女神
「遅くなってごめん」
今日に限って入浴に普段の倍近くの時間を掛けてしまった。
そのほとんどは湯船の中から天井を見上げていただけだったはずなのに、入浴前よりも今のほうが疲れているというのだから世話がない。
「それじゃお風呂、お借りします」
洗面所へと向かう彼女の後ろ姿を見送ると、納戸を客室へと変容させるための作業に取り掛かった。
一時間も経った頃、バスタオルを頭に巻いた彼女が洗面所から出てくる。
パジャマ代わりと思しきタイトなTシャツとウルトラミニのショートパンツ姿は、その年代の少女の家着としては特におかしなことはないとしても、細く白く長い両の脚のほとんどが露出した格好に目のやり場が奪われる。
バスタオルで半分ほど隠れたその顔は、長旅の疲れからかひと目で『おねむ』といった様子で、なんなら今すぐにでも膝から崩れ落ちてしまいそうにすら見えた。
「かなたさんごめんなさい。お話って明日でもいいですか?」
どうやら本人にも電池切れの自覚があるようだ。
「うん、今日はもう寝よう。髪の毛、乾かしてあげよっか?」
「……おねがいします」
彼女の黒髪は相変わらず繊細で美しく、濡れた髪束であっても手のひらに乗せた途端に指の隙間からさらさらと流れ落ちていく。
それゆえか乾く速度はすこぶる早く、ブローにはたったの五分ほどしか要しなかった。
もっとも彼女にとってその短い時間は、次々に襲い来る睡魔との熾烈な戦いであったようだ。
三十秒に一度ほどの間隔で小さな口を大きく開き欠伸をすると、そのたびに目尻から大粒の涙をこぼしていた。
「そんなに眠い?」
「……そんなに眠いです」
まるで軸が歪んだ独楽のように右へ左へふらふらと揺れる少女の手を引きつつ、用意しておいた寝床へと誘う。
敷布団の上にうつ伏せに倒れ込んだその背に毛布を掛け、壁のスイッチで照明の照度と色温度を限界まで下げてから部屋をあとにする。
「茉千華ちゃん、おやすみ」
去り際に掛けた声は彼女の耳まで届かなかったようで、返事の代わりに小さく可愛らしい寝息が聞こえてきた。
翌朝に仕上がるように洗濯乾燥機をセットしてから時計を見ると、その短針はすでに日付を跨いで進んでいた。
今年も残るところあと四十七時間と少々だが、特にこれといった感慨が湧いてくるというようなこともなかった。
子供の頃には両親や友達と初詣に出掛けたり、普段は食べることのない無駄にでかいアイスを買ってもらったりと、正月というのは一年の中でもっとも特別な日だったのに、もはやその頃のワクワクとした気分を思い出すことさえ難しい。
「……僕も寝るか」
厚手のフランネル生地の毛布を肩まで掛けて照明を落とす。
あとは眠りが訪れるその時まで、極力何も考えないように注力するだけだ。
今の時期の私にとって、就寝までの僅かなこの時が一日の中で一番の苦痛を伴う時間だった。
何度も寝返りを打ちながら、時には枕の下に腕を突っ込んでみたり掛け布団から膝から下だけを出してみたりと、やっていることは子供の頃から何も変わっていない。
きっと中身も似たようなもので、なんならあの藤田でさえ私よりはよほど大人という可能性もある。
私は自分の年齢を常に頭の隅に置きつつ、それに適した振る舞いを演じているだけの偽りの大人だ。
ただ、最近ではそれすらも無理が出始めているような気がしてならない。
同年代の友人や知人は次々と結婚をし、子を儲け、いつの間にか無責任な若者から責任のある大人になっていた。
私にとっての結婚とは、未だに恋愛の延長線にあるようなものでしかない。
この考え自体が子供のそれなのだという自覚もあったが、その恋愛すらも自分とは随分と縁遠いもののように感じ始めている。
私が人生で唯一愛した女性は、いまや他人のものになってしまった。
刹那ではあったが新たな恋心を予感した相手は、今頃どこで何をしているのだろうか?
そういえば、こんな私のことを好きだと言ってくれている変わり者がひとり、壁を一枚挟んだところで寝息を立てているということをすっかり忘れていた。
聞いたところによれば彼女の姉もまた、こんなくだらない男のことを好いてくれていたことがあるという。
何ともまあ、もの好きな姉妹がいたものだ。
今後もし彼女らの母親と話す機会があったとしたら、『あなたの娘さんは少し特殊な嗜好を持っているので注意してあげてください』と進言してあげよう。
というか……ようやく……おやすみなさい……世界。
『……たん』
……。
『かなたん』
なあに?
『かなたんはママのこと好き?』
うん! ぼくままのことだいすき!
『叶多』
なあに?
『叶多はパパのことが好きか?』
うん! ままのつぎにすき!
『……パパは叶多のこと、ママと同じくらい好きだよ』
無垢なる存在の過去の私が無邪気な問を投げかけた父を少なからず傷つけてしまった気がするが、これもきっと実際にあったシーンではないのだろうから、どうか許してやって欲しい。
それはそうと、私はいま自身が置かれているこの状況を理解できている。
即ちこれが例の
いずれにせよ理解ができたところで、この世界に於いての私は傍観者に徹することしかできないことに変わりはなかった。
父と母が語りかけている『叶多』と『かなたん』は、私であって私ではないのだから。
『かなたん』
ままなあに?
