吐露
もともと寝付きが悪い方ではあったが、今日のそれは少し異常だった。
掛け布団の端から足を出してはすぐに引っ込め、右に寝返りを打った数分後には天井を仰ぎ見ている。
壁の時計のカチカチという音が妙に大きく聞こえ、そのせいで余計に眠気が遠のいていくような気がした。
いっそのこと電池を外してやろうかと、そう決めたその時だった。
「……かなたさん。もし起きてたらですけど、また手……いいですか?」
『いいですか?』と遠慮がちだった割に、彼女の手はすでに私の布団の端から侵入を開始していた。
あえて返事はせずにこちらから出迎えると手のひらで包み込む。
赤ん坊のような小さな手が、やはり赤ん坊のように私の親指を力強く握り返してくる。
その途端、とてつもない速度で心の中にある水瓶の水位が上昇し、わずかに溢れたそれが目尻から排出された。
それによって私はようやく気づくことができたのだった。
彼女が感じている寂しさや心細さをほんの少しでも紛らわせてあげたいと考えていた私だったが、その実、自分の心の隙間をこの少女に尽くすことで埋めようとしていたのではないだろうか。
本当に寂しくて心細かったのは、きっとこの私自身なのだ。
「かなたさんの手、おっきいです」
それは違う。
君の小さな手のほうがよっぽど大きくて、それに温かい。
「……普通だと思うよ」
「ううん。やっぱりおっきくって、それに温かいです」
「……」
「かなたさんは明日、帰っちゃうんですよね?」
「うん。明後日から仕事だから。茉千華ちゃんは明日もお母さんのお見舞いには行くの?」
「はい。今月の終わりくらいには仮退院できるみたいなので」
「そっか。それはよかったよ」
唐突に終わった言葉のキャッチボールだったが、そのあと数分の沈黙を経て再び口を開いたのもまた彼女だった。
「私、今までの人生で二回恋をしたことがあるんです」
「二回?」
「はい。一度目は幼稚園の時です。おねえちゃんの同級生の男の人でした」
そいつは大した男じゃないよ。
「二度目は今、私の目の前にいる男の人です」
そいつは甲斐性なしで益体なしの碌でなしだ。
彼女には男を見る目というものがまるでないのかもしれない。
「かなたさんって」
「ん?」
「もしお付き合いをするなら、何歳くらいの年齢差までなら許容範囲ですか?」
またしても修学旅行の夜を思い出すようなその質問は、今このシチュエーションに於いては実に答えにくいものだった。
「……プラスマイナス五歳くらい、とか?」
我ながらつまらない答えだということはよくわかっていたが、ここで求められるのはエンタメ性よりも無難さだろう。
「それじゃ四年後にハタチになる女の子は?」
やけに具体的な数字の意味には敢えて触れずに答える。
「それだと僕は二十九だから、二十歳の子からしたらもうオッサンなんじゃないかな」
ぎりぎりバレない程度のボール球で空振りを誘うが、彼女はバットのグリップを短めに握り直して打ちにくる。
「はい? 二十九歳ならぜんっぜんおじさんじゃないと思います」
しかも少しだけ怒り気味に。
「全然オッサンだよ」
売り言葉に買い言葉で、うっかり全国の二十九歳を敵に回すような物言いになってしまった。
「じゃあ、もしですけど。私のおねえちゃんが生きていたとして、四年後にかなたさんとどこかで会ったとします。今、おねえちゃんのことおばさんだと思いましたか?」
「おも……思わない」
軽快な打撃音にわずかに遅れて頭上を軽々と超えて飛んでいく白球を目で追う。
「じゃあ私がハタチになって、それでその時かなたさんに恋人がいなかったら……お付き合いしてくれますか?」
それは本来であれば即答できる程に軽い内容の質問ではなかったのだが、この場に於いて最適とされる回答はこれしかなかった。
「うん。その時にまだ君がそう思ってくれていたらね」
「本当ですか? 絶対ですよ? 約束しましたからね? あと明日の朝でいいので一筆ください」
口約束でも契約は契約なのだが、さらに一筆取られるとなると重みもまた違ってくる。
もっとも、仮にいま彼女が本気であったとしても、四年後にはその約束手形の効力も消えていることだろう。
二十五歳の私にとっての四年後が今というこの時間の延長上にあるのに対し、十代半ばの彼女の四年後はといえばすでに別の彼女の人生といっても過言はない。
でなければこうも軽々しくサインをする気にはならなかった。
子供じみたやり取りのあと三度目の沈黙が訪れる。
そういえばまだおやすみの挨拶をしていなかった気がする。
もしかしたら彼女はもう、眠りの淵に落ちかけているのかもしれない。
寝返りを打つふりをしてそっと彼女の布団のほうに首を向けた私だったが、直後には我が目を疑うこととなった。
それは音も立てずに、いつの間にかすぐ目の前にまで迫っていた。
そして次の瞬間には私の布団の中へと、その小振りで華奢な体を潜り込ませてくる。
さらに私の身体と腕の隙間に強引に割り込むと、『しめしめ』といった様子で漸くその活動を停止したのだった。
「……自分の布団に戻ってもらってもいい?」
「もう寝てますから話しかけないでください」
「……はい」
「おやすみなさい」
顔のすぐ下にある長く艶やかな黒髪。
それは、彼女がそういった対象でないことを理解した上で尚、私の心の水面に大きな波紋を広げた。
私が今、こうして彼女の傍らにいるのはなぜだったか?
最愛の姉を亡くしたうえに、たった一人の家族になった母とも離れて日々を送っている、彼女の寂しさを紛らわるためだったはずだ。
それなのにこの有様では、それらのすべてが私の独りよがりだということを認めるようなものではないか。
それどころか自身に都合の悪いことまでもを、十歳近くも年下の少女に転嫁しようとしている。
そのことを侘びたい気持ちと、それすらも保身のための言い訳であるという後ろめたさが混在していたが、そのどちらもが私の本心であり、今だけは自分にも彼女にも嘘をつきたくないと思った。
「茉千華ちゃん。できれば熟睡したままで聞いて欲しい」
「観覧車を降りたあとに君が言ってくれた、あの言葉だけど」
「本当は、すごく嬉しかった」
「……よかったです」
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