死んだ恋人

答え

 目覚めと同時に自身の置かれた状況を鑑みた結果、昨夜あれほど大人とは何かを問い続けたことの無意味さに我ながら呆れ果てる。

 だがそれは、後の祭りであり身から出た錆でしかなく、マジックショーの縄抜けよろしくそっと彼女の腕から抜け出し部屋をあとにした。


 リビングのカーテンの隙間から細く射し込む朝日で体内時計を調整しつつ、朝食の準備をするために冷蔵庫の中身を確認する。

 調理をせずに食べられるようなものは、豆腐とスティックチーズくらいしか見つけることができない。

 いつものように自分ひとりであったならパントリーのカップ麺で腹を満たせばいいだけなのだが、昨夜から我が家には大事な客人がいるのだった。

 コートのポケットに財布を突っ込むと、音を立てないように注意を払いつつ玄関の扉を開けた。


 コンビニで食料を調達し部屋に戻ると、ちょうど彼女が洗面所から出てきたところだった。

「おはようございます」

 彼女の寝起きの悪さは去る夏に心得ていたのだが、どうやら今日に限ってはそれほどでもないようだ。

「あの。かなたさんは昨夜のことって覚えてますか?」

「……みっともない姿みせちゃったね。ごめん」

 いまさらながらに恥ずかしくなってくる。

「そうじゃなくて……ゆうべ私に」

「ああ」

『それは君がいま着ているそのTシャツに記述されている初歩的な英文をなんとなく口にしただけ』と、言おうとしてやめた。

「覚えてるよ」

 私は昨夜、確かに目の前にいるこの少女のことを愛おしく思った。

 日本語でいうところの『愛してる』とは、また少しだけ違うのかもしれないが。

 ただ、そのニュアンスを言葉で上手く説明する自信はないので、できればこれ以上触れないで欲しかった。


 朝食を終えてから洗濯物を畳み、気がつくと時刻は正午を回っていた。

 彼女が今夜も泊まっていくのであれば買い出しに行く必要があるが、それよりも先に済まさなければいけないことがある。

「茉千華ちゃん。そろそろいいかな?」

 窓辺に立ち灰色の都会を眺めていた少女が振り返る。

「あ……はい」

 リビングのソファーに並んで腰を下ろすと、まずは私から口を開いた。


「先に茉千華ちゃんに話しておきたいことがあるんだ」

 それは今年の八月にかつての恋人が私に打ち明けたことであり、彼女の姉の死に結びつき得る内容だった。

「お姉さんにはやっぱりお付き合いしているがいたみたいだよ。ただ、去年の四月には、もう別れていたみたい」

 水守さんからそう打ち明けられた七菜は、その相手が誰なのかまでは聞くことはできなかったそうだ。

 だが、話の端々から地元にいる人間であることは感づいたという。

「時期的に考えると、お姉さんが亡くなったことと関係があるかもしれない」

 しかし、遺書にあった内容を考えた場合それが直接の原因だとは考えにくい。

「私もたぶん、そうだと思います」

 彼女が普段と特段変わらない口調でそう言い切ったところをみると、すでにその辺りの事情も把握しているのだろう。

「かなたさんの同級生に高畑浩二さんっていう人、いませんか?」

「タカハタコウジ? ああ、うん。いるよ」

 正確には『いる』ではなく『いた』だったのだが、まさか彼女の口から高畑の名が出るとは思っていなかったし、正直彼のことを下の名前で呼んだことなど一度もなかった私は、薄情なことにも一瞬『そんなヤツいたっけ?』と真剣に考え込んでしまった。

