今度
「今日もお母さんのお見舞いに行くんでしょ? その前にどこかで朝ごはん食べてからにしよっか」
布団を剥がしながらそう呼びかけると、少女は寝ぼけ眼をゴシゴシと擦りながらおもむろに半身を起こす。
「おはよう」
「……おはようございます」
昨夜は遅くまで起きていたのだから、もう少しくらい寝かせてやりたいところだったが、あまりのんびりしているだけの時間がなかった。
脇の下に腕を差し込み無理やり立たせ、半ば抱きかかえるようにして洗面所まで連行する。
彼女が身支度を整えているうちに、私は私で家の中の片付けでもしておこう。
そう思い立った途端、ズボンのポケットからスマホが鳴き声をあげる。
そういえば何日前だったかに藤田が連絡すると言っていたので、恐らくは彼からなのだろう。
ポケットの中に手を入れスマホを掴むと、禄に画面の確認もせずにスピーカーモードで電話に出る。
「はい、もしもし」
『……あの』
そのか細い声は藤田であるがずがなく、そもそも男性のものですらなかった。
しかしそれでいて、とてもよく聞き覚えのある声ではある。
これは何かの罰なのか?
だとしたら私は一体、過去にどんな大罪を犯したというのだろうか?
茉千華ちゃんに気づかれないように離れの自室へと急ぎ向かい、その途中でハンズフリー機能を解除したスマホを右耳に当てる。
「……七菜?」
『急にごめんね』
私には彼女とする話などなかった。
それはたとえ急でなくともだし、その声も二度と聞きたくはなかった。
言ってしまえば私にとっての彼女は、死んでしまった恋人のようなものなのだ。
そんな彼女をして、用事もなく電話を掛けてきたはずもない。
なぜなら私は彼女にとっての死んだ恋人なのだから、何か止むに止まれぬ事情があるのだろう。
それも私にとって嬉しいはずもないような事情が。
「何か大切な用事でも?」
『去年のいま頃、ニューロマンで会ったでしょ?』
ニューロマンとは地元のスーパーマーケットの名前であり、確かに私たちはそこで偶然再会していた。
「ああ。あの時は悪かったね」
『ううん。こっちこそごめんね』
彼女が用いたごめんという言葉に込められた様々な意味合いが、私のヤワで幼稚な心を傷つける。
「それで?」
『あの時ね、叶多に聞いて欲しいことがあったの』
「聞いて欲しいこと? 僕に?」
意味もなく語順を入れ替え繰り返す。
『叶多には関係のない話なんだけど』
「は? どういうこと? ごめん、まったく意味がわからない」
『……だよね。でも――』
「いいよ聞くよ。つまり話せる相手が僕くらいしか思いつか「あ、かなたさんここにいた!」ごめんあとで折り返すからそれじゃ」
亜音速で通話終了の表示をスワイプする。
「あ、ごめんなさい。お電話中でしたか?」
「……北海道の両親から」
別にやましいことがあるわけではないのだから、そこは普通に『そうだよ』でよかったはずだ。
まったく私という人間は、どこまで矮小なのだろう。
「それで何か用事だったんでしょ?」
「あ、はい。さっき親戚のおばさんから電話があって、お母さんの主治医の先生と話すことがあるから、お見舞いに行くなら一緒にいこうって」
「えっとじゃあ、どうすればいい?」
「お昼ちょうどに高校の校門の前で待ち合わせることになっちゃいました」
右手に握ったままだったスマホで時間を確認する。
高校までは車で十五分ほどだが、朝飯を外で食べるのはさすがにきびしそうだ。
その旨を彼女に伝えて代替案を話し合った結果、少々わびしいながらもカップラーメンで腹を満たすことで合意した。
彼女が親戚と約束をした時間の三十分前に車で家を出る。
十五分取ったマージンは、待ち合わせ場所まで送り届けるというリスキーな行為を回避するためであり、高校から少し離れた場所で別れることになる彼女の移動時間の分だった。
「かなたさんはこのあともう、帰っちゃうんですか?」
助手席から少し身を乗り出した格好で彼女が訊ねてくる。
「いちど家に戻って片付けをしてからだけどね」
「次にこっちにくるのはいつですか?」
いくら益体なしの私であっても、彼女が言わんとしていることの意味はすぐに理解できた。
ただ、彼女が望んでいるであろう回答は、当の彼女にとって最初のわずかな間だけ心地の良い、プールサイドの水たまりでしかない。
「早ければ正月か、それかまた来年のお盆かな」
それとて確約などできなかったのだが、彼女にとっていま必要なのは次にいつ私と会えるかではなく、考えを十分に巡らせ正しい答えを出すための時間なのだ。
「わかりました」
そのあまりの聞き分けのよさに少しだけ胸が痛み、同時に己の身勝手さに心底嫌気が差す。
自分自身すら騙すことのできないペテンに、一体どんな意味があるというのだろう?
「あ、かなたさん。そこで降ろしてください」
そう言って彼女が指を差したのは、高校から数百メートルほどの場所にある酒屋の駐車場だった。
閉められたシャッターの前に幾つもの古いビールケースが積み上げられており、閉業してから短くない月日が経っていることが
私がまだ高校生だった頃にここで買い物をした記憶がある。
あれは確か、二年の文化祭の打ち上げの時だったはずだ。
当時から長寿の雰囲気があった店主の老婆は、まだ健在であってくれているだろうか。
「本当に色々とありがとうございました」
シートベルトを外した少女は、こちらに向き直ると深々頭を下げる。
「お母さんのこととか、これからもしばらくは大変だと思うけど」
それは十代の少女が一人で背負うには、いささか重すぎる荷物かもしれない。
「何かあったらいつでも電話していいから」
もし本当の困りごとだったら、またレンタカーを借りて駆けつけるつもりではいたが、今それを言ってしまっては色々な決意が台無しになってしまう。
「はい。でも、本当に困ったことがない限りは電話はしません。その代わり、次にこっちに来た時にはまた、どこかに連れて行ってください」
それは彼女なりの気遣いだったのかもしれないが、その大きな黒曜石の瞳はやけに真っ直ぐで、ここよりも遥か遠くを見据えているように見えた。
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