墓参

 ことし最後の太陽が東の山の天辺から真っ赤な顔をゆっくりと出した頃、父と母を乗せた私の車は隣町にある駅のロータリーにゆっくりと滑り込んだ。

 普段であればそろそろ人々の営みが開始されているはずの時間だが、年の瀬も年の瀬である大晦日の今日に限っては、暇そうに客待ちをするタクシーの姿すら見当たらなかった。

「せっかく帰ってきてくれたのに悪かったな、叶多」

 大きなキャリーケースのハンドルを手にした父が、さも申し訳無さそうな顔でそう言う。

「ううん。連絡もなしに戻ってきたのは僕のほうだから」

 事前に帰省する旨を告げなかったのは、別に急に帰って両親を驚かせてやろうといったような意図があったわけではない。

 当たり前に帰ることのできる場所があったことに、私がただ甘えていただけだ。

「来年の夏は彼女を連れて帰ってきなさいね。お母さん、首を長くして待ってるから」

「……善処するよ」

「あらま。沖縄、雨じゃなければいいんだけど」

 母とのこの手の話題で前向きな返事をしたのは、もしかしなくてもこれが初めてのことだった。


 無人の改札の奥に消えていくふたりを見送ると、そのまま隣町まで足を伸ばし、ガラ空きのファストフード店で朝食を済ませる。

 そうこうしているうちに彼女と約束した時間まであと三十分と、ちょうどいい頃合いになっていた。

 道すがらにあった小さな商店で本日必要になるものを買い揃え、約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所に到着する。

 そして、少ししてやってきた彼女を助手席に乗せると、車の黒い塗装面に真冬の青空を映しながら走ること約五分。

「運転お疲れさまでした。それにしてもすごくよく晴れましたね」

「うん、本当にね」

 彼女が言うとおり、今日はこの冬で一番といっていいような晴天だった。

 車の後部座席に置いてあった荷物を片手に持つと、空いていたもう片方の腕に彼女が取り付いてくる。

「あっちです!」

 小さな体に似合わない力強さでグイグイと私のことを引っ張り、古びた御影石の墓石が立ち並ぶ墓地を進んでいく。

 やがてその突き当りに、たった一基だけ真新しい洋風の墓石が見えてくる。

 どうやらそこが目的の場所のようだった。


「おねえちゃん。今日はね、かなたさんと一緒にきたよ」

『水守』とだけ彫られた横長の石碑に語りかける彼女の表情は、まるで一人暮らしをしている姉の家に遊びにでも来たかのように明るかった。

 そのせいだろうか。

 なんだか私まで古い友人である彼女と対面したような気分になってしまった。

「水守さん、久しぶり」

 水守唯とは十数年来の付き合いがあった割に、こうして名指しで挨拶をした記憶はほとんどなかった。

 幼稚園の遠足でおぶって山を降りた時も、中学の勉強会で姉妹を家に送った時も、私と彼女はあんなにも近くにいたのに。

 山のように買ってきた花を供えてから線香を手向けていると、それは何の前触れもなく突然やってきた。

 唐突に息が詰まったと思うと、自分の意思とは関係なしに目から涙が溢れる。


 去年の春。

 愛した人との間に子を授かったことを知った彼女は、本来であればその瞬間にも喜びに打ち震えるはずだった。

 それなのに。

 それなのに、彼女はその愛した人に裏切られただけではなく、人生で最大の愛情を注ぐはずであった存在をも諦めるまでに追い詰められ、そして――。

 彼女が最期に残したという言葉を聞いた私は、愚かにもそれを美しい一行詩のようだと、そう感じてしまった。

 きっとそれは、幼い日に両親を亡くした私が物心を手に入れて以来、ほとんど無意識下で有していた背徳的な価値観に、あまりにも自然に合致したからだと思う。

 それでも私には、私のことを愛してくれる人たちがいた。

 それでも私には、私のことを救ってくれる人たちがいた。

 彼女にもそういった人たちは大勢いたはずだが、逆にそれゆえ悩みや苦しみをひとりで抱え込んでしまったのかもしれない。

 そんな恵まれた私と、そんな悲しい彼女のことを、まるで並べ見でもしていた自分が恥ずかしかった。

「かなたさん……」

「……ごめん、大丈夫。でも……もう少しだけ」

 もう少しだけでいいから詫びさせてほしかった。


 旧友の墓前で祈りを捧げること五分。

 どうにか自分で納得できるだけの気持ちを天国の彼女に送ることができたように思う。

「ごめん。待たせちゃったね」

「いえ。私もおねえちゃんとお話をしてましたから」

 雲ひとつない今日の空と同じように、穏やかに透き通った笑顔でそう言った彼女は、まるで幼い子供が父親にするようにしゃがんでいた私の背に抱きつきながら言葉を続けた。

「おねえちゃんと赤ちゃんの分も、私とかなたさんがいっぱい幸せになるからって。おねえちゃんにそう言っちゃいました」

 それはひとえに私たちの行く末次第なのだが、少なくとも現時点では一片たりとも異存はない。

「……そうしちゃおっか?」

「はい!」


「それじゃおねえちゃん。来年また、今度はお母さんたちとくるから」

 その来年というのはもう、ほんの十数時間後のそこまで迫っていた。

 きっと彼女のことだから、明日のいま時分にはまた母親と一緒にこの場所に立っていそうな予感がした。

「花、結構余っちゃったね。残りは持って帰ってお仏壇に――」

「かなたさん、あの。もう少しだけ付き合ってもらえませんか?」

 彼女が何のことを言っているのかはすぐにわかった。


 同じ墓地の二つ隣の区画にその場所はあった。

 旧家の歴史を感じる苔むした大きな墓石の花刺しには、すっかりと枯れて茶色く変色した供花が、コバルトブルーの青空の下にその憐れな躯を晒していた。

「高畑お前さ……この馬鹿野郎が」

「かなたさん、亡くなった人にそんなこと言ったらダメです」

「だってさ」

「もうぜんぶ終わったことです。かなたさんだって昨日、そう言ってくれたでしょ?」

「……言ったけど」

 おそらくは十近くも年齢の離れた少女にたしなめられた私は、少しだけ口を尖らせながら改めて旧友に言葉を掛け直す。

「……昨日、さ。高畑のとこの子、みせてもらったけどさ。むちゃくちゃかわいかったよ。これからもまた、たまにだけど会いに行かせてもらうつもりでいるから」

「いえ。彩ちゃんには毎週会いに行かせてもらいます」

 供花の交換を終えて花刺しに水を注いでいた彼女が、しれっとした口調で横から口を挟む。

 それは彼女なりの冗談だったのかもしれないが、その横顔は試験当日の受験生を思わせるほどに真剣に見え、申し訳ないことに私は笑ってあげることができなかった。

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