恋人

 ファミレスから出た車は元来た方角には戻らず、名ばかりの高速道路を自転車に毛が生えた程度の速度でさらに西へと向かい進んでいた。


「赤ちゃんって、あんなにもかわいいんですね」

 川島さんと別れてからまだ三十分と少ししか経っていなかったが、彼女はそのようなことをすでに五回も繰り返し口にしていた。

「『よかったら今度ゆっくり遊びに来てください』って、さっきの川島さんのあれさ。たぶん本気で言ってくれてたんだと思うよ」

 そうでなければこちらから聞いてもいないのに、別れ際になってわざわざ住所と電話番号まで教えてくれなどしないはずだ。


 ――今から約一時間前。

「ぜんぶもう、終わったことですから。私のおねえちゃんもきっとあっちで赤ちゃんを抱っこして、それで笑っていると思います」

 茉千華ちゃんはそう言うとペーパーナプキンで手と顔を丁寧に拭いてから立ち上がり、母子のいる向かいの席へと移動していった。

「あの。もしよかったらですけど赤ちゃん、抱っこさせてもらえませんか?」

 あまりに唐突な申し出に一瞬だけ驚きの表情を浮かべた川島さんだったが、すぐに「ありがとうございます」と礼を言い、少女の胸に幼い我が子をそっといだかせる。

「わ、けっこう重い」

 かつて私も藤田の長男を抱かせてもらった時に、それとまったく同じ感想を抱いたことがあった。

 一歳児ともなればもう、十キロかそこらはあるのではなかろうか。

「お姉ちゃんに抱っこしてもらえてよかったね?」

 母親にそう言われた当の赤ん坊ほんにんは、自身を抱える見知らぬ少女と傍らにいる母の顔を見比べる。

 そして、文豪の肖像写真を彷彿とさせる絶妙な角度で中空を見つめながら何かを考えているようだった。

「この子、お名前は?」

「あやです。彩るという字で彩です」

「彩ちゃんこんにちは。すごくいいお名前ですね。お姉ちゃんは茉千華っていいます」

 自身の名を呼ばれたことを理解したのか。

 彩ちゃんはドングリのように丸く大きな瞳を少女に向けると、まるで自己紹介でもするかのように「アーアー」と喃語なんごを口にした。

「……え。今のってちょっと、かわいすぎません? 反則じゃないですか? 」

 そのあまりに微笑ましくおかしなやり取りを見た母親は、口に手を当て笑いながら、目からは大粒の涙をぼろぼろと零したのだった――。


「明日の朝さっそく行ってみようと思います」

「それはさすがに迷惑だし絶対に引かれるって。また近いうちに僕が送っていってあげるから」

「絶対ですよ? 約束しましたからね? あとでいいので一筆ください」

 この子と軽々しく約束を交わすのは危険だと、私は改めてそう思った。

「ていうかさ。茉千華ちゃんはお正月に親戚の家には行かないの?」

「はい。お母さんと一緒におじいちゃんとおばあちゃんの家に行くつもりです」

 昨年の夏に水守家を訪ねた時だった。

 彼女ら姉妹の母親が開けた玄関の戸の隙間から、生後間もないような赤ん坊の泣き声が聞こえてきことがあった。

 近親者のみで執り行われていた通夜ゆえに、あのとき家の中に居たのは水守家の親族だけだったはずだ。

「そこには他の親戚も来るんでしょ? だったら赤ちゃんも来るんじゃないの?」

「残念ですけど赤ちゃんはいないんです。私が親戚で最年少ですから」

「え? だって……」

 私はあのとき確かに赤ん坊の泣き声を聞いた。

「かなたさん? どうかしましたか?」

「……いや」

 ただ、今にして思えば。

「でも今日は彩ちゃんに会えて本当によかったです」

 そう、あれは。

 とても力強くてそれでいて酷く悲しげなあの泣き声は、生まれでて間もない赤ん坊の――。

「……水守さん」

「はい?」

「……ごめん、何でもない」

 産声のようだった。


 日が落ちる前には渋滞から抜け出したかったのだが、もはやそれは叶わぬ夢のようだ。

 進行方向である西の空は暮れなずんではいたが、それもまもなく終わりを迎えることだろう。

「お金は結局受け取ってもらえませんでしたね」

「そうだね。まあ、なんとなくそんな予感はしていたんだけど」

