第2話
先ほどまで踊っていたこともあってか、美穂の年相応に乾いた手は熱を帯びて、微かなオレンジの匂いが立ち上っていた。手を握り、背中に腕を添え、腰を密着させるダンスの基本姿勢。歯を磨いてこなかったことを思い出してしまう。こんなことをみんな平気な顔してやっているのかと思うと、なんだか自分一人が人間じゃないような気分になる。
「ほら、背中が曲がってる……」
つい腰が引けるが、ぐい、と腕が引っ張られ、美穂の腰が喝を入れるように軽く叩きつけられた。
「ステップを踏み出すには、姿勢を正さないとだめ。胸を張りなさい。自分が素敵な人間だと思いなさい」
「そんな、まだなにも分からないのに」
「いいのよ、姿勢をよくしていれば、勝手に上手になっていくし、教える方もやりやすい」
「そういうものかな」
「そうよ。ちゃんとしなさい。あなたはかっこいいわ」
「かっこいいなんて。初めて言われました」
「帰ったら鏡に向かって言ってあげなさい。さあ、左足を踏み出すの」
家で一人、鏡に向かってかっこいいだなんて言っているのを見られたら、誰になんて言われるだろう。そういうところを大人は何も分かっていない。かっこよくなりたいけど、かっこつけることは出来ない。
「えっと、こうですか」
教えられたことをいちいち確認し、美穂が頷くのを見て、また新しい動きを見せてもらう。美穂の足さばきはとてもなめらかで、ただ歩いているみたいに自然だが、いざ自分でやろうとすると、錆びついたロボットのようにぎこちなく、それを取り繕うようにしてなんとか再現していく。
「そう、それでいいわ」
その言葉に亮介は素直に喜べなかった。自分でいいと思えないものを人に褒められると、むしろ申しわけなさが先に立つ。
「美穂、そろそろ始まるわよ。幸田君も一緒においで」
典子が声をかける。
音楽が鳴り出した途端、教えてもらった通りの動きが出来なくなっていた。一人ではちゃんとできていたことが、二人になるだけで何もできなくなる。美穂の表情を見られず、さりとて俯くわけにもいかないので、無理やり顎を上げた。薄い頭頂部が見え、重ねてきた年齢の違いを見てしまう。慣れない動きをして疲れたせいだろうか。ぼんやりした頭は自分がそうして禿げるまでにあと何年あるのかというところにまで考えが及んだ。
「足が重いわ」
ぽつり、と、蛇口から一滴落ちるみたいに、美穂が呟いた。
「スミマセン」
半ば反射的に謝るが、美穂はそれも聞かずに信じられないことを言った。
「あなた、きっと寂しいのね」
「え?」
聞き返しても、美穂はもう一度寂しいの、と独り言のように言って、さりげなく亮介の手を握り、そして離した。
開放された亮介は糸のちぎれた水風船のようにくるくる不格好に回りながら、やがて転んでしまう。
わかったふりではない、ということは明らかだった。
寂しい。そうだ、寂しいのだ。
友達は学校にいる。親だっている。それでも、足りているけれど、寂しい。満ちない。
「母さんは許してくれるでしょうか」
「なにを」
「ダンスを習うことを」
直美は、亮介の習い事は将来役に立つか否かで判断をしていた。
ダンスを習いたいと言って、多分、直美はまず聞くだろう。「将来何の役に立つの?」
そういう話をすると、美穂は再度手を取った。そして、しばらく黙ったまま、ゆっくりとステップを踏む。典子の指示とは違うが、特に注意もされなかった。
「私、娘がいるの。もう一緒には暮らしていないけど」
ぽつりと、美穂は言った。
「ちょうどあなたくらいの年よ」
言われてみれば、美穂は母の直美よりも年上だから、子どもがいたとしてもおかしくない。
「あなたになら、私はなんでもやってみなさいと言えるわ。胸を張って。でも、わが子が習いたいと言ったら、いろいろと考えてしまうでしょうね。たかがダンスでも、いろいろと」
美穂が何を言いたいのか、亮介にはわからなかった。こんなにも近く触れ合っているけれど、その肌に刻まれた人生を感じられるほど、亮介はまだなにも熟してはいない。
「ただ、私から一つだけ教えたいことがあるわ。ダンスの素晴らしい点は、うつむくことが許されないことよ」
その言葉を言う時だけ、美穂の顔は自信に満ちて輝いた。
「この先の人生で何があろうと、踊っている間は、私たちは前を向いている。その場でくるくる回っているだけで、戻ってくるとき、私たちはもう別人になっている。誰かと、踊ることさえできれば」
美穂は亮介をリードするようにして、その場でターンする。
「それは人生の役に立つ。タンゴという形をとらなくても、ステップがそろわなくても。あなたのお母さんがなんていうかはわからないし、もうあなたはここにはこないかもしれないけれど、人生の選択肢に、踊ることを付け加えておいて欲しいと、私は思う」
その言葉を、亮介は自分だけに向けられた言葉ではないと直感した。おそらくは、ここにはいない、彼女の娘に伝えたかった言葉だろう。
踊ること。
言えないこと、ため込んでいることを発散する手段。
言葉を用いず、誰かを感じることのできる手段。
あるいは、ただ熱中するもの。
亮介は考える。俺の人生に、そういうものは必要だろうか?
答えはすぐに出た。
欲しい。必要性などどうでもよく。
帰ったら、母さんと話をしよう。亮介はそう決意してから、また、美穂とのタンゴに意識を集中させ、潜っていった。
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