桃色

 走り去ってゆく彼女の車を見送ると、長いようで短かった私の夏休みも、ようやくにしてその終わりを迎えようとしていた。

 ところで、芝川さんと七菜の件でよくわかったことがある。

 どうやら私という存在は、大洋の只中を漂う流木か何かなのだった。

 疲れ果て傷ついた渡り鳥たちが、一時ひとときその羽を休める止まり木だと思えば、私はよくやっているほうなのではないか?

 もっともその振る舞いとしては、ひとつも褒められるところなどないのだが。

 もしそうだとしても、少しでも誰かの役に立てたのであれば、潮流に漂いただ朽ち果てるだけよりは余程ましに思えた。

 と、それよりも、彼女が去り際にこっそり教えてくれた『同級生の秘密』によって、こればかりは知ることが叶わないと、そう諦めていた謎がひとつ解けてしまった。

 それは今より十五分ほど前。


「昔からだよね」

 髪を手ぐしで整え身支度をしながら、彼女は相変わらず主語を伴わない文法を用いてそんなようなことを言った。

「昔から?」

「叶多って優しかったでしょ? 特に女の子には」

 それに関しては元より自覚がある。

 よほどの痛手を伴うならともかく、そうでないのなら人に親切にすることを躊躇う理由というものが、私にはまったく思いつかない。

 それはきっと私自身の人生が、周囲の心優しき人々によって支えられてきたからに他ならない。

 その人たちというのは、両親であったり友人であったり恩師であったりとさまざまだったが、とにかく私は彼ら彼女らのおかげで今、こうしてここにいるのだ。

「唯もね。叶多に優しくされて、それで好きになったことがあるって。前にそう言ってたよ」

「なにそれ」

 水守さんとは幼稚園以来の付き合いだったが、そのような気配など一度も感じたことはなかった。

「彼女、『私ってチョロいのかな?』って言って笑ってたよ」

 もし七菜の話が本当なら、その優しくされたというのは幼稚園の遠足の時か、中学の勉強会の時のいずれかなのだろう。

 たったあれだけのことで恋心を抱いたのだとすれば、確かに彼女はそちらの方面に関しては『チョロい』のかもしれない。

 あと、その妹も。

「どうかしたの?」

「あ、いや。それってやっぱり同じ職場にいた時に聞いたの?」

「うん。彼女っておとなしいイメージしかなかったでしょ? でも仕事の休憩時間なんか、私よりもあの子のほうがよっぽどおしゃべりだったんだから。意外じゃない?」

 やはり姉妹は姉妹であったことを知り、そのことが少しだけ嬉しく感じた。

 時を同じくして、頭の中にひとりの女性の笑顔が浮かび上がる。

 果たしてそれは姉の唯か、それとも妹の茉千華だったか。

 彼女ら姉妹の外見があまりに瓜二つであったものだから、ついにその判別はつかなかった。

「とにかくね」

 髪を直し終えた彼女はこちらに一歩二歩と近づくと、さらにこう続けた。

「叶多のことが大好きな女の子が、この町だけでも少なくとも二人はいたってこと……忘れないでいて欲しいな」

 ベッドに腰を下ろした私の真正面で立ち止まった彼女は、まるで我が子を迎えに来た母親のように大きく両手を広げる。

 あの頃よりも若干大きくなった膨らみに顔を埋めた私は、そのぬくもりを忘れないために、最後にもう一度だけ細い腰に腕を回して抱き返す。

「さよなら、叶多」

「……うん」

 さよなら、七菜。


 私にとっての水守唯とは、多くいた同級生のひとりでしかなかったように思う。

 だが彼女にとっての私は、ほんの少しだけ特別な存在だったようだ。

 だとすれば、彼女のスマホにあった履歴の理由は想像できた。

 それは今しがた別れた元恋人と同じで、家族や友人などに到底話すことのできない悩みを抱えた彼女の脳裏に浮かんだのが、友達というには些か縁遠く、それでいてかつてわずかにでも身近な存在に感じたことがあった、私だったのではないだろうか。

 もしも彼女があの日、芝川さんではなく私に電話を掛けてきていたら。

 もしも彼女があの日、私に悩みのすべてを相談してくれていたら。

 私は彼女を、この世界に引き止めておくことができただろうか?

 私は彼女たち姉妹が揃って笑う姿を、見ることができただろうか?