 川島さんによれば、高畑はそれなりの額の生命保険に加入していたとのことだった。

 それは、彼女ら母子の当面の生活や娘の学費を十分に賄えるほどで、加えて高畑の両親からも少なくない金額を慰謝料として受け取ったそうだ。

『私も彼のご両親にお金を返そうとしたんです。でも、どうしても受け取ってもらえなくて。だから自分が同じことをしているのはおかしなことだとはわかっています』

 これは川島さんの憶測なのだそうだが、彼が今年の六月になってから自らの命を断ったのは、その生命保険の契約内容が関係していた可能性があるという。

 というのも彼が契約していた生命保険は、加入後三年未満では自死を死因とした場合の保険金は支払われないことになっていたそうだ。

 そして彼が亡くなったひと月前が、ちょうどその三年目だったのだという。

 もしその通りだとすれば。

 彼は水守さんの遺書を受け取ってから約十か月の間、自身が犯した罪の重さと向き合い、その愚かさを悔み続ける日々を送っていたのかもしれない。

 が、それも含めてすべてはもう『終わったこと』だと当事者たちが決めたのだから、いまさら何がどうこうといった話ではない。


「かなたさん。さっきのお金ですけど、預かってもらえませんか? お母さんにはまだちょっと話せないので」

 いつかは話さなければいけないが、少なくとも今がまだその時でないのは彼女の言うとおりだ。

「うん。わかった」

「本当にごめんなさい。お願いばかりしちゃって」

「気にしなくていいよ。他にも何かできることがあれば頼ってくれていいからね」

「……それじゃ、さっそくですけど。もうひとつだけお願いしてもいいですか?」

 彼女はこれまでも何度となく、私に『お願い』をしてきた。

 だが、今回のそれにはそれ以前の申し訳なさげな雰囲気が一切感じられない。

「なんなりと」

「私も赤ちゃんがほしいです」

 本気とも冗談ともとれる突拍子もないその『お願い』に、頭よりも先に体がびくりと反応し思わず強めにブレーキを踏んでしまう。

 今が渋滞のさなかで本当によかった。

 それはそうと、現時点で考えられる最良の対応をとらなければ。

 期待に瞳を輝かせる彼女を落胆させずに、尚且つ上手く煙に巻くには――。

「……いったん持ち帰らせてもらってもいい?」


 ようやく渋滞の高速道路を下りることができたのは、夜の帳がすっかりと降りきってしばらくしたあとだった。

 ほんのさっきまで助手席で楽しげに喋っていた彼女も、いまや物言わぬ夢の中の人となっている。

 赤信号に引っかかった時にそっと覗き見たその寝顔は、過去に数度同衾したどの時よりも穏やかに見えた。

 それは去年の夏の夜に見た彼女の姉の安らかさとまったく同じで、私はこの時になりようやく知ることができた。

「水守さん、ちゃんと恋人に会うことができていたんだね」

 特段に急ぐ旅路ではなかったが、今回の目的地には私たちを愛する人たちが待っている。

 私と少女が乗った車を威圧感のある赤色の灯火で足止めしていた信号機が、『あなたたちもそろそろ先に進みなさい』とでも言わんがばかりに、緑色の優しい光でその行き先を照らしてくれた。


 アクセルに載せた足に少しだけ力を込める。

 するとモーター音に合わせてタイヤがゆっくりと回転運動を始める。

「……おねえちゃん」

 声の聞こえた助手席に視線を向けると、そこには相変わらず安寧の笑みを浮かべた少女の寝顔があった。

 その白い頬に一筋の光が流れ落ちる。

 ちょうどその時だった。

 つけたままでまったく耳に入っていなかった不遇のカーラジオから、十代の時分に大好きだったロックバンドの楽曲が流れてくる。

 今ごろ夢の中で姉とその恋人と会っているであろう少女を起こしてしまってはいけない。

 歌い出しの部分だけを聴いてからラジオの音量を下げると、彼女の耳まで届かぬように最小の声量で曲の続きを口ずさみながら、白線の消えかかった道路を静かに走り続けた。

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