不治

 駅前のファミレスに寄り夕食を済ませ、自室に戻ってきた頃には二十時を少しだけ回っていた。


「……おじゃまします」

「どうぞ。ソファーにでも座ってて」

 彼女に聞きたいこと山ほどあったが、再会してから今に至るまでの間で聞き出せたのは二つだけだった。

 一つは母親の容態であり、こちらに関しては話に聞く限りもう心配ないようだ。

 よくよく聞いてみると、もともと本人が希望しての入院だったようで、八月の末に仮退院で様子見をした結果、その後たったの二日で退院し、九月の半ばにはもう復職したのだという。

 もう一つは私の居住地を調べた方法だが、こちらのほうは非常にシンプルで、単に家族に内通者がいただけだった。


 ――こんにちは! あの、年賀状を出したいのでかなたさんの住所を教えていただけますか?

『失礼ですけど、あなたは?』

 ――はい。かなたさんの同級生で水守といいます。

『同級生って、同じ学年の?』

 ――はい。その同級生です。

『ごめんなさいね。高校生くら……随分とお若く見えたから』

 ――ありがとうございます。よく言われるんです。

『ねえ、ところで水守さん。うちの子とはただのお友達? それとも』


 ちなみにこれは私の想像上のやり取りでしかないが、当たらずといえども遠からずといったところだろう。


 指示通りにソファーの隅にちょこんと腰掛けていた彼女に、冷蔵庫から出してきた緑茶のボトルをキャップを緩めてから手渡す。

「ありがとうございます。いただきます」

 こきゅこきゅと喉を鳴らしながらボトルに口をつけた彼女だったが、その大きな瞳は空席をひとつ挟んで隣に座る私のことを捉え続けていた。

「ん? どうかした?」

「あ、いえ」

 そう言いつつも、やはりじっとこちらを見つめたまま、手探りでペットボトルの蓋を閉めたのだった。

「もしかして僕の顔に何かついてるとか?」

「違います。あの、ひとつだけ聞いてもいいですか?」

「なに?」

 真っ直ぐに私の顔を覗き込むその瞳は、まるであの田舎の町の夜空のように深く澄み切っていた。

「私とかなたさんが最後に会ってから四か月ちょっと経ちます。その間、かなたさんはどんなことを考えていましたか?」

「ん。最近はぜんぜん旅行に行っていないなとか、そんなことを考えながら普通に仕事ばっかりしてたよ」

 口に出して初めて、そんな説明で事足りてしまうような日々を送っていたことに気づき、我がことながらぞっとしてしまった。

「……かなたさん、国語の成績ってどうでした?」

 質問はひとつだけ、という話ではなかったか。

「それほど良くはなかった、かな?」

 彼女は心底残念そうに「やっぱり」と言うと、その小さな肩を大きく落とす。

「やり直しますね。質問の意図を汲み取って回答してください」

 唐突に国語の授業が開始される。

「私はこの四か月間、毎日かなたさんのことを考えていたし、かなたさんに会いたかったです」

「はあ」

「では問題です。かなたさんはどうでしたか?」

 追試はメチャクチャ難易度が下げられていた上に、明らかに回答が誘導されまくっていた。

「僕もずっと心配だったよ」

 デキの悪い生徒のチンプンカンプンな回答に、幼い教師は落胆の色を隠しきれない様子だった。

 彼女はおもむろに立ち上がると、羽織ったままだった真っ赤なコートをするりと脱ぎ捨てる。

 白と黒のストライプTにデニムのショートパンツ姿になった彼女は、手首に着けていた白色のシュシュで長い黒髪をハーフアップに束ね、そして無慈悲にもこう宣言した。

「留年決定です」

 大学の時以来となる、人生で二度目の留年だった。

「って、茉千華ちゃん。そんなことよりも、もっと大事な用事があってここに来たんでしょ?」

 アポイントメントも取らずに。

「あ、はい。それはもちろんお話します。でも、その前にお風呂をお借りしてもいいですか?」

「ああ、うん。じゃあお湯入れるからもう少し待ってて」

