吐露
もともと寝付きは良くなかったが、今日は特にそれが顕著だった。
壁の時計のカチカチという音が妙に大きく聞こえ、そのせいで余計に眠気が遠のいていくような気がした。
いっそのこと電池を外してやろうかと、そう思い始めた時のことだった。
「……かなたさん。もし起きてたらですけど、また手……いいですか?」
『いいですか?』と遠慮がちだった割に、彼女の手はすでに私の布団の端から侵入を開始していた。
あえて返事はせずにこちらから出迎える。
赤ん坊のような小さな手が、やはり赤ん坊のように私の親指を力強く握り返してくる。
「かなたさんは明日、帰っちゃうんですよね?」
「うん。明後日から仕事だから。茉千華ちゃんは明日もお母さんのお見舞いには行くの?」
「はい。今月の終わりくらいには仮退院できるみたいなので」
「そっか。それはよかった」
唐突に終わった言葉のキャッチボールだったが、そのあと数分の沈黙を経て再び口を開いたのもまた彼女だった。
「私、今までの人生で二回、恋をしたことがあるんです」
「二回?」
「はい。一度目は幼稚園の時です。おねえちゃんの同級生の男の人でした」
そいつは大した男じゃない。
「二度目はいま手をつないでいる男の人です」
「……」
かなしいかな、彼女には男を見る目というものがまったく備わっていないようだった。
「かなたさんってもしお付き合いをするなら、何歳くらいの年齢差までなら許容範囲ですか?」
またしても修学旅行の夜ライクなその質問は、今このシチュエーションに於いては実に答えにくいものだった。
「うーん……。相手の人の年齢がハタチを超えていれば特に気にしないかな」
我ながらつまらない答えだということはよくわかっていたが、ここで求められるのはエンタメ性よりも無難さだろう。
「じゃあ私が二十歳になって、それでその時かなたさんに恋人がいなかったらお付き合いしてくれますか?」
「その時にまだ君がそう思ってくれていたらね」
それは本来であれば即答できる程に軽い内容の質問ではなかったのだが、この場に於ける最適解はこれしかなかった。
「本当ですか? 絶対ですよ? 約束しましたからね? あと明日の朝でいいので一筆ください」
口約束でも契約は契約なのだが、さらに一筆取られるとなるとその重みもまた違ってくる。
もっとも仮にいま彼女が本気であったとしても、その頃には約束手形の効力も消え、ただの紙切れになっていることだろう。
二十六歳の私にとってのその時が、今というこの時間の延長上にあるのに対し、十代である彼女の時間の流れからすれば、すでに別の人間の人生だといっても過言ではない。
でなければこうも軽々しく、こんな重大な契約書にサインなどするものか。
子供じみたやり取りを終えると、本日三度目の沈黙が訪れる。
そういえばまだおやすみの挨拶をしていなかった気がしたが、もしかしたら彼女はもう眠りの淵に落ちかけているのかもしれない。
寝返りを打つふりをして、彼女の布団のほうに身体を向けたる。
するとそれは音も立てずに、気がつくとすぐ目の前にまで迫っていた。
そして次の瞬間には、私の布団の中へとその小振りで華奢な体を潜り込ませてくる。
「自分の布団に戻ってもらってもいい?」
「……」
「茉千華ちゃん?」
「……寝てるので話しかけないでください」
「じゃあ、せめて枕は持っておいでよ」
布団の中から白い腕がスルリと伸びると、隣の布団から音もなく枕を奪い去る。
その光景は若干ホラーだった。
昨日の昼間に自宅から持ってきたのだろうか。
花と柑橘を足して二で割ったようなシャンプーの匂いが香ってくる。
それは彼女がそういった対象でないことを理解した上で尚、私の心の水面に大きな波紋を広げた。
私が今こうして彼女の傍らにいるのはなぜだったか?
最愛の姉を亡くしたうえに、たった一人の家族となった母とも離れて日々を送っていた彼女の寂しさを紛らわるためだったはずだ。
それなのにこの有様では、それらのすべてが私の独りよがりだということを認めるようなものではないか。
それどころか自身に都合の悪いことまでも、彼女の気持ちに転嫁しようとしている。
そのことを侘びたい思いと、それすらも保身のための言い訳であるという後ろめたさが混在していた。
しかしそのどちらもが私の本心であり、今だけは自分にも彼女にも嘘をつきたくないと思った。
「できれば眠ったままで聞いて欲しい。観覧車を降りたあとに君が言ってくれた言葉だけど……本当はすごく嬉しかった」
少女から返事が返ってくることはなかった。
それは私の期待したところであったはずだが、なぜだか少しだけ残念なような気もした。
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