親子
助手席で寝息を立てる少女の、その上等な白磁のように艷やかな頬をそっと撫でる。
そして、続けざまに柔らかなその部位を指で摘み、力任せにむんずと引っ張った。
「家についたよ。茉千華ちゃん、起きて」
といっても、さすがにその正面まで送り届けることには問題があるように感じ、少し離だけれた道路脇の余地に車を停めていたのだった。
「……おはようございます。あと……ちょっと痛いです」
遠慮がちなクレームを受け、搗きたての餅のようにぷにぷにと柔らかでよく伸びる頬から手を離す。
「寝ぼけ顔で帰ったらお母さんに変に思われるよ」
「だったらもう少し早く起こしてください」
それは大変ごもっともな意見だが、彼女ら姉妹の逢瀬を一秒でも長くとるための手段であったのだから、目覚ましが多少乱暴になったことは許してほしかった。
後部座席から取り出したコートを彼女に羽織らせながら、念のために翌日の約束事項を確認する。
「十時くらいにまた、ここにくるから」
「わかりました。それで、あの……」
彼女はコートのボタンに掛けた手を止めると、足元に一旦落とした視線を戻しながら言葉を続けた。
「今年の八月に私が言ったことって……まだ覚えてくれていますか?」
記憶力はあまり良い方ではなかったが、その件は内容が内容なだけに忘れてなどいるはずもなかった。
『じゃあ、私がハタチになって、その時にかなたさんがいいよって思ってくれたら……お付き合いしてください』
それが厳密に何年何か月後なのかは怖くて聞けなかったが、確かにそんなようなやりとりをしたことがあった。
なんなら危うく一筆取られそうになった記憶もある。
「うん。もちろん覚えてるよ」
「あれなんですけど……ごめんなさい。やっぱりムリです」
その言葉の意味を理解することができなかった私は、口を『え』の形にしたままで固まってしまう。
「ハタチになるまで待つなんて、やっぱりイヤです」
ああ、そういうことだったのか。
それならば私からも、彼女に伝えたいことがあった。
「僕も……僕もそう思ってたんだ。君が二十歳になるまで待つのはちょっといやだな、って」
大人の男としてあまり良くないことを言っているという自覚はある。
だが、今はそれよりも彼女に、そして自分の気持ちに嘘をつきたくない。
「じゃあ……」
彼女の黒曜石製の瞳がひときわ大きく見開かれる。
「僕と付き合ってほしい。もし明日でよければ一筆したためるから」
「それはしなくてもいいです。でも、代わりに」
ゆっくりと目を閉じた彼女の肩に手を添え、腰をかがめて静かに顔を近づける。
陳腐な表現かもしれないが、それは紛れもなく聖なる瞬間だった。
彼女の姿が家の敷地に消えていくのを少しだけ離れた場所から見守ったあと、私は車に戻りながらスマホを耳にあてていた。
「もしもしお母さん? 僕だけど」
『あら、珍しいじゃない。どうしたの?』
「今年の正月はまた、そっちに帰ろうかなって、そう思って」
『何かあったの?』
何かもなにも、本当にいろいろなことがあった。
ただ、残念ながら母に話して聞かせられることはひとつも思いつかなかった。
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
『じゃああれだ。都会よりもこっちのほうが休まるんでしょ?』
「まあ……うん。生まれ育った町だしね」
すんなりとそんなことを口にした自分が少しだけ照れくさい。
『で? いつ帰ってくるの?
「ん。あと……十五分後くらい」
相変わらず施錠されていない玄関を潜り居間に向かうと、座卓の上にはすでに私の分も含め三人分のグラスとビールが用意されていた。
両親と酒を酌み交わしながら四方山話に花を咲かせていると「ところで叶多」と、帰省時恒例の母の詰問が開始される。
「まだいい人はできないの?」
「ん」
「明日にでも連れてきなさい」
女の勘、というやつだろうか。
過去のそれとは少し違った息子の反応に、どうやら母は何かしらの手応えを感じとったようだった。
父は「ついに叶多からあの台詞が聞ける日がくるのか」とひとりごちると、開けたばかりのビールを一気飲みし、次の瞬間にはとてつもなくいい笑顔を浮かべて親指まで立てて見せる。
父と藤田が気が合うのがよくわかったような気がした。
「お母さん、孫ができたらパートはやめてお手伝いするから安心して」
母に至っては孫の世話をする算段までも立てていた。
「前から思ってたんだけど、なんでそんなに早く結婚させたがるの?」
ふたりともまだ四十代と若いのだから、そんなに焦ることもないだろうに。
それともただ単純に、私が鞭で尻を叩かなければ走らない駄馬であることを知っていたからか。
だとしたら申し訳ない気持ちはあるし、実際のところその通りだったので反論をするつもりはないのだが。
「だって、家族が増えたほうが叶多だって楽しいでしょ?」
と、母は言った。
「うちは親戚がいないからな。父さんと母さんだけじゃ叶多も寂しいだろ?」
と、父は言った。
そんなことなんて今まで、たったの一度も考えたことはなかった。
そして、改めて思った。
この人たちは本当に、本当に私の父と母なのだな、と。
私は自分が人よりも不幸だと思っていたが、それはあまりに愚かな勘違いだった。
私ほど両親に愛されている子など、この町にもそうはいないだろう。
「……今年は三日までこっちにいられるから」
「お前の家なんだから三日まででも四日まででも、好きなだけゆっくりしていきなさい。お父さんとお母さんは明日の朝から出掛けるけど。冷凍庫にいろいろ入ってるから、おせちでも雑煮でも好きに作って食べてね」
「え? もしかして、また旅行? 今度はどこに行くの?」
「沖縄に五泊」
「土産はソーキでいいか?」
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