 遠路はるばるやってきてくれたのだから、ここに泊めることはとうの昔に受け入れていた。


 浴室の給湯リモコンで湯張りを開始し、来客用のタオルや使い捨ての歯ブラシを洗濯機の蓋の上に出しておく。

 そうこうしているうちに、浴室から湯張りの完了を知らせる機械音声のはつらつとした声が聞こえてくる。

「タオルとかは洗面所にあるから」

「あ! こっちに着いたらお母さんに連絡をする約束してたんでした。電話しちゃうので先にお風呂入ってもらってもいいですか?」

「それはいいけど。ところで今日はどこに泊まることにして出てきたの?」

「去年転校したお友達のところです。あ、女の子のお友達です」

 その補足は必要ではなかったが、それはともかく彼女の母親がいるであろう西の方角に手を合わせ侘びた。


 家の中ではベッドの上に次いで心休まる場所のはずのバスタブの中にいて、何とも浮ついた気持ちで天井のダウンライトを見上げていた。

 姉の死の真相について、彼女はそのすべてを知ったと断言した。

 その発言が真実だったとして、それは彼女と母親の心にわずかばかりでも安寧をもたらすような内容だったのだろうか?

 水守さんの件については、もともと責任の所在などはどこにもなかったのだ。

 彼女の恋人とされる人物が死ななければよかったのは言わずもがなではあるが、そんなことを言い出したら、全人類が無条件で咎人とがびととなってしまう。


 罪という意味では、私の両親――本当の父と母の場合はどうだったろう?

 二人には何ひとつの落ち度もなかった。

 それなのにあの日、あの時間に家に帰ってきたというだけで、凄惨極まりない最期を遂げたのだ。

 悪いのは父と母をその手にかけた犯人であることは間違いない。

 本来、それだけなのことなのだ。

 ただ、当時の私はあまりにも幼かった。

 その時その場所にいながら、何が起きているのかさえ理解できぬほどに。

 年齢を重ね成長するに従い、悪意のない周囲の人たちから断片的に聞かされた情報により、いつしか自身が犯罪被害者だということを知った。

 それは確か小学四年か五年か、そのくらいのことだったろうか。

 その時になってやっと、ある日とつぜん父と母に成り代わり、伯父と伯母が私の家族になった理由もわかった。


 私の父と母は一人息子を猫可愛がりしていたと、今の父と母にそう聞いたことがある。

 我が子を喜ばせるために、毎週末のようにどこかに出掛けていたとも。

 繰り返しになるが、私は当時のことをまったく覚えていない。

 それは私にとって大きな幸運であったのと同時に、小さな小さな不幸でもあった。

 私は犯人のことを、のちに得たわずかな情報でしか知らない。

 それに比べてはっきりとしているのは、両親は私を喜ばせるために動物園に出掛け、帰宅後にあの惨事が起きたということだ。

 もし両親があの日、私のために出掛けてさえいなければ。

 もっと言えば、もし私がこの世界に生まれてきていなければ。

 それがどれ程くだらない『もし』なのかは、いかに私が愚かとはいえ理解はしている。

 なのに年々、この馬鹿げた思考が頭に浮かぶ日が増えていた。

 特にそれが起きた年末の今の時期は、顔すらほとんど覚えていない亡き父と母の夢を毎晩のように見る。

 それは時には春の木漏れ日のような幸せなストーリーであり、時には赤色だけが視界を埋め尽くすような惨劇の場であったりとまちまちだったが、そのいずれもが私の脆弱で不甲斐ない心を強かに打ち据えた。


 さして関係が深かったわけでもない同級生が、その人生に自らピリオドを打ったことを知らされた去る夏の日。

 彼女が遺した『死んだ恋人に会いにいく』という、まるで一行詩のような遺言に私は胸を打たれた。

 それは私自身が幾度となく望んだ結末だったからなのかもしれない。

 私はきっと今夜も、在りし日の父と母の夢を見ることになるのだろう。

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