踊ることのはなし

羊坂冨

第1話

 美穂の遺影は、亮介の記憶で知る笑顔を湛えて待っていた。


 亮介をここまで連れてきた典子は、常に考え込んでいる亮介を気遣ってか、到着した途端にさりげなく離れていった。あるいは本当に忙しいのかもしれない。亮介は親から借りた数珠をポケットにしまった。簡素な式だった。


 棺にはかつての生者の熱が遺されているように感じる。あるいは、百年先も生きていそうだと思えた彼女の、この世に対する未練が染み付いているのかもしれない。不意に亮介は、それを肌で感じたいと思った。そうやって染み込ませなければならない。


 今日はあいにくの雨だった。


 どうして自分はここに来ようと思ったのだろう。亡くなって初めて、彼女が四十歳だったことを知った。過酷だった人生の一端を知った。学生服を着た、息子でも弟でもない亮介を、怪訝そうに見つめる視線が伝わってくる。ほんの一度、ほんの数時間一緒に踊っただけだったのに、それでもこんなにも気持ちが揺れている。その理由は、やっぱりわからない。


 手を取り、足を踏み交わせば、何かがすとんと分かるのだろうか。あの日踊った時のように、超感覚の果てに、あなたを通して自分の姿を知れるのだろうか。頭の中に、輝かしいリズムがリフレインして聞こえる。両手が動き出す予感がした。


 式が終わって、視界の端に帰ろうとする若い女が見えた。亮介はあの人が彼女の娘だと直感した。ここにあっても生来の血色の良さは隠せず、うつむいた彼女自身の深い悲しみと混ざって、喪服の周りで空気がしくしくと揺らめいていた。


 そして、娘が亮介の方を振り向く。




 そのダンス教室に足を踏み入れたのは、一つのCDがきっかけだった。


 引っ越しをきっかけに得たぴかぴかの自分の部屋も、一年もたてばすっかり汚れてしまっていた。亮介はあまりまめではない。ベッドの裏には溜まった埃が湿気を帯びて床にびったりと張り付いてしまっているし、真っ白だった壁紙には黄ばんだしみがぽつぽつと現れている。そんなに大きなものを買った覚えもないのに、気づけば入りきらなかったジーンズや教科書が出しっぱなしになっている。おおよそ人を呼べる状態ではなかった。


 何もしていないのにどうしてこんなに汚れるんだよ、と雑巾を片手に亮介がつぶやくと、背後で直美が呆れたように言った。


「何もしてないから汚れるのよ。フローリングも傷だらけね。ひどいわ」

「知らないって、そんなこと。俺は気にしないし」

「私の家よ、勝手なこと言わないで。あんたの部屋っていっても、ずっとここに住むわけじゃないでしょう。そんなんじゃ一生一人暮らしなんてできないわよ」


 だんだんヒートアップする母に言い返すのも面倒になって、口をへの字に結んで大人しく床を拭くことに専念する。


「ちゃんと雑巾も洗っとくのよ」

「わかってる」


 満足げに去っていく直美の、階段を降りる足音が聞こえなくなると、亮介は面倒そうにがしがしと腕を伸ばすが、染み付いた埃は雑巾だけではほとんど落ちない。結局まだらに残ってしまうが、亮介はそのまま雑巾を洗って、ベッドに寝転んだ。


 私の家、と直美は言ったが、それを言われると亮介は弱い。直美は若くして結婚し亮介を産んですぐに夫を亡くした。が、その後暴れ盛りだった息子を抱えて会社を設立し、社長として母として、社員と息子を支え続けた。今では会社も軌道に乗っているが、亮介がまだ小学生だったころ、散々外で厳しい仕事をし精神をすり減らし追い詰められていても、決して亮介にあたったりはせず、良き母でい続けた。社員も増え、定期的に休めるようになり、こうして一軒家まで購入した。そんな直美の姿を見て、亮介は育ったのだ。彼女のように自分にも厳しい大人が他人に対しても厳しくあるのは健全なことだ。


うざいな、と思わないわけではないが、テレビや学校の授業で聞く、さまざまな問題を抱えた世間の親子に比べれば、自分は十分幸せな息子なのだろう。完全な人間などいはしない。

 しかし少年の若々しい精神にとって、それは未だ咀嚼しがたいことであり、同時によくわからない不快感を覚えるものである。頭で考えた文字にもならないものを未だ健康的に無視できないのが思春期というものだ。亮介の苛立ちはそのまま音楽に向けられた。


