侵入

 復路の車内は往路とは打って変わり、彼女はじつに言葉少なだった。

 日中に掛けた電話で同級生たちから入手した、情報としてはほとんど価値のないその内容を報告すると、彼女は視線を車の進行方向へと向けたまま相槌を打った。

 半分以上が空きテーブルのファミレスで手早く食事を済ませ、無事に帰宅したのは日付が今日から明日へと変わる直前だった。

 暗闇のなか干したままになっていた洗濯物を取り込み、湯の張られていない浴室でシャワーだけ浴びると、帰宅からわずか四十分で寝る準備が整う。

「茉千華ちゃんもお風呂にいっておいで。お湯は入れてないからシャワーだけだけど」

「あ……はい」

 二十代も半ばの私に比べれば、無限ともいえる体力を有しているであろう彼女も、母の見舞いや長距離移動、それに遊園地ではしゃぎ過ぎたためか、顔色と口調にありありと疲労の色が見て取れた。


 彼女が風呂に入っている間、ショートメッセージで返信をくれていた何人かの同級生に、翌朝届くよう予約投稿設定でお礼をする。

 文字として寄せられたそれらにも、これといって有用な情報はなかった。

 ただ、皆が意外と――と言ってはなんだが――水守さんの件を気にかけていたことを知ることができた。

 私が参加しなかった一月の同窓会でも、在りし日の彼女の思い出話に女子たちは涙を流していたという。

 それを知ることができて『良かった』などと思ってしまった私は、改めて自分は偽善者であり部外者なのだという認識を深めた。


 最後の一人にメッセージを打ち終えたのとほぼ同時に、濡れ頭にタオルを巻きの少女が目の前に現れ、湯上がりで普段よりもさらに潤いを増した唇を静かに動かす。

「かなたさん。髪、乾かしてください」

 私は自分の耳を疑った。

「ん? ごめん、なんて?」

「髪の毛、乾かしてください」

 驚いたのは彼女のその言い方だった。

 私が保有する極小容量の『水守茉千華言動データベース』からすると、こういったシーンでは『ください』ではなく『くれますか?』もしくは『くれませんか?』が用いられたはずだった。

 この機微たる差の意味するところを知るには本人に訊ねるほかはないのだが、そこまでして知りたいとまでは思わなかった。

 それにいずれにせよ、私に叶えられる望みであれば叶えてあげればいいだけのことだ。

「じゃあ、こっちにおいで」


 ダイニングから拝借した椅子を洗面台の前に置き、そこに彼女を座らせる。

 女性の髪をドライヤーで乾かすという経験はなかったのだが、長髪時代の自分の髪にやっていた時と同じようなプロセスを適用すれば問題ないだろう。

 頭頂部の根本から始めて毛先は最後に乾かすといいらしいというのは、当時付き合っていた女性に教わった方法だ。

 その彼女も美麗な髪の持ち主だったが、眼の前にいる少女のそれは、紡ぎたての絹糸を何本も束ねたような繊細さと輝きを持ち合わせていた。

 まるで何億円もするような美術品を扱うように、左手で小房程度の髪束を取ると、遠くから温風を当ててゆっくりと乾かしていく。

 頭の天辺から徐々に下へ下へと施すそれに、まるで初めての相手に愛撫をしているような愛おしさを感じた。

 それがおよそ少女に抱いていいような感情でないことくらいは、いくら愚かな私であってもよくわかっている。

 しっかりと乾かしたはずなのに、まだ濡れているような艶を放つ黒髪をブラシで整えると、最後に両サイドの垂れた髪の房を耳の後ろに軽く引っ掛ける。

 その時、うっかり指の先が小さく柔らかな耳たぶに触れてしまう。

「あっ」

 濡れたように艷やかな唇から、少女が発したとは思えないような官能的な音が漏れ聞こえた。

「あ、ごめん」

「……いえ。私のほうこそ、その……ごめんなさい」

「……そろそろ寝ようか」


 客間の壁際に積まれていた二組の布団のうち一組だけを展開し、その上に洗いたての白いシーツを被せる。

 その様子を少し離れたところで見ていた少女だったが、しばらくすると部屋の隅までとことこと歩いていき、もう一組の布団を広げて隙間なく繋げた。

 正直にいえばだが、この展開になることは予想済みだった。

 そして、そうなった場合に備えての台詞も用意済みだった。

「先に布団に入ってて。電気消すから」


 常夜灯の仄かな光がペンダントライトのシェードを透過し、天井板にオレンジ色の不思議な模様を浮かび上がらせる。

 それは例えば、野山の遠景ようにも見えるし、夏の雨上がりの水たまりのようにも見えた。

 幼い頃、父と母とに挟まれて川の字で寝ていた時にも、これと同じような光景を飽きずに見ていた記憶がある。

 その二親はといえば、カニやらホタテやらイクラやらウニやらを食べに北海道まで出掛けている育ての親ではなく、私が四歳の時に起きた事件でこの世を去った生みの親のほうだったと思うが、物心がつくかつかないかのことなので定かではない。