『かなたんももうすぐお兄ちゃんになるんだから好き嫌いなくさないとね?』
うん! にんじんたべれるようになるね!
『ピーマンもね?』
『叶多』
ぱぱなあに?
『お兄ちゃんになったら妹のことをしっかり守ってあげるんだよ』
うん! ぼくおにいちゃんになったら――
何百回と見てきたこの夢にして、こんなシーンに遭遇したのは初めてだった。
それに私は生粋のひとりっ子であり、妹などいなかった。
『かなたん』
お母さん、なに?
『かなたんは今、しあわせ?』
ごめん、お母さん。
それは僕にもわからないんだ。
『叶多』
お父さん、なに?
『お前には本当にすまないことをしたと思ってる』
お父さん、違うよ。
ぜんぜん違うんだよ。
僕はお父さんとお母さんのおかげで、今もこうして生きているんだから。
『叶多』『かなたん』
お父さんお母さん、なに?
『愛してるよ』
僕もだよ。
僕も愛してるよ。
生んでくれてありがとう。
守ってくれてありがとう。
でも。
でも、ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
僕はあなたたちからもらったこの大切な命を、正しく使うことができていない。
僕はあなたたちからもらったこのかけがえのない命を、まったく無駄にしてしまっている。
胸が張り裂けるような激しい慟哭に襲われる。
涙で顔がぐしゃぐしゃに濡れ、それが幼い私に覆いかぶさり殺された母の血の温もりを呼び覚ます。
これは夢だとわかっているのに。
すべてがもう、取り戻せないことだと知っているのに。
苦しい。悲しい。寂しい。つらい。助けて。
助けてくれるのであれば何でもするから。
その手段として必要なのであれば、殺してくれてもいい。
そんな矛盾した考えを抱くほどに夢の中で絶望しかけた、その時だった。
温かく柔らかな何かが涙にまみれた私の頬に触れた。
感触からしてそれはおそらく手のひらで、大きさからいって女性のもののように感じた。
母だろうか?
いや、違う気がする。
伯母だろうか?
それも違う気がする。
そうだ。
目を開けば、夢から覚めてしまえばいいのだ。
そんな単純すぎる気づきを即座に実行に移す。
実際のところそれは思っていた通りに簡単で、その途端に世界が光で溢れた。
薄くひらいた目に飛び込んできたのは母でもなければ伯母でもなく――膨大な数の英単語であった。
試しにそのうちのひとつを声に出して読み上げる。
「……アイラブユー」
「えっ? あ、ありがとうございます……」
声のした上の方向に顔を向ける。
そこにいたのは、やたらとポジティブな英単語が大量にプリントされたTシャツを身にまとった、とてもよく知った少女だった。
彼女はまるで茹でたてのカニのように顔面を真っ赤に染めあげ、黒く大きな瞳を潤ませて私の顔をじっと覗きこんでいた。
「茉千華ちゃんが起こしてくれたの?」
「あ、ごめんなさい。あの、お手洗いに行った帰りにお部屋のまえを通りかかったら、すごくうなされていたみたいだったので」
彼女の頭には月桂冠は載っていなかったし、手にイージスの盾を携えているわけでもなかった。
が、私にとっては紛うことなく救いの女神だった。
「とても……とっても怖い夢をみていたんだ」
よく覚えてはいなかったが、間違いなく今までみた中で最悪の悪夢だった。
「かなたさん、おおきな声で『助けて』って言ってました」
「……助けてくれてありがとう」
もしかして今の『ありがとう』は、私の人生で一番の『ありがとう』だったかもしれない。
もし彼女が私のことを起こしてくれなかったら。
そう思っただけで恐怖に体が震えそうになる。
「あの、叶多さん」
「……なに?」
「一緒に寝たいです」
「……うん。僕もそうしてほしい」
シングルベッドの壁際のスペースに彼女がすっぽりと収まったのを確認してから照明を消し布団に戻る。
「かなたさん、もうちょっとだけ下にいけますか?」
「あ、ごめん狭かった? って、下?」
「はい。三〇センチくらい下です」
指示に従い布団の中を毛虫のようにもぞもぞと下方に移動する。
「あ、そこで大丈夫です」
そう言うやいなや、彼女は私の頭をその細い両腕で抱え込んだ。
まだわずかに残っていた恐怖心が、彼女の温かさと柔らかさで上書きされる。
「苦しくないですか?」
「……うん」
「狭くないですか?」
「……うん」
「眠れそうですか」
「……」
「かなたさん?」
「……」
「……おやすみなさい」
暖かなひだまりの中、私を胸に抱いた母の傍ら。
旅行雑誌を手にした父が『次は叶多をどこに連れてこうかな?』と大はしゃぎしている。
『ねえパパ? かたなんが起きちゃうからちょっと静かにして?』
『……はい、すいません』
母に割りと真面目に叱られた父は、気の毒なくらいあからさまに肩を落とす。
それはどこにでもありそうで、それでいてなかなかお目には掛かれない幸せな光景だった。
お父さん、お母さん。
愛してくれてありがとう。
あなたたちにもらったこの生命を、僕はもっと大切に使えるように頑張ります。
だからどうか、目が覚めたあとにもこの幸せな気持ちが、ほんの少しだけでも残っていますように。
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