「じゃあ、その高畑さんは今どこで何をしてますか?」

「高畑は……亡くなったよ」

「……やっぱり」


 彼女はなぜ高畑の名前を口にし、なぜ彼が亡くなったと聞き納得したのか。

 それにどんな意味があるのかを類推することは、彼女がここにどんな用事で訪れたのかを知っている私からすれば造作もないことだった。

「つまり、茉千華ちゃんは高畑かれがお姉さんの恋人だったって思ってるの?」

「はい」

 そんなはずなどあるわけがなかった。

 なぜなら水守さんが亡くなったのは去年の夏で、高畑が亡くなったは今年の六月なのだから。

 彼女が自らの命を断ったその理由が『死んだ恋人に会いにいく』ことだとすれば、考えるまでもなくこれ以上の矛盾は存在しない。

「なぜ彼だと? 高畑がその相手だと思ったの?」

 彼女はリュックからおもむろに取り出した封筒をこちらへと寄越す。

 中にはわずか一枚だけ、折りたたまれた紙が入っていた。

「これは?」

「おねえちゃんが『元恋人』に宛てた遺書です」

 妹のしっかりとした文字に比べるといくらか丸みのある字形で、紙の一番上の行にたった一言だけ、こう書かれていた。


『あなたのことは許します。どうか私のことも許してください。』


 再びリュックの中に手を入れた彼女は、輪ゴムで纏められた十数枚からの紙の束を取り出した。

 それはL版サイズの写真で、そこに写る学生服や体操服の人物たちはよく知る顔ばかりだった。

「おねえちゃんのアルバムに貼ってあった写真です。写っている人をみてください」

 言われたとおりに写真をテーブルの上に並べて見比べる。

「……本当だ」

 ほとんど見切れているか遠目に写っているだけだが、その全ての写真に高畑の姿があった。

 そういえば、水守さんが部屋に飾っていたというフォトフレームにも、中央に写る私の斜め後ろに彼がいた。 

「私のお友だちのお兄さんがおねえちゃんと同級生で、その子にお願いしてお兄さんの卒業アルバムを借りてきてもらったんです。それでこの写真の人が高畑さんって人だってわかりました」

 彼女は集めた写真を再び束に戻すると、テーブルの上でトントンと揃えてからリュックに仕舞いながら話を続けた。


「おねえちゃんがうちのポストの中に残した遺書はぜんぶで二通ありました。一通はお母さんと私に宛てたもので、内容はかなたさんも知っている通りのものです」

 おそらくは『死んだ恋人に会いにいく』と書かれていた物がそれだろう。

「二通目は親戚の、特におじとおば宛てです。お母さんと私のことをよろしくといったような内容でした」

「え? じゃあ、さっきのは?」

 存在しないはずの三通目ということになってしまう。

「先週の日曜日でした。赤ちゃんを抱っこした女の人がうちを訪ねてきたんです」

 その女性がどこの誰なのかは、すぐに察しがついた。

「ちょうどその時、お母さんは買い物に出かけていて。そのことをその女の人に言ったら、大きめの封筒を渡してきて。それでその人、髪の毛が地面に着くくらい頭を下げながら言ったんです」


『主人が。高畑が大変なことをしてしまって、本当に申し訳ございません』


 情報をひとつずつ精査しながら話を聞いていた私だったが、さすがにここまでくればもう、水守さんを死に追いやった人物は――本当に高畑だったのだ。

 ただ、相変わらず『死んだ恋人』の意味だけはわからない。

「私にはそれが何のことかわからなかったから、もうすぐお母さんが戻ってくるので家に上がって待っていてもらおうと思ったんです。でもその人、もう一度深くお辞儀をして帰ってしまったんです」


 無責任なことを承知で推し量れば、高畑の奥さんはなけなしの気力と勇気を振り絞り、最低限の責務を全うするために水守家に足を運んだのではないだろうか。

 そして――これも私の想像が外れていなければだが――彼女もまた、高畑の被害者のひとりだった。


「その大きな封筒の中には小さな封筒と、それに見たこともないような金額のお金が入っていました」

 いつの間にかすっかりと表情を失くしていた少女は、三度みたびリュックの中に手を入れる。

「最後のこれは、かなたさんに見てもらうか悩んでたんです。でも、これがすべての答えだから」

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