復讐

 一対一で話している相手にまったく気取られることなく、こうもあっさりと話題をすり替えられるものなのか?

 と、ほんの一瞬だけ感心してしまったが、彼女のそれはただ単に、会話におけるレギュレーションが守られていないだけだ。


「それはもういいよ。終わったことだから」

 自らが発した言葉に強い違和感を覚える。

 今の台詞は被害者が加害者に向けて発する類いのものだ。

 では果たして、私と彼女の関係はそれに該当するのか?

 あの出来事を可能な限り要約すると、つまりは私が彼女に振られただけという、そんな惨めな事実だけが浮かび上がった。

 こんなにも簡単なことを理解するのに、私はまた随分と時間を無駄に使ってしまったものだ。

「七菜と一緒に過ごせた時間は今でも僕の宝物だよ」

 本来であれば、袂を分かつたあの時にでも言うべきだった言葉を、今ここにきてようやく口にする。

 嗚咽おえつを漏らしながら立ち上がった彼女は、幼い子がするように両手の甲で涙を拭い始める。

 心情的にあっては、その背をさするくらいはしてあげたかった。

 だが彼女は今や他人ひとのものであり、さらには幼い子を持つ母親ですらある。


 当事者でありながら部外者でもあった私は、彼女が落ち着くのを黙したままで待った。

 やがてすすり泣きが聞こえなくなると、次の瞬間には足元に落としていた視界の隅にアースカラーのスカートが映る。

「……叶多」

 今日まで私のことを下の名前で呼び捨てる女性というのは、母親を除けば彼女以外にはいなかった。

 そのことに気づいた時、やはり彼女は私にとって特別な存在だったのだと思い知る。

 だが、それも今や昔のことでしかない。

「いい?」

 文脈上この『いい?』は、まだ話したいことがあるという意味だろう。

「いいよ。時間はあるから」

 レンタカー屋が閉まるのは十九時だったはずなので、その一時間前までにここを出ればなんとか間に合う。

 自宅マンションに着くのは深夜になってしまうが、それはこの際もう仕方がない。


「私、カレにね」

 その『彼』という言葉を聞いた途端、凪いで鏡のようになっていた心に波風が立った。

 たとえ彼女とは新たな関係を築けたとしても、恋人を元恋人にせしめたあの男のことだけは、どうやら一生涯許すことができそうにない。

「私、旦那に浮気されてるの」

「……は?」

 彼女の唐突さには慣れていたつもりだったが、限度を超えたそれに思考が追いつかない。

 ベッドの隣に腰を下ろした彼女は、先ほどまで私がそうしていたように、膝の上に置いた手をきつく握りしめると、不穏としかいいようのないその経緯を語った。

 それはフィクションの世界で比較的よく聞くような話だったが、現実でも同じことが起こり得るのかと驚いてしまった。


 彼女がお腹に子を宿したことが判明してからしばらくした頃、彼の様子がそれまでと変わったことに気づいたのだという。

 以前であれば置きっぱなしにしてあったスマホを、肌身離さず持ち歩くようになった。

 それまでは休出などほとんどなかったにも関わらず、月に二度は仕事だと言い週末に家を空けるようになった。

 そして、夫婦の営みを避けるようになった。

 お腹の子がいよいよこの世界にやってくる、その時が間近に迫ったある日。

 風呂に向かった彼がうっかり置いていったスマホを盗み見ることに成功した彼女は、今まで抱いていた疑念のすべてが現実だったことを知った。


「追求はしたの?」

「ううん」

「なんで?」

「……赤ちゃんがいたから。叶多……私ね、本当はこの話を聞いてもらいたくて電話をしたの」

 ほんの数分前に古い確執を捨て去っていた私にとって、その利己的ともいえる告白に憤るというようなことはなかった。

 ――彼女に対しては。

「叶多、私ね」

 彼女の言葉を遮り質問する。

「彼は今どこにいるの? お子さんは?」

「カレはお仕事に行ってて、子供はうちの親に預かってもらってる」

「職場はどこ? 仕事は何時に終わるかわかる?」

 これでは質問ではなく詰問だ。

「なんで……そんなこと聞くの?」

 それはこちらのセリフだった。

 君のほうこそ何故そんなことを聞くのか。

 私にそんな話をすればどうなるかくらい、そんなことくらいはわかる程度には近くにいたはずなのに。

「僕が彼に話を聞いて七菜に教えるよ。その上で、その後のことは二人で話して決めればいいよ」

「違うの!」

「違う? 何が違うの? じゃあ君の見ていないところじゃなくて、目の前で殴りつけたほうがよかった?」

「違くて……そうじゃなくって、それは自分でカレに……」

