものだからとか、勝手に言ってくれちゃって! こっちはアンタの事なんてこれっぽっちも記憶にないのよ!)


 私よりも背の高いジェイクを、下からキッと睨み付けてやった。けれど、ジェイクは動じることもなく、私をジッと見つめている。


「授業中もそうだったけどアンタ、何なのよ? 私、アンタとは初対面のはずよね?」

「本当に俺の事、覚えてないのか?」


 ジェイクの眉が少しだけピクッと反応した。ほんの僅かだが、眉が下がったように見える。それが少し悲しげに見えたので、私はほんの少し罪悪感を抱いてしまった。


「覚えてないもなにも……さっきから言ってるじゃない。私とアンタは初対面だって……」


 ただでさえ体格差があるんだから、そんな迫って来ないでほしい。正直言って怖いのよ。アンタに軽く押されただけで骨が折れるんじゃなくて、周辺の骨が砕け散っちゃうとと思うの。


「なぁ、ステラ」

「こ、来ないで! きゃっ!?」


 後ろにソファーベッドがあるのを把握しておらず、私はソファの上に思いっきり尻もちをついてしまった。


(しまった……!)


 そう思った時にはもう遅かった。ジェイクはそのまま私の顔の横に片手をついた。ギラリと光る青い目に私の怯えた顔が映っているのが見える。


「や、やだ……怖い」

「俺は怖くない。身体が大きくなっても、あの頃と全く変わってないから」


 あの頃? あの頃って、いつの話––––。


「あっ、待って! 首舐めちゃ、嫌ぁ……!」


 ジェイクは私の首元に顔を埋めてきた。髪を掻き分け、ザラザラとした舌で首筋を舐め上げられた私は、堪らず声を上げた。けれど、ふわりと香った甘い匂いに私は目を丸くする。


 あれ……この香り、どこかで––––?


 その時に感じた彼の香りは、どこかで感じた事のある香りだと思ったが、その疑問は一瞬でどこかへ消え去ってしまう。ジェイクが毛繕いをするかのように、ペロペロと私の首筋を何度も舐めてきたのだ。


「だ、だめっ……く、くく、くすぐったい〜〜っ!」


 感じた事のないくすぐったさに、私は変な笑い声を発してしまいそうになった。首筋なんて親にも友達にも舐められた事がないし、ましてや相手は男なのだ。恥ずかしさも相まって、私は目尻に涙をじんわりと浮かべたまま、彼の胸板を押す。


「お、お願い! 貴方と付き合ってもないのに、こんな事したくない!」

「付き合ったらしても良いのか?」

「そ、そういう意味じゃ! 私、まだ17歳なのにこんな事できないわよ!」


 こういう事は18歳になってからじゃないと駄目だって、保健の先生も言ってたし……付け足すように言うと、ジェイクはプッ……と吹き出して、笑い始めた。


「アハハハッ! 本当にステラは昔から約束は守る女の子だったよな。まぁ、俺はそこが好きになったんだけど。でもさ……俺、ショックだなー。昔、俺と交わした約束だけ覚えてないだなんてさ」

「や、約束? そんなのいつ交わしたのよ?」


 そんなの全く覚えてない。だって、私とジェイクは初対面のはずだもの。でも、この口ぶりは嘘をついてる感じじゃない。


「本当に私達、会ったことあるの?」

「えー、本当に覚えてない?」

「ご、ごめんなさい……」

「じゃあ、ヒント。俺達は小さい頃に会ってるぞ」


 ジェイクはようやく起き上がり、私をソファに座らせた後、足を組んで隣に座ってくれた。


 ち、小さい頃? えぇ……いつ会ったんだろ。私、忘れちゃってるのかな? でも、アムール族の獣人に会ったら、忘れる事なんて絶対にない––––––あ、待って……もしかして!


「私達、拉致事件の時に会ってる? 私、トラの子供と一緒の檻に入れられてた。名前は……確かアムちゃんって呼んでた気がする」

「正解! そう、俺があの時のアムちゃん!」


 そう言って機嫌良く笑ったジェイクは、私の唇に触れるだけのキスをしてきた。フニュ……とした柔らかな感触が伝わり、私は何度も瞬きをする羽目になってしまった。


「〜〜ッ!?」

「あれ? もしかして、キスも初めて?」


 ジェイクの問いに私はブンブンと首を縦に振り、ソファの隅っこに身体を寄せた。顔から火が出ているのかと錯覚するくらい、顔が熱くなってしまっている。


(ま、待って! 私の……私のファーストキスがッ! あんな可愛らしかったアムちゃんに……ジェイクに奪われるだなんてぇぇぇぇ!!)


 私は混乱しつつも、昔の事を少しずつ思い出していったのだった。

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