 この世界にもしもなどというものは、概念上にしか存在しない。

 そんなことは誰よりもよくわかっていたはずの私だったが、どうしてもそのありもしない、もしものことを考えてしまう。


 十八時を目前にして、ようやくキャリーバッグに着替えやパソコンを詰め終えると、最後に戸締まりを確認するため家の中を見て回る。

 私がここを訪れた四日前の夕方には、すでに両親は機上の人となって北海道へと向かっていた。

 だがしかし、この家のすべての窓という窓は開け放たれたままであった。

 だからといって、私の性格的にそのまま帰るということはあり得なかったし、なんなら明日の夜にでも母に電話を掛け、その不用心っぷりを咎めようとも考えていた。


 あらかたの戸と窓を見て回ったあと、念のためではあったが浴室の窓の鍵もチェックすることにした。

 以前テレビ番組か何かで、『風呂場は明かりが点いていなければ確実に人がいない穴場である』と、完全に盗人ぬすっと目線の特集が組まれていたことを思い出したからだ。

「風呂場の窓……ヨシ!」

 黄色いヘルメットを被ったイメージで指差し確認をすると、そのまま回れ右をして後ろを向く。

 そのとき視界の片隅に、この古めかしい家にしては妙にパステルな色合いの何かが映ったような気がした。

 首だけを左に四十五度戻してその場所に視線を向けると、洗濯機の上に桃色のクシャクシャとした小さな塊が置かれているのが目に入る。

『お気に入りのシュシュです。次に会う時まで預かっていてください』

 横に置かれたノートか何かの切れ端に書かれたその文字を見た途端、胸に熱いものがこみ上げてくる。

 この町は私のことを嫌っているのかもしれない。

 でも私はいまさらになって、この町に住まう人たちのことが好きだと思えるようになっていた。

 だからまた、きっと帰ってくる。

 その時は今度こそ予め、父と母の予定を確認することにしよう。

 そう心に誓いながら脱衣所をあとにした。


 閉店時刻ギリギリのレンタカー屋に飛び込み車を返すと、大通りを渡ったところにある駅から新幹線に飛び乗る。

 世間ではもう夏休みが終わっていたということもあり、ガラガラの車内には私も含めて五人ほどの乗客しかいなかった。

 窓側の座席に深く腰を下ろし背もたれに身体を預けると、途端に大きなため息が吐き出された。

 前回と今回の二度の帰省は、ともに若くして亡くなった旧友を弔うことが目的だった。

 それなのに蓋を開けてみれば、それ以外のことに振り回される結果となった。

 そのどれもが最終的には平和裏に幕を閉じたのだから、今年の夏休みは有意義だったといってもいいのではないか。

「向こうに戻ればまた、ひとりっきりか」

 四人掛けのボックスシートから見える街並みが、時速二七〇キロメートルの速度に追いつくことができずに現れたのと同時に流れ、そして消えていく。

 それがまるで自分の人生のように見えてしまい、私は慌てて目を閉じると寝たふりを決め込んだ。


 ズボンのポケットの振動に驚き慌てて飛び起きる。

 狸寝入りをしているうちに、どうやら本当に寝入ってしまっていたようだ。

 車窓の景色は相変わらず溶けるような勢いで、前からやってきては後ろへと過ぎ去っていく。

 ポケットから取り出したスマホに寝ぼけ眼を向ける。

 どうやらそれは電話の着信ではなく、ショートメッセージの受信を知らせるものだった。

 その相手はといえば、連絡帳に登録されていない番号からで。


 カレとちゃんと話すことができました

 ぜんぶぜんぶ叶多のおかげです

 本当にありがとう


 その話し合いとやらの結果がどうなったのかについての記述はなかったが、それはもはや赤の他人となった私が知る必要のないことだった。

 ただ願わくば、どうか私の愛した女性ひとが、これからずっと幸せな人生を歩んでいけますように。

 誰に対してでもなく祈りを捧げると、スマホをサイレントモードにしてから再びまぶたを閉じる。

 程なくして意識が失われようとした瞬間、あの田舎の町になにか忘れ物をしているような気がした。

 それが何なのかまでは思い出せなかったが、きっと大して大事なものではないだろう。


『こちらは留守番電話センターです。お掛けになった電話は電波の届かない――』

『あ。もしもし藤田だけど! お前っていつまで休みだって言ってたっけ? もしあれなら今から呑まん?』

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