河合七菜
七菜
車通りのない道路を渡り切った少女は、ただの一度も振り返ることもなく去っていった。
そのあまりの淡白さに若干の寂しさを覚えたが、それが悪いことかといえばまったく以てそんなことはなく、むしろ心強くすら思えた。
彼女とその家族が安寧を取り戻せるのは、そう遠い日の出来事ではないのかもしれない。
それはそうと、私にはこの町にいるうちにやらなければいけないことがもうひとつだけあったのだった。
ポケットから取り出したスマホを操作してから顔の右に付けると、一度目の呼び出し音が終わる前に先方へと繋がる。
「さっきはごめん」
『ううん。私のほうこそ本当にごめんなさい』
彼女は先ほど『叶多には関係のない話』だと言っていた。
それから察するに、自身に近しい人間には話すことができず、かといって赤の他人には話せない内容なのだと予想できる。
要するに彼女の家庭の話、つまるところは夫婦間で何か問題でも起きているのだろう。
世間一般によく言われる話で、『男は別れた相手との思い出を名前をつけて保存し、女は上書き保存する』というものがある。
私にとって彼女は未だに元彼女として記憶されているが、彼女にとっての私は高校時代の短い期間だけ懇意にした旧友、といった程度なのかもしれない。
私を相談相手として選んだのは、そういった属性が丁度お誂え向きだったから。
この想像のとおりだとしても、それでもやはり私にとって彼女は、ただの他人ではありえない。
受話口の向こう側にいる相手の声に耳を傾ける。
「それで話したいことっていうのは?」
『あれからもう一年以上経つけど、ずっと苦しくって』
ちなみにこれは、私が彼女の話の前半部分を聞き逃したというわけではない。
物事を結論から話す私とは逆に、彼女は昔から独特の文法で思っていることを音声に変換した。
密かに『七菜構文』と呼称していたそれは、本題に入るまでに時間が掛かるのが最大の難点だった。
『誰かに話せば楽になるかもって思ってたけど、こっちにいる友達には話せるようなことじゃなくて』
そんなものは近所の犬にでも喰わせておけばいい。
思わずそう言いそうになるが、彼女にとってその近所の犬というのが、まさにこの私なのだろう。
「僕でよければ聞くよ。ただその前にちょっと車を動かしたいんだ。いま
『あ、うん。実は私もさっきから外に出ててハンズフリーで話してるけど、運転しながらだと恐いから、どこかに車を止め……え?』
「どうかし――」
目と鼻の先を通り過ぎてゆくミニバンのドライバーと目が合う。
『……叶多、帰ってきてたんだ』
「えっと……そのまま一キロくらい真っ直ぐ進んで、公民館のある交差点を右折して。そのあとの道順は覚えてる?」
道順も何も、それ以降はひたすら道なりに進むだけなのだが。
『……いいの?』
「昨夜スマホの充電をし忘れて、バッテリーの残量があんまりないんだ」
それは実際にそうで、つい先ほどバッテリーセーブモードに突入したところだった。
『おじさんとおばさんは?』
「北海道にカニやらホタテやら何やらを食べに行ってて居ない」
『……わかった。ありがとう』
閉業した酒屋で唯一営業中だった自販機で二人分の飲み物を入手すると、すでに見えなくなっていた彼女の車のあとに続いた。
私はよりにもよって、この町で一番会いたくなかった人物を自宅に招こうとしていた。
自分一人が家に帰り、スマホを充電ケーブルに繋いでから電話を折り返せば、それで事が済むのは重々に承知している。
だが、私の然程でもない感度を誇る直感は、『彼女はあてもなく車で彷徨いながら電話が掛かってくるのを待っていたのではないか』と告げていた。
どこともわからない場所に止めた車内で、不安に打ち震えながらいる相手と込み入った話をするのは、私としてもどうにも気が滅入る。
だからといって、どこで誰が見ているかもわからない
瞬時に導き出した回答としては、最良に近かったと思いたかった。
それに――これは自分でも驚いていることなのだが――数時間前に七菜から電話を受けた時、まるでシャツのボタンを掛け違えたようなおかしなやり取りをしているうちに、八年近くも彼女に対して抱き続けていた軽蔑や劣等といったような負の感情が、今この時にも少しずつ薄れていくのを感じていた。
恐らくそれは、本来もっと早くに自然とそうなっているべきものだったはずなのだ。
意固地で幼稚だった私が勝手に錠の掛かった箱に仕舞い込んでいたのは、それこそガラクタのような意地やプライドだった。
すでに鍵はどこかに失くしてしまっていたが、ならば箱ごと捨ててしまえばいい。
今ならばそれができるような、そんな予感もあった。
玄関の前で私の到着を待っていた彼女は、その顔つきや体型こそ当時と変わってはいなかったが、髪型や服装が違うだけで随分と雰囲気が異なって見えた。
ショートカットだった髪はウェーブの掛かったミディアムロングになっており、ひと目で天然素材とわかるアースカラーの服も、当時の彼女の趣味とは真逆ともいえるものだった。
「散らかってるけど」
彼女は部屋に足を踏み入れた途端、首を上下左右に振りながらため息を漏らす。
当時と比べれば家具や小物の類は激減してはいたが、時にはバンドの練習をする私たちを見に、時には密かな逢瀬のために、二年弱で三桁回以上は通っていた場所なのだから、懐かしく思うのは至極当たり前だった。
「ソファーとかは全部片付けちゃったから、悪いけど」
部屋の隅にあったクッションを彼女に手渡し、自分はベッドの縁に腰を下ろす。
そして不躾だと思いつつも、いきなり本題を切り出した。
「で、何があったの?」
「――それで、自分の中に仕舞い込んでおけばいいことだってわかってたけど、どうしても苦しくって」
三十分という時間を掛けて語られた彼女の話の内容は、私が想像していたそれとは大きくかけ離れていた。
しかしそれは、私が知ろうとして手を尽くしたにもかかわらず、結局わからず終いだった真相の一部にも通じていた。
「あんなことになるってわかってたら、無理にでも相手の名前くらい聞いておけばよかった」
彼女はそう言うと、深くため息を吐いて俯いた。
「ところで七菜はさ、水守さんとは仲が良かったんだっけ?」
私が知る限りではそんなふうではなかったし、そもそも彼女らは随分とタイプの異なる種類の人間だったように思う。
「学校に通ってた頃はそんなでも。でも、私も彼女も大学を卒業してからこっちに戻ってきて、それで半年くらいだけだけど同じ職場にいたことがあったから」
そういうことだったのか。
「でもごめんね。叶多には何の関係もないのに」
私にしてみればバリバリに関係のある事柄なのだが、それは彼女の知るところではないし、知らせるべきことでもなかった。
「いいよ。それで七菜の荷物が少しでも軽くなったのなら」
「……ごめんなさい」
「だからもういいって。それに僕も、また七菜と話すことができて良かったって、そう思ってるから」
まさか、自分の口からこんな台詞が出る日が来ようなどとは。
こちらこそ彼女に礼を言いたいくらいだった。
「違くて……そうじゃなくて。あの時、叶多を裏切るようなことをして……本当にごめんなさい」
「え? そっち?」
私は改めて七菜構文の奥深さを知った。
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