 床に積み重なった物たちの合間合間、半ば衝動的に集められたCDが、海岸に隠れる桜貝のようにきらりと輝いている。亮介は導かれたように、まだ聴いていなかったものに手を伸ばした。タイトルはシンプルに、『Tango』。


 タンゴに亮介が足をとられたのはたまたま近所に社交ダンス教室が出来たからである。見慣れた通学路の途中にぬるりと入り込んだ「タンゴ」という言葉は、今まで意識したことがなかったことも相まって、ワゴンにひっそりと潜っていたこのオムニバスを手に取らせた。


 「情熱」というワードと共に語られるタンゴというからには、きっと激しくリズミカルな音楽なのだろう、そう思って再生ボタンを押した亮介の予想に反して、スピーカーから流れてきたのは、どこか哀愁に満ちたピアノの音だった。


「これがタンゴ? クラシックみたい」


 亮介は拍子抜けした風に眉を顰めたが、その感想はある種真っ当だった。一曲目に収められた曲の作曲者はアストル・ピアソラ。タンゴをベースにジャズやクラシックの要素を融合させた、新しく独創的なタンゴを生み出したバンドネオン奏者である。ポルカやワルツなどのダンスミュージックを基としたタンゴはまさしく「踊るため」の音楽であったが、ピアソラのタンゴは「聴くため」の音楽であり、亮介にも聴きやすいものだ。幸運にも。


 『Soledad』。七分足らずの、いつも聞いているポップスよりも、一曲あたり三分間のタンゴと比べても長い曲。けれども亮介は何かがかちりとはまったかのように、食い入るようにそれを聞き続けた。ピアソラに手を引かれるままに、ほどなくして踊るためのタンゴに身をゆだねた。果てしない地球の裏側に、まだ見ぬ誰かの夢を見て、亮介の右足はないた。


 その十日後に、ようやく亮介はタンゴ教室のドアを開けた。騒音対策として半地下に設けられた鏡張りの教室では中年の男女がカップルごとに、あるいは女性同士で(男性は驚く程少ない)ストレッチをしており、やがてレッスンが始まった。田舎町の教室らしく、受講者の多くは初心者であり、亮介の目から見ても形になっていないのは明らかだった。その中で唯一、自然と目を引き付けるカップルがいた。それが講師の一人である典子と、美穂だった。


 二人のまわりだけ、空気の流れが違う。亮介は放心していた。全く異なった人生を送った二人が、一つの生命のように生き生きと動いている。彼は夢中で美穂の真剣な顔を眺めた。亮介からすればおばさんといっても差し支えないのに、その皮膚の裏には鮮やかな血が若々しく輝いていて、ステップは砂浜を駆けるように軽やかだった。一挙手一投足をつぶさに眺めると、混乱してしまいそうな複雑な動きもさりげなくこなしており、修練の足跡が見え隠れした。


 美穂が亮介の方を向いたことは一度としてなかったが、休憩時間になると汗を拭きながら何気ない様子で声をかけてきた。ばれていたのか、と気恥ずかしくて目線を反らす亮介に、美穂は一緒に踊らないかと肩を叩いた。


「いや、俺は見学にきただけで……」

「フロアに来て踊らないなんてもったいないじゃない。それに、踊りたいんじゃないの?」

「そんなこと。どうして言えるんです」

「だってあんなに、目がぎらぎらしていたじゃない。まるで初恋でもしたみたいに」

「はつこい」


 ぽかんとする亮介に、美穂は肩に手を置いたまま、覗き込んで自分の深い瞳を見せつける。


「靴ならいくらでもあるわ。私が教えてあげる。何がいい? 今やったワルツの他にも、タンゴとか、クイックステップとか、色々あるのよ」

「……タンゴ」

「え?」


 か細い声に美穂が聞き返すと、亮介は降参するみたいに大きく息を吐いて微笑んだ。


「タンゴを。一緒に踊ってくれませんか」

「ええ。一緒に」


美穂は笑って振り向く。視線の先で典子がうなずいた。


「ちょうど次から、タンゴが始まるのよ。せっかくだから、音楽にのせてやりましょう。今から基本的なステップを教えてあげる。足のサイズは?」

「二十六」

「あら!」


 美穂は楽しそうに声を上げた。


「大きいのね。きっとこれから、背もぐんぐん伸びるわよ」

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