中原叶多

記憶

『おまたせ、叶多』

 ぱぱおそい!

『かなたん、おしっこは?』

 いい! ままもはやくはやく!


 これは私が三歳か四歳の頃の記憶とされているものだ。

 年の瀬のその日、私たち家族はどこかの動物園に行ったのだという。

 あとになって伯父と伯母からそう教えられたため、この記憶はそのさらにのちに作り出されたものなのかもしれない。

 当時の年齢から考えれば、その可能性のほうが高いだろう。


 きょうのよるハンバーグがいい!

『じゃあ、かなたんが好きないつものハンバーグ屋さんに寄ってから帰ろっか?』

 やったー!

『叶多。帰ったらパパと一緒にお風呂に入ろう』

 うん! もぐってもいい?

『パパがママに怒られちゃうから内緒だぞ?』


 このあまりにも幸せすぎる親子のやり取りも同様で、果たして思い出なのか、はたまた夢の中での物語なのかは定かではない。

 ただ、このあとに起きた出来事が事実であったことは疑いようもない。


 今から二十数年前のこの日の夜、私の父と母は殺された。

 動物園から帰宅して玄関のドアを開けた途端、父は暗闇のなか包丁で滅多刺しにされ、咄嗟に幼い我が子を守ろうとした母もまた、背中に凶器を突き立てられて絶命した。

 検視の際、母の肋骨の間から折れた包丁の刃が丸々出てきたというのは、中学に上がってから当時の新聞記事をネットで見て知った。

 その日以来今日に至るまで、私はただの一度も包丁を握ったことがない。

 犯人は異国から来た出稼ぎ労働者だった。

 空き巣に入った家で物色をしている最中に住人が帰ってきて、パニックを起こした末の凶行だったという。

 若い男だというそいつは犯行直後に自国へと逃亡し、彼の地で逮捕されると代理処罰を受けたそうだ。

 量刑やその後のことはネットで調べてもわからなかったし、それ以上の労力を掛けてまで知りたいとも思わなかった。


 中学にあがった頃になり伯父と伯母からそのことを教えられたのだが、その時には私も自身の家族に起きた悲劇の、そのおおよその内容は知ってしまっていた。

 かといって、一度も見たことのないような神妙な面持ちで話を切り出した伯父と叔母の勇気が無駄だったかといえば、決してそんなことはなかった。

 それ以前の私は、二人のことを『おじさんおばさん』と呼んでいたのだったが、それ以降では『お父さんお母さん』と呼ぶようになり、私たち三人は本当の親子になった。

 元伯父夫婦の現両親は、私のことを実の子のように愛してくれた。

 私も二人のことを本当の親同様に思っているし、感謝しきれないほどに感謝している。

 でも。

 それでもやはり、それですべてが大団円というわけにはいかなかった。


 十代も半ばの頃だったか。

 私は週に何度も実の両親の夢を見るようになった。

 その半分は幸せな夢で、その半分は恐ろしい夢で、その全部が耐え難い悪夢だった。

 目覚めた直後には、まるでゲリラ豪雨にでも遭ったのかというくらいに汗をかいており、枕はもっぱら畳んだバスタオルで代用していた。

 希死念慮きしねんりょというやつを抱くようになったのも、確かちょうどその頃からだった。

 もっともそういった病症があることと、自身に発症したものがそれだと明確に気づいたのは、さらにもう少しだけ経ってからのことになる。

 ただ何かの折りに触れるたびに、自分の心の中に尋常ならざる闇があること自体は気がついていた。

 たとえば、それは感動的な物語に触れた時であったり。

 たとえば、それは家族や友人から親切を施された時であったり。

 たとえば、それは恋人と身と心を重ね合わせている時であったり。

 心がプラスの方向に傾き揺れたその時、ほとんど写真の中の姿でしか覚えていない父と母の顔が思い出された。

 その瞬間、自分がこの世界に存在していることに言いようのない罪悪感を覚えることがある。

 ここ数年、ほとんど顔を出すことのなくなったそれは、今でも私の中に存在し続けているのだろうか?

 もしあるのだとすれば、その所在はきっと心の一番奥のほうなのだろうが、下手に掘り下げでもして、もし見つけてしまっては藪蛇もいいところだ。

 治りかけの傷にできた瘡蓋かさぶたを剥がしたくなるのが人情だとしても、私のそれは触れただけで即座に致命傷となりかねない。


 ちなみにその何年か後、私は金髪の不良少年になるのだが、悲劇としか表現しようのない身の上を知る世間の人たちは皆、同情や哀れみからか白眼視をせずに優しく見守ってくれた。

 実際の話、それは自身の生い立ちの不幸を呪いグレたとかそういうわけではなく、ただ単にバンド活動に傾倒した結果が見た目に反映されたにすぎなかったのだが。

 そんな益体なしの当時の私に暖かく接してくれた諸氏には、大変に申し訳無いことをした。

 今でも思い出すたび、情けなさに打ち拉がれる思いである。

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