 ただ、今のようにふいに掬い出される夢とも現実とも判断のつかない朧気な記憶は、二十年以上もの歳月を経へてもなお私の心の喫水線を越え、自然と両の目から涙を溢れさせた。


「……かなたさん?」

 もう寝ているものだとばかり思っていた隣人から声を掛けられ、慌てて目元の雫を手の甲で拭う。

「欠伸が出るばかりで寝れなくて」

「私もです。少しだけお話しませんか?」

「……そうしよっか」

 小さな「よいしょ」とともに体をこちらに向けた少女は、やはり小さな声で突然こんなことを言い出す。

「お互いに秘密にしていたことを告白しませんか?」

「……なにそれ。修学旅行の夜じゃないんだから。それにそもそも僕には秘密なんてないし」

 正確には『他人に話せるような安い秘密はない』という意味だ。

「まずは私から話しますね」

 それはものすごいスルー力だった。

 水守茉千華というこの少女は、基本的には素直でいい子なのだが、今のように強硬な性質を見せることが時折あった。

 それは言い換えれば逞しさであり、一概に悪いことではないのかもしれない。

 が、女性に強く出ることが苦手な私にとっては少々厄介でもあった。


「昨日の夜、私が先にお風呂に入らせてもらったじゃないですか?」

「ああ、うん。そういえばそうだったね」

「事件が起こったのは次の日の――今日の朝のことでした」

「事件?」

 確かこの催しは秘密の暴露大会ではなかったか?

「……下着、お洗濯してくれてありがとうございました」

 なるほど、それは彼女からすれば確かに大事件だったのだろう。

「茉千華ちゃん。世間一般ではそれは『秘密』じゃなくて『やらかし』って言うんだよ」

「いえ。秘密にしていたのはここからです。本当はこのまま誰にも言わずにお墓まで持っていこうと思ってたんです。でもそれだときっと毎晩思い出して恥ずかしくなるだろうから」

 恥ずかしい秘密ともなれば、まさにこういった夜会にはうってつけなのだろうが、年齢からすれば気丈にも思える彼女をして、そこまで思い詰めるような秘密とはなんなのだろう?

「その秘密とは?」

 少しだけだが興味が湧いてきた。

「私」

「うん」

「昨日の夜にお風呂を出てから、今日のお昼に家に帰って着替えるまで」

「うんうん」

「ずっと」

「ずっと?」

「下着をつけていませんでした」

「……」

「以上です」


 十何時間か前の私が抱いた懸念――彼女は下着の替えを持っているのだろうか問題――の的中が今ここに証明された。

 彼女は唯一無二であったそれをうっかり脱衣場に忘れてしまい、不幸にも私に発見されると洗濯されてしまった。

 もちろんこれは私の想像に過ぎないが、概してこんな感じだろう。

 ゆうべ彼女は地肌に体操服の短パンで就寝し、今朝から昼までに至ってはのノーパ――未着用でセーラー服を身にまとい、あまつさえ母親の見舞いにまで行っていたのだ。

 いやはや大した胆力である。

 あと風が強い日でなくてよかった。

 いや本当に。


「なかなか興味深い話だったよ。それじゃあそろそろ寝――」

「次はかなたさんの番です」

 間髪をいれずこちらに銃口が向けられる。

「僕には秘密なんてないよ。パンツだってしっかり履いてるし」

「……私はちゃんと話したのにズルいです」

 それとて誰が頼んだというわけでもなく、自ら名乗りを上げただけだろうに。

「……じゃあ、イッコだけだからね」

「わーい! どんな秘密ですか?」

「茉千華ちゃんのそれが事件だったなら、僕のこれは事故みたいなものなんだけど」

「え? 事故ですか?」

「うん。今日……じゃなくてもう昨日か。茉千華ちゃんの家に着替えを取りに行った時にさ。茉千華ちゃんのあとに続いて階段を上ってる時、うっかり顔をあげちゃったんだよ。そうしたらスカートの中――」

「きゃああああああああ!」

 少女の悲鳴が闇夜をつんざく。

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

 私とてこんな話などしたくはなかったのだ。

 なんなら今日の昼間に目撃したあれは見間違いだったのだと、ほんの一分前まではそう信じていたのに。

 心中を察するに大変気の毒に思うが、藪をつついて蛇を出した己の軽率な行いの報いとして、今宵の彼女は枕を濡らして眠ることになるのだろう。

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