 子が生まれて何年経つのか知らないが、それができないからこそ苦しんでいるのだろうに。

 俯き黙ってしまった彼女とは対照的に、いつしか私は円形闘技場の雄牛の如く興奮していた。

 もし目の前にちゃぶ台でもあろうものなら、全力でひっくり返した上に窓から放り投げていたかもしれない。


 数分に及ぶ努力の結果、やり場なき怒りをどうにか胸の中に押し込むことに成功した私は、先ほどとは逆にベッドに座る彼女の前に立つ。

「ひとつ聞いてもいい? 七菜はどうしたいの?」

 彼女は当初、私に話を聞いて欲しいと言った。

 それが言葉通りの意味であれば、もう私の役目は終わったことになる。

「叶多にあんなことをした私が言うことじゃないのはわかってるけど。……私、カレのことが許せないの」

「だったらなおさら僕に任せておけばいいよ。べつに殺して埋めたりはしないから」

 彼女はわなわなと震えながら首を大きく横に振る。

「カレに仕返しがしたいの。そうしたら、対等になったらきっと、話し合う勇気も出ると思うから」

「……僕にその片棒を担げってこと?」

 複雑極まりない七菜構文だったが、彼女が言わんとしていることはつまり、こういうことなのだろう。

「叶多にしか……頼めないの」

 私はいったい、どこの誰に対して憤りを感じているのだろうか?

 そこに悪意はないにせよ、私のことを敵討ちの道具のように使おうとしている元恋人になのか?

 その元恋人のことを裏切ったあの野郎になのか?

 そんな奴に愛する女性を奪われた自分自身になのか?

 しばらく考えてみたが答えは結局わからなかった。

 ただ彼女を抱くことで、それらいずれかに抱いているのであろう鬱憤を晴らすことだけはできるような気がした。

「あれ、持ってないんだけど」

「……いい。いらない」


 雨の日に打ち捨てられた仔犬のように、悲しみと怯えの色を潤んだ瞳に滲ませた元恋人を、無言のままでベッドの上に組み伏せる。

 そして、勢いに任せて胸の膨らみに手を伸ばす。

 ワンピースの麻越しに掴んだその部分は、直に触れることのできたあの頃よりも、よほど柔らかく温かに感じられた。

 父と母が寝静まるのを待ち、こっそりと自転車で迎えに行っては、夜が明けるまで飽きもせずに互いを求め合い、ただがむしゃらに生きていたあの頃。

 バンド活動に打ち込み彼女と愛し合うことが、当時の私の生きる意味のすべてだった。

 では、今の私の生きがいとは何なのだろう?

 では、これからの彼女の幸せとは何なのだろう?


 致命的な過ちを犯す寸前に湧き出た疑問は、幸いにも時を待たずにしてその答えまでをも導き出すことができた。

 すでに服の中にまで差し込んでいた手を引き抜くと、かつての恋人の耳元でそっと呟く。

「七菜、僕は君のことが本当に好きだった。いや、今でもきっと好きなんだと思う」

「私も叶多の――」

 その言葉の続きを紡がせぬよう、元恋人の身体を強く抱きしめる。

 まるで初めて抱擁した、あの頃のように。

 あれは確か放課後の教室だったか、それとも昇降口の前にある階段でだったか。

 それは私の人生の中でも、上から数番目に挙げられるようなセンセーショナルな出来事だったはずなのに、今はもう記憶のアーカイブの奥底に埋もれてしまっており、思い出すことすらままならない。

 ただ、それも仕方がないことなのかもしれない。

 ここにいるのはもう、あの頃のふたりではないのだ。


 果たしていま感じているこの温もりは、私と彼女のどちらのものなのだろう。

 そんなこともわからなくなるほど長い時間、私たちは抱きしめ合っていた。

 やがてどちらかともなく離れると、それに少しだけ遅れて口を開く。

「次は必ずアイツを殴りにいくから。でも、そうならないほうが僕的には助かる」

 その時はきっと手加減などできないだろう。

「あの……」

「なに?」

「……ううん、なんでもない。ありがとう、叶多。今日の夜、ちゃんと彼と話してみる」

 その時だった。

 部屋の隅からあまりに聞き覚えがあり過ぎる、例のあのメロディーが聞こえてくる。

「あ、ごめん」

 彼女はまるで脱皮でもするかのように私の腕の中からスルリと抜け出すと、部屋の隅に置かれたバッグの中からスマホを取り出す。

「あ、お母さんからだ。子供がぐずり出したからそろそろ帰ってきなさいって」

「その曲って」

「あ、うん。いまでもずっと大好きなの。ホントにいい曲だよね」

「……そうだね。僕もそう思うよ」

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